第2話 長岡さん、死体を見つける。
「さて、色々話し合うべき議題については枚挙にいとまがありませんが、ひとまずは自己紹介などいかがでしょう」
「あ、ウン、そうね。それがええんちゃうか……」
男が目を覚ますと、覗き込んでいた長岡とサングラス越しに目が合って再び気絶した。上記のやり取りは、2度目(初回を含めれば、3度目)の目覚めの時のものだ。男は憔悴しきった顔で、平常運転の長岡の提案に力なく同意した。
「その前に、キミ、ほんとに人間なんやろな……?」
「残念ながられっきとした人間ですねえ。知り合いの闇医者に調べてもらって診断書を出してもらったこともあります。ここにはありませんが」
「知り合いの闇医者て……もうええわ」
男はもはやツッコミに回す気力もない様子で、長い溜息を吐く。如何な関西人の血も1/4に薄まってしまえばこうもなろう。男は上着の内ポケットから名刺入れを取り出して、その中の1枚を長岡に投げ渡した。無駄に良いモーションで長岡はキャッチする。
「ほう、古物取引を」
「ま、表向きの仕事の一つやな。ジャック・城嶋や」
「長岡です。先に名乗らせてしまいましたね、申し訳ない」
「かまへんよ、それくらい」
おざなりに握手を交わし、長岡も名乗る。ついでにジャージのポケットをまさぐった。次はなんだと辟易と見守る男、こと、城嶋。長岡が取り出したのは、やけに立派な革の名刺入れだった。
「わたし、こういうものでして。名刺交換というのは意外とこそばゆいものですね」
「そうか……?」
城嶋は怪訝な顔で差し出された名刺を受け取った。白無地の厚紙に、シンプルな明朝体で肩書と名前が印刷されている素朴な名刺だ。
「なになに……『私立橋ノ下生活大学 学長 長岡升二』? 聞いたこのない大学やな。ていうか学長? キミが?」
「まあ、国に無届でやっている私塾のようなものです。学生は今のところ一人もいませんが」
「なんやそういうことかいな。胡散臭いやっちゃなあ」
「まあ、しかしてその実態はちんけなホームレスですので。特に社会的な立場は持ち合わせていませんねえ」
けらけらと笑う長岡を、城嶋は胡乱にねめつけた。自分も相当怪しい自覚はあったが、目の前の男は輪をかけて胡散臭い。本当に協力していいものか、暗く冷たい選択肢がよぎる。城嶋は名刺をポケットに突っ込むしぐさで、自然に銃を探った。
「ああ、銃なら盗っていませんよ。私には扱いきれませんしね」
城嶋のぶらつかせていた指先がピクリと微かに跳ねる。見透かされた? 確かに、拳銃はコートの内ポケットに収まったままだ。弾を抜き取られた形跡もない。
「私はホームレスですが、ホームレスにも一応の倫理というものがありますからね。それにこの状況です。敵対するよりは、協力しないと」
長岡が包帯から除く口の端を釣り上げる。本人としてはにこやかな笑みなのだが、城嶋から見ればそれは不気味な含み笑いにしか見えなかった。かの名状しがたき顔面が記憶に浮上しかけて、それを慌ててかき消す。城嶋は根負けしたように、長々と溜息を吐いた。都合何度目かも知れない長い溜息だった。
「……わかった。信じようやないか」
「ありがとうございます。では無事に自己紹介も済んだことですし、行きますか」
よっこらせ、と長岡が自分の頭陀袋を担いだのを見て、「行くって、どこへ」と城嶋。長岡は全く表情を変えず(そもそも城嶋は彼の表情を読み取れない)に、あっさりと言った。
「勿論、森の中です」
―――
日は静かに、ゆっくりと傾いでいた。もっとも、森の中に分け入った二人にその変化をうかがうことは難しいだろう。繁りに繁った枝葉が日光をほとんど遮断してしまって、森の中は常に薄暗かった。
「なあ、ホンマに森の中なんかに入ってよかったんか? さっきの場所から動かんほうが……」
「迷子はその場を動かないのが鉄則ですが、それは探してくれる人がいることが大前提ですので。見る限りあの場所には水場もありませんでしたしね」
まるで散歩道を行くように、長岡は不整地をひょいひょいと進んでいた。重たいトランクを持った城嶋はそれについていくのがやっとという状態だが、まだまだ余力はありそうだ。
「この場にとどまるにせよ、人里を探すにせよ、まずは水を確保しなくてはなりませんからね。先ほどから木々のざわめきに紛れて、川のせせらぎが聞こえていましたから、ひとまずはそこを目的地にしましょう」
「はー、ま、ボクだけじゃあの場所にももう戻れんし、ついてくほかないな」
ややげんなりとした様子で城嶋がうめいた。長岡がハハハと笑い飛ばす。
