少年が果たした約束、小さなお店のお話。
小さなお店でした。深緑色に塗られた入口のドアには、外側に太陽と鬱金花の金の紋章が、内側には、月と星と、月下美人が銀で描かれています。
扉をギィィと開けると、ジャラランと、涼やかなドアベルが鳴ります。
お店の中は何時も薔薇の花が飾られているので、花の香りがあり、そして混じる葉巻と洋酒、紅茶と甘いケーキの匂いが合わさり、不思議と心に残る『お香』の様に姿を変えて、壁や樫の床にも、染み付いています。
「いらっしゃいませ」
背筋をしゃんとし、蝶ネクタイがよく似合う店主が、カウンターの向こうから、今入ってきたお客様に、柔らかく声をかけました。
「あの、えとえと……こ、こんにちわ……」
ランドセルを背負った男の子は、ドキドキしながら頭を下げました。
「どうぞ、席についてください」
ぴかぴかのグラスを、キュッと、白いリネンで拭きながら店主は、少年に片手を目の前の席へ示します。
「え!あ、でもお金持ってない」
ぴょこんと頭を上げるとそう答えます。学校には持っていっては行けない決まりです、そして、家に置いてある、彼の貯金箱を壊しても、中にはこんな大人のお店で注文できるだけの、お小遣いは入っていません。
「じゃあ、大きくなったら、払ってください、今はお貸ししておきましょう、ランドセルはおろしてくださいね」
にこにこと笑顔で話す店主を見ていると、少年は優しかった、田舎の祖父を思い出しました。そしてもじもじもじしながら考えます。
――、どうしようかな、優しそうなおじいさんだけど、物凄く高かったらどうしよう。このまま外に出ようかな……、でも外にはおまわりさんがいたら、子供がこんなお店にって、捕まっちゃうかも知んない……。
うつむいて考えます。たくさん考えて、大きくなったら……大人になったら払えるよね、と少し勇気を出してみます。
それはこのお店の、不思議な香りにまるで魔法にかけられた気分になったからかもしれません。
ちらりと見た、緑の扉の内側に、描かれている銀の絵に、ここで休めばと、言われた様な気がしたからかもしれません。
それは今日、学校に行きたくなく、そして世の中全てが嫌になり、トボトボ歩いていた自分とお別れしたかったからかも、しれません。
混ぜに気持ちがざわざわとし、コクリと頷くと、言われた通りに、背の高い椅子の一つにランドセルを置くと、よいしょっと隣の席に座ります。
「ご注文をお伺いいたしましょう」
手渡されたおしぼりで手を拭いていると、そう聞かれた少年です。またドキドキが始まりました。冒険者になったみたい、初めて一人で、電車に乗った時の事を思い出しました。
……、目の前の壁にはくすんだ色をした紅茶の缶やら、透明なガラス瓶に入れられた木の実や、乾かした花びらみたいなの、それにお酒の瓶が沢山に、きちんと並べられていて、何を頼んでいいのかわかりません。
首をかしげていると、美味しいチーズケーキがありますよ、暑いですからね、アップルティーの冷たいのは如何で御座いましょう?と、目の前から、丁重に勧める声がしました。
「あ、うん、え、はい、それ……にします」
差し出された手に、使ったおしぼりを返すと、ふるり、身体が震えて背筋が伸びました。お店に入るのも、注文を聞かれ頼むのも生まれて初めての経験です。大人みたいだ、と思いました。
カチャカチャと食器の音がします。少年は物珍しく、天井を小さな絵や、扉のそれももう一度眺めます。古いポスターで飾られた壁を眺めて待ちました。
静かなお店です。何時も家族で行く、ファミレスの様な、賑やかさはここにはありません。ひとしきり見ると、何処を見てたらいいのか、わからなくなり、緊張をし、椅子の上で石のように固まってしまいました。
カチャカチャと用意をしつつ、手持ち無沙汰なお客様に気がついた店主は、一度手を止め、レコードをかけましょうと音楽を流し始めます。
澄んだ歌声に、ホーヤ、ホヤと楽しい掛け声、囃子声、手拍子、ウキウキと楽しくなるリズム。ホーヤホヤ、と一緒に声を出したくなる様な曲です。
「お待たせしました。ケーキセットです」
ランチョンマットを敷かれ、真っ白なナフキンは、
シルバーのリングに通されてます。籠に入った銀の食器が置かれました。そして紺色の薔薇と、白い花のワイルドストロベリーが描かれた、金縁の皿がコトリと出されます。
綺麗に盛り付けられている、チーズケーキや、カットされた、苺にメロンにぶどうにバナナ、ふわふわなホイップクリーム、とろりと光るチョコレートソース、ビスケットが一枚添えられていました。
ストローを差している、透き通ったグラスは、丸いコースターの上に置かれました。
細かい氷がいっぱい詰められ、ちょこんとミントの葉っぱが乗せられている、琥珀色した紅茶。そして林檎のひと切れが、グラスを齧るみたいに縁に飾られています。
