蘇りの霧
ここはかつてアヤカシ界に君臨する十字架族の王族が住んでいた城の跡。
金銀宝石でできたゴシック調の壁や柱が跡形もなく、蔦や苔があちこちに生え散かしている。
そこをシルクの白い布を纏っただけの謎の女が歩いていた。
愁いを帯びたその眼は朝も夜もないこの世界の真っ白な天を仰いでいる。
建物の中心にある大広間には噴水の水が流れたままで床一面が鏡のようになっている。
女はその身が焼けてしまいそうに冷たい鏡の床を裸足で浸した。
すると白い綿のような光がふわふわと彼女の足元を纏い始めた。
光はやがて大きくなり彼女の身を包んだ。
それはアヤカシ界ではたびたび現れるという、誰かが過去に体験したことがさも目の前で起こっているように幻覚をもたらす蘇りの霧だ。
この世界にまだ昼と夜があった頃のこと、十字架族というこの世に美しいものを生み出すことに生きる意味を見出す民族に美しい王子様がいました。
ルビーの瞳はこの世のすべてを焼きつくすように熱く燃える紅色で、肌は新雪のように透き通っている。
この国の王は彼を”この世の宝”という意味のヨルミアと名付けた。
念願の王子に恵まれた上に比類なき美しさを持ち合わせているということで王国中が喜び、彼が生まれた年は毎晩のように宴会が開かれた。
ただ、この一見満ち足りたような世界は、数百年前に突如現れた謎の怪物・ベーゼに悩まされている。
不定形の怪物は破壊することしか能がなく、さらには人間の命まで奪うこともあった。
そんな不安定な世の中で、幼い彼が絶望しないように周りの大人に宝のように守られ大事にされながら暮らしていた。
そして時は流れ、十四歳になった王子は血のにじむような稽古のおかげで、他の若者と比べて相変わらず華奢な体格ではあるが武術をすれば右に出る者がいないほどに武術の達人になった。
「構!攻!」
剣を構えたヨルミア王子は次々飛んでくる丸太を身軽に飛び越え、三メートル先の剣を振り回しながら暴れる自動人形目がけて走った。
「構!」
自動人形はヨルミア王子の顔に向けて剣を持つ手をのばした。
それを間一髪で避けた。
「覇!」
相手の隙を見つけた彼は全力の利き手を使い、止めを刺した。
「これが正解か?」
急所を突かれた人形は激しい音をたてて燃えた。
いつものように剣の訓練を終え、ミント水を飲んでいると従者が息せきかけてきた。
「今し方、エル殿がやってきました」
「なに!・・エルだと!」
ヨルミア王子は持っていたミント水を放り投げ武道場から飛び出した。
「忘れてた!こんなことしてる場合じゃない」
従者は片付けながらかんかんに怒った。
「ヨルミア殿!食べ物を粗末にしてはいけませんぞ」
応接間の鏡の前で彼は立っていた。
「エル!」
黄金のドアを豪快に開けたヨルミア王子は異国の香りがする彼に向かって走った。
彼は隣国の王子のエル。
同じ十字架族ではあるが、星空を煮詰めたような菫色の瞳に、ピアスがいくつもついた尖った耳にかかるアシンメトリーの前髪、歩くたびに靡くサルールは彼等クロセキスタン系統特有の姿だ。
「ヨルミアではないか!」
鏡越しに彼を見たエルは抱き着きあいさつ代わりに両頬にキスをした。
キスしたところを恥ずかしそうに手で拭いながらヨルミアは言った。
「ひさしぶりだな、相変わらず君の国のあいさつは恥ずかしくて慣れないや」
エルは吊りあがった切れ長の目を垂らして笑った。
「そういうヨミの国のミント水も未だに口に合わないけどな」
二人はボロを着て、城を抜け出し小さな村に出た。
この村は巨大なアメジストが産出されることで有名だ。
職人が今朝採れたアメジストを盃にし、商人がそれを売り、市場は賑わっていた。
滅多に見ることができないこの立派な盃に二人は目を輝かせた。
「この盃は女神が宿っていて、いくら酒を呑んでも酔わないらしいな」
エルはこの深い紫色に、二百年ものの葡萄酒を思い出してしまい涎を垂らした。
「それって本当か?俺にはその女神が見えるのだが」
盃の向こうで自分と同じくらいの少女が立っていた。
少女はそれに気づき、みずぼらしい格好の彼らに微笑んだ。
