それでは皆様、乾杯!
一瞬、目が合った
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
飲み屋でちらりと見た天気予報では、明日は雪が降るそうだ。既に気温はマイナスになっているのかも知れない。
毎年ほぼ強制的に参加させられる会社の忘年会だが、今年の店は自称食通の同僚が幹事をしただけあり値段の割りに酒も肴もなかなかのものだった。予算の関係で二次会は各自で自由に、というのも良い。適当な理由を付けてさっさと帰路につくことも出来た。
良い気分のままで改札を出て、不意にポケットの中の鍵に気が付いた。今朝はバスに乗り遅れそうになり、自家用車で駅まで来たんだった。
舌打ちしたい気分で駅前の駐車場に向かう。駅から家のあるマンションまで15分ほどだが、朝までに雪が積もったら車で出社しなくてはならないかも知れない。
手のひらを口の前に立て息を吹き掛け匂いを嗅いでみる。うん、大丈夫だ。飲んだのは生ビール2本程度、店を出て2時間近く経っている。
住宅街の中を走り抜け、あと一つ信号を曲がるとマンションにたどり着くという交差点で、白い犬が飛び出してきた。いや、違う、バッグ?子ども用の……慌ててブレーキをかける。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
鈍く痛む頭を抱えて目覚めると、パンの焼ける匂いが漂ってきた。ノロノロと体を起こすと少し吐き気がする。完全に二日酔いだ。枕元の時計を見ると6時40分、まだ少し早いか?いや、昨日はそれで遅刻しかけた。
台所では妻の夏美が俺と自分の分の弁当を詰めてた。おはようの挨拶も交わさずに洗面所に向かい、用を足し顔を洗い髭を剃る。昨日はそれほど飲んだ覚えは無いが顔色は最悪だ。ため息を付きつつ狭い洗面所を出ると、インターホンが鳴った。
誰だ、こんな早朝に。パジャマ姿のまま玄関に出て扉を開ける。
そこに居たのは警官二人とよれよれのコートを着た初老の男が一人。まるで刑事ドラマのような……
「おはようございます、朝早くにすみません。芦田洋司さんですね?少しお聞きしたい事が……」
一番若そうな制服姿の警官がそこまで言った時、初老の男が俺の足元にあった娘の海鈴の小さなスニーカーを見て口を挟んだ。
「中に子どもさんがいらっしゃるんですか。外に車がありますんで、そこまでご同行いただけますか」
突然地面が歪み、目が廻る。身体の中心が掴み上げられたように苦しく、息が出来ない。歯がカチカチと鳴り自分が震えている事に気付く。
ようやく玄関に出て来た夏美が呆然と立ち尽くしているのが見えた。
「……ちょっと、用事が……すぐ、戻るから……」
ふらふらと玄関を出た俺の両隣を、警察官ががっちりと挟み込むようにして歩く。
そして、俺が夏美と海鈴の待つ我が家に戻る事は二度と無かった。
酒気帯び運転・負傷者の救護、危険防止の措置違反・事故報告の義務違反・現場に留まる義務違反・過失運転致死傷罪
俺が問われた罪名だ。
昨夜俺が見た白い犬は小さな女の子が持っていたバッグだった。いつも車で塾帰りの女の子を迎えに行く母親はその日風邪気味で病院に寄って迎えに行くのが遅れ、女の子は気を利かせて自分で家に帰ろうとした。
そして俺は。
会社の忘年会で酒を飲み車を運転をして、女の子を轢いた事に気付かず家に帰って寝て忘れた。
保険会社から派遣された弁護士が、飲んだ酒が少量で尚且つ少し時間が経ってい為アルコールの影響は少ない事、被害者の女の子が黒いコートを着ていて極めて視認しにくく、人にぶつかった認識が無かった事を上げ、業務上過失致死として争ってくれた。
会社は辞表を出さざるを得なかったが、社長や同僚が弁護側の証人として出席してくれて普段の俺がいかに真面目な社会人でそれまで無事故無違反であった事を証言してくれた。
両親と夏美も証人として裁判に出廷し、俺が良き息子、夫、父親であった事を語った。
保険は降りたが、そのうち家を買おうと思って貯めていた夫婦の貯金も、独身時代に貯めた金も全て被害者の賠償に消えた。