「うわぁぁ、すごい、ぼくこんなの初めて」
王様みたいだ!とびっくりしました。
「ごゆるりと、お召しあがりください」
目を丸くしている少年に丁寧に話す店主。先ずは、一口、こくんと少年は飲みました。甘みと酸味、涼しい香りが、鼻に抜けて行きます。
「美味しい!こんなの初めて!」
「そうですか、お気に召されて良かったです」
一度に緊張が解け、子供らしい元気な声が戻った少年に、ほっとして礼を述べる店主です。
え、と、少しだけ知っている、テーブルマナーを頭の中から引っ張り出すと、ナフキンを膝の上に広げた少年。
銀のフォークで、お皿の上に綺麗に盛り付けられているそれを、どれから食べようと迷っていると、にこにこと笑顔を向けてくる店主に、話しかけてみたくなりました。
ドキドキしながら、先ずはケーキを一口食べて、その蕩ける甘みに勇気を貰いました。店に流れる、どこか心が高まる様な……そんなリズムが、力を貸してくれました。
「この曲は、何と、いうのですか?」
「アフリカの曲ですよ『ホーヤ・ホー』これは、ウィーン少年合唱団のレコードなのです」
ほえぇアフリカ。ウィーン……知らない世界に、少年はケーキやバナナを頬張りながら、目を丸くします。
「『ホーヤ・ホー』は南アフリカの鉱山で働く鉱夫(鉱員)たちが、掘削作業などの際に歌う作業歌・仕事歌なんですよ、明るく楽しい曲ですが、辛く厳しい事をやり遂げる為に、毎日歌っていたのでしょうね」
「鉱山で働くときに、歌ってお仕事するの……ですか?」
「そうですよ、昔は機械はありませんから、それはそれは、命がけの、過酷なお仕事だったのですよ、勇気を振り絞る為だっかもしれません。中にはお客さん位の子供もいたのですよ、狭い坑道を掘り進める為に、働いていたのです。と、私も本でしか、坑夫の暮らしぶりは、読んだことか無いのでそれ位しか、知りませんが」
終った曲をもう一度流す為に、そろりと針を置く店主。音楽は時折、プップッとノイズが入ります。
……少年は紅茶を飲みながら、じっとそれを聞きました。朝、行ってらっしゃいと、言われた声を思い出しています。
「ちゃんと学校には行きなさい、お父さんもお母さんもお前の為に頑張ってるのだから」
お腹が痛いと言った時に、そう言われた事を思い出します。ザワワ……ザーザー、頭の中で嫌な音がしました。
「学校は?お母さんとか……、そのお父さんは?」
「お勉強したくても出来なかったでしょうね、売られた子供もいたでしょう、よく知りたければ、学校の図書室辺りに行けば、本があると思いますよ」
話を聞きつつ、フォークにいちごを刺して、クリームをひとすくい、少年はそれを口に運びました、甘い味が広がり、チョコレートソースの苦味に、酸っぱい味が入り込みます。
黙ったままで少年は、黙々と食べました。
少しばかり知っている歴史を、少しばかり思い出しています。自分と重ねて……
――、売られて、真っ暗な鉱山で働かされて、どんな感じだったのかな、苦しかったのかな、寂しかったのかな、家に帰りたかったのかな。
歌をうたったら、頑張れるのかな、居場所がどこかにあるのかな……。
黙ったままで店主は、お客様を見守りました。
少しばかり疲れ果て、生きていく力を、強さを失いかけている少年を、じっと眺めています。
「ごちそうさまでした」
やがて食べ終わり飲み終わると、少年はそう言いました。音楽は終わっていましたが、心の中にはそのリズムが、流れています。ホーヤ・ホヤと。
「あの、お金は、お母さんに頼んだ方がいいかな、きっと怒られるけど……」
「物凄く怒られますよ、きっと、だから、大人になったら払いに来てくださいね、指切りげんまんです」
店主が小指を差し出して来ました。うなずいて、素直にそれに指を絡める少年。
「破ったらどうなるの?」
「そうですね、代金払えと、死神が大鎌で、魂を刈り取りに、来るかもしれませんよ、そして狩られた魂は地獄の窯でグツグツ煮込まれ、スープにされるのです、はい、げんまん!」
脅すように話し言い切ると、くすくす笑う店主、嘘!と!少年は、慌てて指を振りほどきました。
「もう遅いですよ。本当なのです。ですからね、ホーヤ・ホヤと歌って、なんとか乗り越えて、大人になって、がっぽりお金を儲けて、また店に来てくださいね、きっとですよ、スープにされてしまいすからね。きっとですよ。ここでお待ちしております」
ドキリとした少年。店に入る前に考えていた事を、店主の琥珀色の瞳に尖った、水晶の様な光が宿ると、それに見透かされた気がしたのです。
まるで首元に、茨を括り付けられている様な毎日を、過ごしている少年は、明日から朝起きなくてもいいようにしようと、踏み切りの側でぼんやりと立ち、この世との別れをどうするか、ずぶすぶと真っ暗闇の泥沼の中に沈みながら、悲しい事を考えていたのです。