「旅人のお方、ようこそおいでくださいました」
旅人と間違われた二人は顔を見合わせ困った顔をした。
「僕たちは旅人じゃないよ」
「もしよかったら友達にならないかい?」
それを聴いた彼女の表情が明るくなった。
「よろこんで」
彼女の名前はメディア。
ヨルミアと同じ瞳の彼女は早くに両親を亡くし、今は職人の家で住み込みで働いている。
孤独なメディアは生まれて初めて友人ができ、大層喜んだ。
三人はこの村の奥にあるキイチゴの丘を暗くなるまで駆けまわった。
二人と別れた帰り道でメディアは光るものを見つけた。
「なんだろう?ヒカリタケかしら」
それは足を運ぶたび白く光った。
彼女はそれを拾い上げると目を大きくした。
「白い口紅だわ!」
そう、白い口紅は十字架族では成人の女性になった証であるのだ。
幼いメディアは堪らずそれを胸ポケットに入れた。
その夜、ヨルミアは記憶に残らない悪夢で目が覚めた。
息を落ち着かせ、ジャスミンの香水を撒き再び眠ろうとしたが、どうしても胸騒ぎがする。
ヨルミアは夢遊病者のようにふらりと寝室を抜けた。
血に染まった満月に照らされ、脚が赴くまま灯も消えた長い廊下を歩いた。
本来ならここには護衛が立っているはずなのに呼吸の音も聞こえない。
(これは夢なのだろう)
大広間に着くとエルが血を流して横たわっていた。
そのすぐそばでメディアがしゃがみ込んでいる。
「これは一体どうしたというのだ!」
彼に気づいたメディアはゆっくり振り返り、にっこりほほ笑んだ。
「あら、ヨルミア」
人の死体の前で微笑む異様な雰囲気に固唾を飲んだ。
するとエルの死体を踏みつけ、狂ったように彼の体を抱きしめて体を擦り何度もキスをした。
「好き好き。あいしてる!」
今起こっている恐怖に駆られ、ヨルミアは彼女を突き飛ばしビンタをした。
「メディア!!目を覚ませ!自分を見失うんじゃないっ」
メディアの目の色が急に絶望の黒に染まった。
「・・お前を殺す」
憎悪に満ちた顔でヨルミアを睨み付けた。
(これはまさか・・ベーゼ!)
メディアはいつの間にか手にしている巨大な鋸で切り付けた。
間一髪で避けたヨルミアは玉座の後ろに飾られた黄金の剣を抜いた。
「目を覚ませ!キミとは戦いたくない!」
鋸の柄が腕に絡みつき彼女の全身を包んだ。
「メディア!」
「・・わたしをころして」
メディアは牛乳状の白い涙を流した。その顔は氷のように無表情だった。
「よくも!覚悟しろ!」
ヨルミアは剣を握りしめ、白い物体に斬りかかった。
蛆虫のように蠢く彼女を包む白い物体は刃がついている触角に変形し彼の心臓目がけて攻撃した。
それをうまく交わしたが、細かい刃に当たり頬から血が流れた。
「血・・!」
生まれて初めて見るベーゼに恐怖で身動きができなくなった。
みるみるうちに醜く変化してゆく彼女の姿を唇を震わせながら眺めた。
「早く・・お願いこんな姿みてほしくない!」
叫ぶこの声はもはや彼女のものではない。
ヨルミアは震える手を抑え、叫びながら剣をメディアの胸を突き刺した。
すると彼女に寄生していた口紅は粉々に砕けた。
白い血を吐いたメディアは最期に安堵した表情で「またね」と囁き目を閉ざした。
ヨルミアは慟哭した。
城が崩れる中、仲間も家族もすべてを失ったヨルミアは大声を上げて泣き崩れた。
これは夢であってほしいずっとそう思いながら。
「エル・・メディア・・」
紅い髪が伸び、胸が大きくなり、叫ぶ声が甲高くなった。
いくつの日が過ぎただろうか。いや、この世界は月も太陽も白い血に包まれ消えてしまった。
我に返ると周りに誰もおらず、男らしく逞しかった体が柳のようにやせ細っていた。
「うそだろ!」
混乱する頭を必死に抑えながら、目の前に広がる湖に自分の姿を映すと小柄の少女が目を腫らし戦慄の表情で佇んでいた。
「お・・・・俺、女になったのか?」
霧が晴れ、無表情な彼女の目から涙が頬を伝った。
「私にも人間の心が残っているのね」
そう言い残し、身に纏っている布を広げ無限に続く空に消えていった。