そして俺に下された判決は。求刑5年、懲役3年6ヶ月執行猶予無しだった。危険運転致死傷罪は免れたが、自動車運転過失致死傷罪として比較的重い懲役刑に処された。弁護士は控訴を勧めたが、断った。人一人が死んだのだ。むしろその刑期の短さに自分が驚いたくらいだ。
昨今交通刑務所は定員満杯状態が続いていて、比較的長期刑の俺は普通の刑務所に服役する事になったが、通称「交通通り」と呼ばれる交通事故で服役している者ばかりの部屋に入れられた。
八ヶ月が経った頃、月に一回は必ず面会に来てくれていた妻の夏美が、面会に来なくなった。手紙を送ったが返事も返って来なくなった。
次に夏美が現れた時には義父と一緒だった。夏美と海鈴が見知らぬ若者の乗った車に追い回され、海鈴を抱いて走った夏美は転んで足を骨折したのだそうだ。ただ唇を噛み締める夏美の代わりに、義父はそれまでにも夏美のパート先にも嫌がらせがあった事、海鈴も虐められている事を淡々と告げた。最後に離婚届けと、養育費も何も要らないから二度と夏美と海鈴に会いに来ないで欲しいと、義父は白髪だらけになった頭をカウンターに擦り付けるようにして頼んだ。義父に連れられて面会室から出ていく夏美の目から涙が溢れていたが、俺は夏美に掛ける言葉がどうしても見つけられなかった。
それから二年が経って、後少しで仮釈放という処になって兄から手紙が来た。実家を売り払う事になり、両親の面倒は自分が見るから釈放されてももう会いに来ないで欲しいと云うこと、妹の縁談が駄目になった事も合わせて書いてあり、そちらにも決して会いに行く事の無いようにとあった。俺を責める言葉は一切無かったが、紙が破れそうなほど強い筆圧で書かれた手紙に俺のせいで家族が壊れた事を知った。
雑居房で手紙を握り締め、自分が妻子や実家の家族を不幸のどん底に突き落とした事を自覚しながらも、俺は世間の悪意を憎まずには居られなかった。どうして事故を起こした俺にではなく、俺の大切な家族が攻撃される。刑務所に居るからというなら俺が出所してから存分に攻撃すれば良い。
そして俺はちょうど三年で仮釈放された。約束通り夏美や海鈴にも、実家の家族にも会いに行かなかった。
保護司や出所者の生活や就労を支援するNPO団体の世話になり、取り壊し寸前のオンボロアパートに住居を得て、協力雇用主の居る新聞配達の仕事をする事になった。
新聞集配所では誰よりも早く顔を出し、自転車で行ける限り誰よりも沢山の配達先を受け持った。縁を切られたとはいえ、娘の海鈴の為にいつか纏まった金を送ってやれるようになりたかった。ひたすら真面目に働く俺に、保護司も雇用主も親身になってくれる様になった。
そうして半年も経った頃、初夏の日射しの中、最後の一軒を回り終え汗をダラダラとかきながら集配所に戻ると、店の前に妙な女が立っていた。
既に30℃を越える気温の中で真っ黒な帽子に黒い喪服、肩が妙に盛り上がっているのはサイズの合わないジャケット?いや、子ども用のコートを無理矢理着ているのか。そして首から繁華街によくいるサンドイッチマンのような大きなプラカードを下げている。
女は俺と目が合うと、口の両端をきつく吊り上げた。まるで都市伝説の口裂け女だと思った瞬間、気が付いた。
あの、俺が轢き殺した女の子の母親だ。
俺が女の正体に気付いた事を女も悟ったのか、女の口が声を出さずにパクパクとゆっくり動く。
「ひ・と・ご・ろ・し」
俺は女が首からぶら下げているプラカードを見る余裕も無く、慌てて集配所に逃げ込んだ。
集配所の中に入ると他の配達員たちが困惑した表情で俺を見てきた。その顔であのプラカードの内容が知れた。おそらく俺が幼い女の子を飲酒運転で轢き逃げした事が書かれているのだろう。すぐに雇用主兼店主が現れ、奥の部屋に呼ばれた。
「一時間くらい前から、ずっとあそこに居るんだよ」
煙草を手に顎をしゃくって表を示す。恐らく俺は真っ青な顔色をしていたのだろう。店主は殊更ゆっくりとした口調で言った。
「うちはお前の他にも訳ありの奴が何人か居るからな。警察に通報するのはお前が戻ってからにしようと思ったんだ。どうする?」