「君、どうしたの?」
危うい空気に気がついた、巡回中のお巡りさんが、話しかけてきたのを、なんでもと、声を残して、その場から走って逃げたのです。
目を閉じ耳を塞いで、走って走って……ランドセルをカタカタ揺らして……、車にぶつからないかな、とか、電信柱に正面衝突してとか、生者である自分の時を終わらす事を思ってました。
それだけを考えて、走って走って走って……、
気がついたら、緑色したドアの前に立っていたのです。扉の鬱金花の紋章が気になった少年、お店の中がとても気になったのです。
……もしかしたら、魔法使いに会えたりするのかな。
そう思いドキドキとして、緑の扉をギィィと開けると、ジャララン、涼やかなドアベルが鳴り、店主がにこやかに声を掛け、いい香りに包まれ……。
気がつけば少年はその店の、お客様になっていました。
――、小さなお店でした。深緑色に塗られた入口のドアには、外側に太陽と鬱金花の金の紋章が、内側には、月と星と、月下美人が銀で描かれています。
「うぉ!かぁぁ……、やはりまさかの、ケーキセットにこの値段……980円じゃ無かった」
「ええ、ですからね、大人になって、がっぽり稼いで来て下さいとお話したでしょう」
お店に素っ頓狂な声が上がっていました。それを柔らかく笑って受け取る店主。少しも姿が変わっていません。
「何をお召しあがりになられますか?カクテルでもお作りしましょうか」
スーツを着込んた青年が、あの席に座っています。すっかり成長した少年です。
「カクテルかぁ、んー、実を言いますと、あんまり飲んだことがありません」
「そうですか、ならば是非に、ところでお酒はお強いですかね」
他愛のないやり取りの中で、お客様にあう一杯を考える店主。
「うん、飲める方だと、彼女には言われてますが……」
あの時のリズムが店に流れていました。
出されているナッツを齧りながら、青年はそのリズムに酔いしれます。
あれから少年は、ポキリと折れてしまいそうな心を、歌を、ケーキセットの味を、店に薫る香りを、店主とのやり取りを思い出す事で、踏みとどまり、立ち上がり少しずつ、少しずつ、前に、前にと進んだのです。
嘘か真かの約束を、待ってますよとの声を忘れず、それらを糧にし、自分を支えて、力を奮い立たせ、ようようと日々を過ごし、その中でも、少年は小さくても叶えたい夢を見つけ、懸命に追いかけました。
泣きたくなる日もありました。諦めたくなることなど、しょっちゅう。しかし思い出す『げんまん』の時に感じた、底しれぬ得体のしれない怖さ。
果たさなくてはいけない約束……。気がつけば大人になり、小さいけれど幸せの欠片を手の中にある日々。朧気な記憶を頼りに、探してみたある日。
「夢じゃ無かったんだ」
小さなお店。深緑色に塗られた入口のドアには、外側に太陽と鬱金花の金の紋章が、そのままにあったのです。
そして、約束の代金を支払う為、あの時と同じ様に、ドキドキとしながら、ギィィと扉を押し開けた青年。
薔薇と葉巻と洋酒、そして紅茶とケーキ香りするお店。
あれから幾度か探したのにも関わらず、出逢う事が出来なかったお店。
ようやく辿り着いた今日。約束を果たす時。
「いらっしゃしませ、お久しぶりですね」
柔らかく声をかける店主は、かつての日と同じ姿でした。
「あの、今度連れて来たい友達がいるんだけど、その……ここの、ケーキセットを食べたいんだって……」
どうぞ、と差し出されたグラスを受け取り、爽やかなブルー色したそれを口にしながら、命の恩人である店主に、若い顔を少しばかり赤らめ、おずおずと切り出しました。
くしゃりと笑い琥珀色の瞳に、金色が宿る店主。照れくさそうに、生きる希望にあふれている青年に、嬉しそうに応えました。
「はい、お友達様が、素敵な女性の方なら勿論、特別サービスをいたしましょう、お待ちしております」
そうやりとりをしていると。
ジャララン……ドアベルが涼やかな音を鳴らしました。
「いらっしゃしませ、こちらにどうぞ」
少しばかり乱れた髪を手で抑えながら、クシャクシャなハンカチを握りしめたお客様が、悲しく辛そうな顔をして、お店に入ってきました。
それを解くかの様に、柔らかに迎える声をかける店主。
「ご注文をお伺いいたしましょう」
小さなお店でした。深緑色に塗られた入口のドアには、外側に太陽と鬱金花の金の紋章が、内側には、月と星と、月下美人が銀で描かれています。
お店の中は何時も薔薇の花が飾られているので、花の香りがあり、そして混じる葉巻と洋酒、紅茶と甘いケーキの匂いが合わさり、不思議と心に残る『お香』の様に、形を変え、壁や樫の床にも、染み付いています。
どこかの世界、どこかの時代、どこかの国、どこかの街の片隅にひっそりと存在、小さいお店のお話でした。
終。