森の道無き道は日光が届きづらいおかげか背の高い草は少なく、藪をラッセルして進むような労力はかけなくて済みそうだった。もっとも獣道程度にならされた地面は木の根が張り出していたりなんだりで、気を抜けばたやすく足を取られる。何箇所か手ひどく汚れた城嶋のコートからも、その歩きにくさが想像できようものだ。
長岡は慣れたもので、思考のリソースの余剰分を周囲の観察に回していた。何か食べられそうな果実などが生えていないかを重点的に、その他、何か手掛かりになるようなものを探して。今のところ結果は振るわない。樹木も草花も、どれも長岡の知識にはないものだった。樹木のたもとには色とりどりの茸が傘を広げていたが、流石の長岡も未知の菌糸類には手が出せずにいた。
「城嶋さん、余裕があったらで構いませんから、何か食べられそうなものがないか探してみてください」
「んなこと言うてもやなあ、こちとら生粋の都会っ子やで?」
都会っ"子"なんて言える年でもあらへんけど、などとおどけて見せたところで注意がおろそかになり城嶋は盛大に転んだ。
―――
二人が森へ分け入って数十分か、1時間ほどたった頃である。薄暗かった森に、一条の光がさした。同時に、かすか聞こえる程度だったせせらぎが、渓流のそれであるとはっきりわかる程度には聞こえてくる。
「森の出口が近いようですね」
「や、やっとかいな」
長岡はひょうひょうと、城嶋はひゅうひゅうと言った。城嶋の仕立ての良いコートは今や、泥やら草葉やらで見る影もない。トランクはあれ以来長岡に預けていたので綺麗なものだった。森の地面はしっとり湿っていたから、せめてもう少し乾燥した地面が恋しい。城嶋は慣れない森歩きに疲れていた。おろしたての革靴だったのもいけなかっただろう。靴擦れがひりひりと痛む。
長岡の履物はくたびれたゴム長で、こちらも長時間のトレッキングには不向きなものだったが彼は何食わぬ顔である。経験値の差が如実に出ていた。
「さあ、もうひと踏ん張りです。河原に出たらいったん休憩しましょう」
「ひー、かなわんなこれは」
城嶋は悲鳴じみた声で泣きごとを言う。それでも足を止めないだけ立派だと長岡は思った。
やがて、あれほど密実だった木立の間隔がにわかにまばらになり、下草の背がそれに比例するように伸びだした。長岡は頭陀袋からナイフを取り出し、適当に草を払いながら進むこと数分。ついに陽光を受けてきらめく水面が姿を現した。
「ふむ、結構な広さの河原ですね。手ごろな大きさの石も多くて平坦だ。良かったですね城嶋さん、一息つけそうですよ」
「そ、そいつはなによりや」
森を抜けてたどり着いた渓流は、よく澄んだ水のせせらぐ清流だった。河原の幅はおよそ10メートルほどあり、腰を落ち着けるにちょうどいい大きさの岩がごろごろしている。向こう岸もまた深い森で、上流にも下流にも人里らしきものは認められなかった。
「結構な眺めやないか。心が洗われるようや」
城嶋の疲れ切った顔に笑顔が浮かんだ。初対面の時の作り笑いではなくどうやら本心からの笑みのようで、口からこぼれた定型句も、今ばかりはどこか真に迫るものがある。長岡はその様子に小さく笑って、腰を落ち着けられそうなポイントを物色した。
「では、あの大岩の陰になっているところ。あそこで休みましょう」
「異議なし」
そういうことになった。城嶋は椅子に手ごろな岩にどっかりと腰を落ち着けて、肺腑の底から染み出るような息を吐いた。忘れかけていた靴連れの痛みがぶり返してきたが、それでも心はずいぶんと軽い。
長岡も数分腰を落ち着けて、おもむろに立ち上がった。
「城嶋さん、今日はここで野営ということにしましょう。雲の動きから見て、雨の心配はなさそうですからね。私は焚き木を拾ってくるので、城嶋さんはかまどを作っておいてもらえますか」
「かまどって言われてもな。作ったことなんかあらへんで」
「簡単なもので問題ありません。三方に石を積んで、それらしい形になっていれば今は事足りますので」
それならば、と城嶋は承諾して、長岡は焚き木拾いのために森と河原の境界をうろつくことにした。ゴロゴロと石の転がる河原を、何でもないように長岡は歩いていく。
見送りながら、あのような奇人変人でも、いると居ないとでは心細さがずいぶん違うものだと城嶋、それを紛らわすためにも石積みに精を出す。
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、鬼が出るか蛇が出るか、どっちも出るなと念じつつ。
結論を言ってしまえば、鬼が出た。焚き木を拾いに行った長岡が、死体を見つけてきたのだ。