警察に逮捕された時のような諦めの気持ちが湧いてきた。仮に警察が動いてあの女を追い払っても、それはあくまで一時的な物だろう。
「また、来ますよね」
服役中に自分を攻撃しろと思った事も忘れ、俺は俯いた。
「俺はな、この半年間あんたをずっと見てきて、あんたが真面目な人間だって知ってる。事故を起こしたのもわざとじゃないんだろ。でも世間はな、酔っ払いが子供を轢き殺してもほんの数年刑務所に入っただけで許される事に腹を立ててるんだよ。あの女を追い払っても、あんたは社会正義を気取る奴らと一生戦わなきゃなんないんだ。娘さんの為に金を貯めるんだろ?負けるな」
俺は力無く首を横に振った。
「しばらく休ませて下さい」
そう言いつつも、もうこの仕事は続けられないだろうと思った。親身になってくれた店主には悪いが、だからこそ余計なトラブルに巻き込みたく無かった。幸いもう少しで仮釈放の仮もとれる。どこか別の場所に引っ越すべきか……いや、仕事も保証人も無い状態で住居を借りられるものだろうか。
部屋を出て行こうとした俺を店主が呼び止めた。
「墓参りとお焼香には行ったのかい?」
俺はまた首を振る。
「お墓の場所を、教えて貰えなくて。家もすぐに引っ越したとかで」
店主は苦虫を噛み潰したような顔をした。
集配所を出ると女が待ち構えていた。俺はふらふらと女の前に行き、地面に額を擦りつけるようにして土下座した。
女は何も言わない。後ろの集配所から帰る原付の音や車の音が次々に聞こえてきた。
どれくらいそうしていたのだろう。顔を上げると女は相変わらず口の両端をきつく吊り上げているが、その眼は強い狂気を宿していているのが見て取れた。
不意に女が動いた。ポケットに手を突っ込み何かを取り出す。思わずビクリとして立ち上がりかけた俺の鼻先に一枚の写真が突き付けられた。写真に写っているのは男と、女と、子ども。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
飲み屋でちらりと見た天気予報では、明日は雪が降るそうだ。既に気温はマイナスになっているのかも知れない。
良い気分で改札を出て、不意にポケットの中の鍵に気が付いた。今朝はバスに乗り遅れそうになり、自家用車で駅まで来たんだった。
瞬間、背中にゾワリとした感覚が走った。慌ててコートのポケットに入っているスマホを取り出して日付と時間を確認する。あの日だ。
三年半前の、俺があの事故を起こした日だ。
どういう事だ?あの日の、あの駅の、あの改札を出た瞬間だ。初夏の夕暮れの道端で土下座をしていたはずの俺は、スーツとコート姿で肌を刺すような冷たい空気を吸っている。
タイムスリップ?そんな言葉が頭に浮かぶ。近くの自販機で冷たい水を買って、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。
何でも良い、事故を起こす前に戻れたんだ!!
俺は再びスマホを取り出すと、運転代行業者を呼び出した。愛想の無い男の声が今は全員出払っていて何時になるかわからないと言ってきた。俺はいくらでも待つからと言って、駐車場の場所と車のナンバーを告げた。代行屋が来るまで車の中で待っているとも。
これで、事故は起きない。夏美と海鈴の顔を思い浮かべる。ほんの三、四年ほど前の事なのにひどく懐かしかった。
突然、車の窓がコンコンと叩かれた。安心感からつい眠ってしまったらしい。代行屋かと思ったが警官だった。
ドアを開けると、警官はそのままドアを掴みグイッと大きくドアを開けて、ドアと車の間に体を割り込ませた。
「すいません、ちょっとお聞きしたいのですが、この車は貴方の物ですか?あと、免許証はお持ちですか?」
俺はムッとした。
「そうですけど、何か?」
もう一人居た警官が無線で何かを連絡している。
「○○町の交差点で先ほど轢き逃げ事故がありましてね。何かご存知ではありませんか?」
再びゾワリと悪寒が走った。あの事故だ。
いや、今回俺は車を運転していない。別の誰かが事故を起こしたのか?それとも全く別の事故か?
