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あめのおんがく  作者: 水上 小夜花
1/4

1.雨

  全てを飲み込んでしまいそうな深い闇は、音の雨を作り出す雲だった。


  黒い、黒い、雲。


  そっと鍵盤を叩けば、ほら、霧が凝結し、無数の雨粒となって、降り注ぐ。






  ぽつ、ぽつ、ぽつ、


「雨の音って、いいよね」


  僕は彼に話しかける。尤も、彼はニャアとしか応えてくれないのだけれど。或いは、何も言わないか。


  ―――雨が強くなってきた。


  ぽつ、ぽつぽつ、ぽつぽつぽつ、…ザアアアアアアアア―――


「でも、豪雨はきらいだ。これじゃペダルを踏み過ぎだよ。音が濁っちゃってるじゃないか」


  雨は収まる気配が全くないどころか、むしろ強くなっていくばかり。どうやらさっきまでのは、降り始めのほんの序奏だったらしい。


「ああ、うるさい! 僕は雨の音が嫌いだ!」


 雨がうるさかったのか、僕の声がうるさかったのかはわからないが…


 彼はただニャアと言って、その場から立ち去ってしまった。






  先生が、ピアノを弾き始めた。そう、ぼくはぼくのご主人様を「先生」と呼ぶことにしている。なぜなら、先生の周りの人達がみんな彼をそう呼ぶからだ。


 どうやら、人や物には皆、名前があるらしい。でもぼくは、ぼくの名前を知らない。なぜなら、誰もぼくの名前を呼ばないからだ。


 ぼくは、先生の家に他人(生徒さん、というものらしい)が来ると、いつも決まって奥の部屋に避難する。彼らの弾くピアノは、なんだかキンキンした音がして、先生のとまるで違う。ひどく不快である。先生はどうして自分で弾かないで、あのような者たちに弾かせているのか、ぼくには全く訳がわからない。


 まあ、とにかく、ぼくは先生以外と話すことがないんだ。それで、先生はいつもぼくの名前を呼ばないか、「君」とかとしか言わないから、ぼくはぼくの名前を知らない。


 そう言えば、()()()()とすれ違うときに彼らから、「猫ちゃん」とかって呼ばれたことがあるような気がする。「君」や「猫ちゃん」が、ぼくの名前なのだろうか。


  先生のピアノが、ぼくは好きだ。バッハだとかモーツァルトだとかベートーヴェンだとか、そういう、先生の弾く偉大な作曲家による作品の演奏こそ、音楽なのだろうと、ぼくは思う。たいせつにそっと掬う一粒一粒の音と、その流れ。


 いつだったか、先生はぼくにこう言ったっけ。

「音楽は、日本では『音楽』と言うね。音を楽しむ、という意味だ。しかし外国では、音楽は『ミュージック』と言って、ミューズという女神様の名前が語源らしいよ。彼らのいう音楽とは、神々の遊びのことなのだろうかね、僕ら日本人の『音楽』とはちょっと意味が違いそうだ」


 でもぼくは、先生の弾くピアノこそ、神様が作られたものとしか思えないくらい美しく、神々しくさえあって、これこそ、異人たちの言う「ミュージック」なのではないかと、思うんだけどな。






 ふと窓の外を覗くと晴れ間が見えたので、僕はピアノを弾く手を止めた。夢中で演奏しているあいだに、どうやら雨は止んだらしい。


 窓を開けると、濡れた土のにおいと共に、鳥の鳴き声が部屋へ入ってきた。


 遠くの西の空には、また厚く黒い雲が広がっている。


「ふー…。緩徐楽章に入ったようだね。穏やかで、心地よく、いつまでも続くかのように思える、叙情的な風景だ。でも、ああ、嵐はまたやってくるんだよなあ」


 僕はしばらく、窓辺で湿った風に当たった。


「君は、どの楽章がいちばん好きかい?」


 なんて、ピアノの下で寝そべっている彼に聞いてみる。彼に通じているのかはわからない。彼はただ、そっぽを向いた。


 彼は僕がピアノを弾き始めるといつも、ピアノの下にやって来る。居心地が良いらしい。


 あまりいつもそこにいるから、過ごしやすいようにとクッションを置いてみたのだが、気に食わなかったのか、全く無視して違うところに座っているので、片付けてしまった。


 音が変わって聴こえるのだろうか。だとしたら、彼は耳が良いようだ。






 先生がピアノを弾くのをやめてしまった。とても残念だ。


 先生は窓を開けて、外の音に耳をすませている。


 先生は、風の音とか、鳥の声とか、そういうこの世のすべての音を音楽だと思っているらしい。


 音を楽しんでいる、だとか、そういう程度の話ではなく、どうやら自身が弾くピアノのような音楽と区別がついていないようなのだ。


 ぼくにはわからないのだけれど、先生曰く、ヒトには偶に、「イヤーワーム」といって、頭の中で音楽が流れ続ける現象が起きるそうだ。


 でもそれは大抵、ぼくの思う音楽のような曲であって、雨の音だとか、木々がざわめく音だとか、人々のがやがやした話し声だとか、そういうものではないらしい。


 先生が、友人に「紙に鉛筆で文字を書くときの音が、頭で鳴り響いて離れないよ」と言ったら、全く理解してもらえなかったと、ちょっと落ち込んで話してくれたことがあった。


 ぼくの思う音楽の方が、先生よりも、他の人々の音楽に近いのだろうか。だとしたら、不思議な話だ。身体はずっとずっと大きいし、頭以外は毛に覆われていないし、ぼくからみても、ぼくよりは先生の方が他の人たちと似た格好をしているのに。


 ―――ぽつ、ぽつ、ぽつ、ザアアアアア―――


 また雨が強くなってきた。


 先生が、ハァ、と溜息をついた。


 またピアノを弾いてくれないかな、と期待したけれど、先生は窓を閉めてぼーっと眺めているだけで、その日はそれきり弾いてくれなかった。


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