すぐにパトカーが二台も駐車場にやって来た。数人の警察官に車内から引き摺り出され、自分の車の前面を見せられる。バンパーにへこみと血液らしき物が付いている。どういう事だ。
混乱する俺はその場で呼気を検査され、轢き逃げ犯として逮捕された。
そこからは前と同じだった。
唯一違うのは俺は運転をしていないという事だ。俺は弁護士に無実を訴え、運転代行を頼んだ通話履歴や駐車場や町の防犯カメラを確認して欲しいと頼んだが、何故か全ての記録が失われていた。
三年6ヶ月の懲役、八ヶ月後に義父と夏美がやって来て離婚、兄からの絶縁状、出所後のボロアパートと新聞配達の仕事。
そして半年後に俺の前にあの女が現れた。今度は俺は土下座しなかった。ただ立って目の前の女を見つめる。女は懐から写真を取り出した。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
すぐに俺はコートのポケットからスマホを取り出し、日付と時間を確認した。
また、戻った。
そして歩き出した。何十分、いや何時間かかろうとも帰るんだ。夏美と海鈴が待つあの家に。
途中でチラチラと雪が降ってきたが、俺はひたすら歩き続けた。もうすぐあの交差点だ。別の道を通るべきか?いや、どうしても確認しておきたい。
少し手前から、道路の真ん中に女の子が横たわっているのが見えた。心臓がドクリと音を立て、身体中の血が引いていく。
どういう事だ。あの女の子は俺が轢く前から、最初から別の誰かに轢き逃げされて道路に横たわっていたのか?それを事故の前後の記憶が曖昧な俺のせいにされただけ?ぐるぐると思考が空回りする。俺はスマホを取り出し110番を押した。
そして俺はまた轢き逃げ犯として逮捕された。
駐車場に置きっぱなしにしていた車には、いつの間にかへこみと血が付いていた。俺は女の子を轢いた後、怖くなって一旦逃げたものの徒歩で現場に戻り、自ら事故を通報したものとされた。
懲役三年と2ヶ月。自ら通報した事で少しだけ刑期が短縮された。しかしそれは最悪の出来事を引き起こした。夏美と海鈴があの女に車で襲撃されたのだ。夏美は右膝から下を失い、海鈴は顔に一生消えない大きな傷を負った。女は心神喪失状態だと診断され精神病院に強制入院させられたと、今度は一人で離婚届けを持って来た義父から聞いた。
そして繰り返す離婚、実家からの絶縁状、ボロアパートに新聞配達の仕事。
そうして俺はまたあの女と向かい合う。女が懐から写真を取り出した。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
コートのポケットからスマホを取り出した。時間と日付を確認する。
戻って来れた。三度目の正直だ、今度こそ。
駅前のタクシー乗り場には長い行列が出来ていた。俺は走り出した。
すぐに息が切れた。何度も吐いた。吐き出す物が無くなり、胃液まで吐いた。何度も転んだ。鞄もコートも邪魔になって脱ぎ捨てた。走って、走って、ようやくあの交差点にたどり着いた。
女の子はまるでそれが動かす事の出来ない運命であるかのように、道路の真ん中に横たわっていた。
うっすらと雪が積もった女の子に駆け寄り、震える手で息を確かめる。
通りががった車が俺たちを発見して通報し、パトカーが来るまで俺はただ茫然と座り込んでいた。
そしてまた繰り返えす。
逮捕、三年6ヶ月の懲役、離婚、実家からの絶縁状、ボロアパートに新聞配達の仕事、そしてあの女。あの写真。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
俺はポケットからスマホを取り出し、日付と時間を確認した。
また戻った。俺はそのまま反対方向のホームまで向かい、次に来た列車に乗った。
会社近くの駅で降りて、駅前にある24時間営業のファミレスに入る。店員が奥の方の席に案内しようとしたが、レジ前の客や店員が頻繁に行き来する席を希望した。一応、防犯カメラの位置も確認済みだ。
腹はいっぱいだったが、10分に一回はコーヒーのお代わりを頼み、1時間に一回は定食を頼んだ。全く手が付けられていない食事をそのままに、また新たなメニューを頼む。どの店員も一瞬戸惑った顔をするが、これで俺はおかしな客として印象に残るだろう。
夜明け前に初老の刑事と警察官がやって来て俺は逮捕された。
俺が何処に居ようと女の子は轢き逃げされ、俺の車にはへこみと血が付いていて、何故か防犯カメラの映像をはじめ俺の全てのアリバイは消えている。
初回と同じ懲役三年6ヶ月。離婚、絶縁状、ボロアパートに新聞配達。
そしてあの女がやって来た。女が懐から取り出した写真を見る。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
コートのポケットからスマホを取り出し、日付と時間を確認する。
俺は一旦改札を抜けた後、コンビニに向かった。ATMから10万円を引き出し駅に戻る。スマホの電源を切り、都心に向かう列車に飛び乗った。
暫くネカフェやカプセルホテルを転々とした後、何となく西に向かった。前に外国人女性講師を殺害して何年も逃亡生活をしていた男の話をテレビで見て、そこで日雇い労働者の街という物があると知ったのだ。それに土地勘が無いのも良い。
その後、俺は各地を転々としながらホームレスに近い生活を四年近く送った。少しでも金が貯まれば夏美と海鈴へ送金しようとしたが、ほとんど出来なかった。俺が突然消えて、二人はどうしているだろう。警察はまだ俺を追っているだろうか。指名手配されて顔写真が公開されているんだろうか。公園の便所で顔を洗い、ふと鏡を見た。半白の髪に窶れた髭面の老人が映っていた。
だから、あの女が現れた時に俺は喜びすら感じた。
女の前に立ち、女が懐から写真を取り出すのを待つ。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
コートのポケットからスマホを取り出し日付と時間を確認する。
そのまま次の特急列車を待った。
すぐに列車はやって来た。
俺は躊躇無く飛び込んだ。
反対側のホームの端っこに、白い子犬がプリントされたバッグを持った女の子が居るのが目に入った。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
俺はコートのポケットからスマホを取り出し、日付と時間を確認する。
そして全ての改札が見渡せる場所で、子犬のバッグを持つ女の子を待った。この繰り返しには何か意味があるはずだ。女の子も俺も助かる道がきっとある。
俺は終電が出て駅員がシャッターを閉めるから出ていくようにと促されるまで待った。改札を出るとあの初老の刑事と警察官が待っていて、俺は轢き逃げ犯として逮捕された。
もうどうでも良かったので弁護士すら断ったが、初回と同じく懲役三年6ヶ月の判決が下された。
離婚、実家からの絶縁状、ボロアパートに新聞配達。そしてあの女。あの写真。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
コートからスマホを取り出し、日付と時間を確認する。
俺は駅のベンチに腰掛け、そのまま何もしなかった。終電後に駅員に追い出されて改札を出ると、あの刑事と警官が待ち構えていた。
逮捕、懲役三年6ヶ月、離婚、実家からの絶縁状、ボロアパートに新聞配達の仕事。
俺はあの女の前に立つと、女が写真を取り出す前にあらかじめ用意しておいたナイフで力いっぱい女の腹を突き刺した。女は心底嬉しそうに笑った。女の口が動く。
「ひ・と・ご・ろ・し」
俺は今度は殺人犯として逮捕された。公判の最中にスクリーンにあの女と、夫らしき男と俺が轢き殺した女の子の写真が映し出された。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
コートのポケットからスマホを取り出し、日付と時間を確認する。
そのまま改札を出て、駅前の駐車場に向かった。車に乗り込みエンジンをかける。駅前は人通りが多い。アクセルを思いっきり踏み込み、歩道に乗り上げた。一人、二人、三人、四人五人、ドカッ、ドカッと次々に衝撃が伝わり、フロントガラスが網の目のようにひび割れていく。構わず、どんどん轢いていく。
歩行者の中に白い子犬がプリントされたバッグを持った女の子が居たような気がした。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
改札を出てコンビニに向かう。買い物かごいっぱいにビールを買った。会計を済ませ店を出たら、すぐに一本目を開ける。ゴクゴクと喉を鳴らしビールを飲む俺を、ちょうどコンビニに入ろうとしていたスーツ姿の若い男女が蔑んだ目で見てきた。
飲み終えた缶をコンビニの中にあるゴミ箱に捨て、二本目を開ける。三本目を空にしたところで駅前に戻った。ふらふらと千鳥足で交番の中に入る。
「すいませーん、人を、轢き逃げしちゃいました。○○の交差点です」
若い警官と、中年の警官、それに何やら相談していたらしい厚化粧で派手な服を着た中年女がギョッとした顔をする。警官二人は顔を見合せた。酔っ払いの戯言かと疑っているのだろう。しかしすぐに中年の警官が何処かに連絡しはじめた。
俺はそれを見ながら新たにもう一本ビールの缶を開けた。若い警官が露骨に顔をしかめる。しかしまだ俺は容疑者ですら無いのだ。チラチラと俺と中年の警官を交互に見ながらも何も言わない。
もう何十回、何百回も繰り返されるループの中で、俺がようやく発見した一番楽な方法がこれなのだ。
カウンターの中の警官が顔色を変えた。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
ビクビクしながら警官が来るのを待つのは飽きた。しかし自首をすると刑期が短くなり夏美と海鈴が襲撃される。一番酷い時は懲役二年で、二人とも殺された。
警官二人が職業上の正義感を越えた憎しみを込めた目で、泥酔しなおも缶ビールを手離さない俺に近寄って来る。
これで懲役四年は堅い。いや、危険運転致死傷罪が適応されて懲役七年以上が適応されるかもしれない。
何度も何度も繰り返し、そのたびに些細な変化は付くが、何をしても、何処に居ても俺は酔っ払って車を運転して女の子を轢き逃げした犯人で、俺が現場に居ても居なくても常に女の子は死んでいる。
列車から降りる前、つまり酒を飲む前には戻れない。あの写真を見せられたり、女の子を発見すると戻る。
俺は今ではむしろ刑務所で刑に服している時間が長ければ長くなる程安心するようになっていた。そのまま派出所の警官に逮捕され、取り調べの為に本庁に向かうパトカーに乗せられた。少し酔い過ぎた。暖かい車内に気が緩む。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
鈍く痛む頭を抱えて目覚めると、枕元の時計は6時40分を指していた。まだ起きるには少し早いか?いや、昨日はそれで遅刻しかけた。
俺はぐるりと周りを見回し次の瞬間、跳ね起きた。
どういう事だ!?
狭い部屋の至るところに競馬雑誌、テレビの前には無修正のDVDに空のペットボトルが何本も転がっている。新聞配達の時に住んでいたボロアパートより幾分マシな、俺が独身時代に住んでいたワンルームマンションだ。
繰り返しが始まってから初めての展開だ。また時間が巻き戻ったのか?俺が結婚する前に?そんなに前に、何故だ。よろよろと洗面台に向かう。吐き気が酷い。胃の中の物を全部吐き出して、ようやく鏡を見た。
違う。独身時代の俺じゃない。鏡にはくたびれて、澱みきった目をした中年男が映っていた。事故を起こした時の俺だ。
慌ててスマホを探す。今は何年の何月何日の何時なんだ。
バタバタとコートを探していると、インターホンが鳴った。居留守を使おうかと思ったが、今度は激しくドアが叩かれる。驚きのあまり洗面所の水が勢い良く出しっ放にしてあった。また夏美に怒られる。支離滅裂な思考の中でドアを開けた。よれよれのコートを着た初老の刑事と警官が二人。一番若い警官が口を開く。
「おはようございます、朝早くにすみません。芦田洋司さんですね?少しお聞きしたい事が……」
俺は慌てて遮った。
「すみません、中に子どもが居るので、外で良いですか?」
刑事と警官二人が顔を見合せた後、俺の背後の殺伐とした、とても子どもが居るように見えない部屋を覗き込んだ。
「あの、いえ、ここには居ないんですけど、○○町のマンションに、妻と娘が」
○○町と聞いて警官の顔色が変わった、
「昨夜遅くに○○町付近においでになりましたか?」
初老の刑事がコートのポケットから写真を取り出した。アッと気付いたが、思わず見てしまった。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
改札を出てゆっくりと歩き出す。途中から雪が降り始めたが、俺は白い息を吐きながらゆっくりと夏美と海鈴が居るマンションに向かった。
途中であの交差点を通る。もう何十回、何百回も見たように、やっぱりあの女の子は道路の真ん中に横たわっていた。それを無視してマンションの敷地内に入り、エレベーターのボタンを押す。ポケットから鍵を取り出して家のドアを開けた。
ここ最近の数十回は、夏美と海鈴の目の前で逮捕されるのを避ける為、家に帰っていなかった。俺にとっては数十年、いや百年以上経った久しぶりの我が家だ。
夏美はまだ起きていて、台所で何やら色紙を切っていた。パート先の託児所で使うのだろうか。元々子どもが好きな女だった。
「わ、びっくりした!どうしたの!?」
黙って台所に入り、俺は夏美を抱き締めた。
「愛してる、夏美。愛してる。心から愛してる、夏美」
夏美は俺の背中を軽く叩いた。
「もー、酔っ払いに言われても嬉しくなーい」
夏美は照れ隠しにか、おどけてケラケラと笑った。
「冷凍ごはんがあるから、お茶漬けでも食べる?」
俺は頷いた。夏美が冷凍庫を開けごはんを探している間にそっと海鈴の部屋に入った。
パステルピンクの壁紙は子どもっぽいからもう嫌だと生意気な事を言うようになった海鈴はベッドで眠っていた。
丸い頬は桃のように柔らかな産毛に覆われていて、赤ん坊の頃と少しも変わっていない。
最後に抱っこしたのはいつだったか。幼稚園の年中さんの時にせがまれて抱っこしたのが最後か。俺はもっと、もっと……
「ちょっとー、起こさないでよ?」
夏美も海鈴の部屋に入って来て、俺を見てギョッとした顔をする。
ぽたぽたと流れ落ちる涙もそのままに、俺は夏美に謝った。
「ごめん、夏美。守れなくて、ごめん。愛してる、夏美。守れなくてごめん、ごめんなさい、ごめんなさい」
「愛してる、海鈴、駄目なお父さんでごめんな。ごめんよ、海鈴。俺が、ずっと、ずっと、必ず守るって決めてたのに。守れなくてごめん、海鈴」
壊れたレコードの様に、涙を流しながら同じ言葉を繰り返す俺を夏美が怪訝な表情で覗き込んだ。
「何言ってるの?」
夏美はまるで小さな子どもにするように、俺の頬を両手で挟んで額と額をくっ付けた。
「私たちを殺したのは、貴方じゃない」
ビクリ、と身体が跳ねる。どういう意味だ。
「んっ……んー、パパー?」
海鈴の声が聞こえた。思わず夏美の手を振りほどいて海鈴に目を向ける。寝起きの海鈴は目をごしごしと擦った後、俺を見た。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
頭がズキズキと痛い。今迄に経験した事の無い痛さだ。無意識に頭に手を当てようとして、何か金属質の物に阻まれた。何だこれは。
身体の周りも、滑らかだが冷たく硬い金属で覆われているようだ。状況が掴めず一人でジタバタしていると、軽い機械音がして前面が開いた気配がする。
「針、折れちゃうんで。ちょっと大人しくしててねー」
夏美のものではない若い女の声が聞こえる。カチャカチャと止め金を外す音が頭の周りからして、どうやら俺ヘルメットのような物を被せられているらしい事がわかった。そして、本当にヘルメットのように顔の部分だけが開いた。
目の前に居る女をまじまじと見る。見覚えの無い女だ。白いナース服のような物を着ているが、髪はまだらな金髪で頭のてっぺんは黒くなっている。まるで安っぽい風俗店のコスプレナースだ。
目が見えるようになっても全く状況が把握出来ない。
「おーい、わっかりますかー?」
女が馬鹿にしたような口調で俺の目の前でパタパタと手を振った。
「……グェッ、ゲホッ、ゲホッ……オェェッ!」
咳き込むが、胃の中には何も入っていなかったらしく吐き出す物が無い。しかし少し周りを見回す余裕が出来た。白い壁に囲まれた手術室のような部屋に、金属で出来た繭のような物があり、俺はその中に寝かされていた。更に前面のシールドも全部金属で出来ていて視界の利かないフルフェイスのヘルメットの様な物を付けていたらしい。
唐突にノックも無しに俺と同じくらいの年頃の白衣の男が入ってきた。どこか見覚えがある気がする。
「あ、センセー?」
ナース服の女が男の元に駆け寄るが、男は女を片手で軽くいなした。
「気分は如何ですか?」
女の態度もムカつくが、この白衣の男は口調は丁寧な癖に何処かワケのわからない居心地の悪さを感じさせる。俺はまだ寝たままなので、傍に寄って来た男に見下ろされているからだろうか。
少しずつ思い出して来た。これは、最新型のVR器械の臨床実験だ。土日の二日間で日給三万円。破格のバイト代に物珍しさもあって、求人票を見た瞬間に応募を決めた。6万もあれば次のレースは……いや、夏美と海鈴が行きたがっていた大型テーマパークに泊まりがけで連れて行ってやれる。
「体調は如何ですか?」
男が再度尋ねた。
「ウェッ……さっ、さ最悪だっ……」
俺は男を睨み付けた。
「あっ……あっ、悪趣味にも、ほどが……あるっ!!」
「飲酒運転など危険な運転で事故を起こした方用の、更正を目的とした内容ですからね」
「こっ、更正どころじゃ……つっ!」
俺は頭のヘルメットを脱ごうと手を伸ばした。
「落ち着いて下さい」
ナース服の女が丸椅子を持って来て男がそれに腰掛けた。少し目線が近くなるが、俺はまだ起き上がれない。
「最悪の経験をVRで経験されたんですね。良かった」
男の目が俺を見つめる。
「最悪の、私と同じ経験を、例え仮想現実だとしても貴方は経験された」
見覚えのある目だ。何時も何時もこの目に見られていた気がする。
「私と同じ、愛して止まない妻と娘を守れなかった経験を」
何を言っているのかわからない。それよりも、さっさとこの忌まわしい機械を外してくれ。
「愛する夏美と海鈴を失う辛さを、私と貴方は経験した」
白衣の男の目から涙が流れ落ちた。
「私はずっと貴方を恨んで憎んでいました。この手で殺してやりたいと思うほどに。しかし、同じ経験をした今は私達は愛する夏美と海鈴を守れなかった事を、死ぬまで後悔しながら生きる同志です」
思い出した。
思い出した。
この男の目は、あの女の狂気に満ち満ちた目とそっくり同じだ。
「海鈴が貴方に轢き殺された後、夏美は自分を責めて責めて、誰がどんなに夏美のせいじゃないと言っても聞き入れなかった。そしてついにマンションのベランダから飛び降りて死んでしまった」
「う……うそ、だ、な、夏美、と、ま、海鈴は、お、俺の……」
口が上手く回らない。
「この実験場はね、私のような理不尽な事件や事故で家族や愛する人を失った遺族が受け取った保険金や賠償金を持ち寄って作ったんです。家族も仕事も持たない、ある日突然消えてしまっても誰も困らない貴方が栄えある実験体一号に選ばれたんです。」
男が口の両端をきつく吊り上げる。
「失う物を何一つ持たなかった貴方と、愛する夏美と海鈴を失う地獄の苦しみを死ぬまで共有出来るなんて、私はとても嬉しいんですよ」
男は白衣のポケットから一枚の写真を取り出し、俺の鼻先に突き付けた。
写真の中で目の前の男と、夏美と、海鈴が弾けるような笑みを浮かべていた。
一瞬、目が合った。
そこからは、よく覚えていない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
汗とアルコール臭い息が暖房で熱せられ、蒸し煮にされている気分にさせられる列車内からようやく解放された俺は、12月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
飲み屋でちらりと見た天気予報では、明日は雪が降るそうだ。既に気温はマイナスになっているのかも知れない。
毎年ほぼ強制的に参加させられる会社の忘年会だが、今年の店は自称食通の同僚が幹事をしただけあり値段の割りに酒も肴もなかなかのものだった。予算の関係で二次会は各自で自由に、というのも良い。適当な理由を付けてさっさと帰途につくことも出来た。
良い気分で改札を出て、不意にポケットの中の鍵に気が付いた。今朝はバスに乗り遅れそうになり、自家用車で駅まで来たんだった。
舌打ちしたい気分で駅前の駐車場に向かう。駅から家のあるマンションまで15分ほどだが、朝までに雪が積もったら車で出社しなくてはならないかも知れない。