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右腕で抱き締めて


 薄暗い部屋の中、やっとオレと牧村は笑い合えた。出来ることなら、もっともっと話がしたい。牧村の苦しみを教えてもらいたい。そして、なんとか力になってあげたい。だが、今は、それよりも大切なことがある。オレにとって誰よりも何よりも、大切なことがあった。


「じゃあ、我が輩は席を外すでござるよ」


「大丈夫か? 一人で」


「小さな子供ではない。団長殿にかまってもらうでござる」


 オレからしたら充分子供だし、その行為もだいぶ子供っぽいのだが、口には出さない。牧村の気遣いが嬉しかった。空気の読めないこいつにしては粋な計らいだ。これは、オレ一人で立ち向かって、何とかしなければいけないことだったからだ。

 牧村は、最後に勇気づけるようにオレの手を握ると、何も言わずに部屋を出た。扉の閉まる音が妙に耳に残る。室内の音が消えた。蝋燭の炎は揺れることなく弱い明かりを灯す。それは、枕を抱き抱えるリュカの頬を染めていた。

 美しい、と思う。不謹慎なことだが、泣き疲れて眠るリュカの姿は、蝶の羽のように儚い美しさを有していた。手を伸ばせば触れられる場所にあるとは思えないほど、異次元の存在に思えて息苦しくなる。


「ん……う」


 リュカが吐息を漏らす。寝返りをうつのかと思ったが、そうではなく、小さく丸まった身体をさらに縮めた。腰にかけられていた薄いシーツが、ベッドから床に落ちる。

 どうしようか。今更ながら迷う。ここでリュカを起こしてしまっても良いものか。寝顔から察するに、悪夢を見ている雰囲気ではない。オレが今ここで起こしてしまえば、また辛い思いをさせてしまう。オレ自らそのような場面にリュカを引き出すのは、ひどく気が引けた。

 いや、そんな綺麗事に逃げるのはやめよう。ただ、怖いのだ。リュカともう一度顔を合わせて、再び泣かせることが怖い。もし、拒絶されたら、嫌いだと言われたら。そんなことを考えるだけで手が震えた。何もかもを破壊するオレの右腕は、たった一人の魔族の少女に怯えている。


「……ふぅ」


 ゆっくり息を吸って、胸いっぱいに空気を巡らせ、そして吐いた。牧村のおかげで、この部屋の空気は少しだけ軽くなっている。オレの肺に入りこんでくれば、不思議と心まで軽くしてくれた。

 リュカの眠るベッドの脇に片膝を立てて座る。枕に押し付けられたリュカの横顔。そこにかかる白い癖っ毛を左手で耳にかけた。軽い髪の毛の感触がほのかに爪先に残る。

 眠るリュカの呼吸音だけが、この部屋の音だった。いや、そこにオレの脈拍もある。二つの音が空気中で混ざり合って、一つになっているような気さえした。そのことに温かな水が、心の底から溢れてくる。誰かと何かを共有できる。それも、リュカのような優しい娘と。嬉しくてたまらなかった。だが、


「リュカ。リュカ。起きてくれ」


 そんな気持ちの悪い自己満足に浸っている暇はないから、リュカの肩に手を伸ばす。


「リュカ。リュカ」


「ん……」


 よく眠っている。しかし、オレの声もどうやら届いたようだ。リュカの目がぼんやりと開かれた。瞳に気は灯っていないが、徐々にリュカも目を覚ましていく。しかし、


「ああ。また、あなたの夢をみるのですね」


 リュカは諦めたような顔で、そうこぼした。


「リュカ?」


「エドガーさまが、こんなにも優しく語りかけて下さる……。そんな、もうあり得ない偽りの微睡みに、浸っているのですね……」


 まだ、夢の中だと思っているのか。だから、そんなにも嬉しそうで、切なそうなのか。


「夢なら、夢の中なら、まだあなたさまに会える……。優しい、いつものエドガーさまが」


 そうして、リュカはその可愛らしい顔をくしゃりと歪めると、また泣き始めた。嗚咽を漏らすことのない静かな涙は、つと流れてシーツを濡らす。


「涙が枯れる。あれは嘘。だって、こうして毎晩あなたさまに会ってしまうのであれば、わたくしはきっと泣いてしまう」


 詩の朗読のような呟きに、無粋にも口を挟んだ。


「そうか。でもね。オレは君に、笑って欲しいんだ。家族よりも、友達よりも、仲間よりも、誰よりも君に笑顔でいて欲しいんだ。だからお願いだ。その涙を、オレに拭わせてくれ」


 オレは、リュカの頬の涙を左手の人差し指で優しく拭った。その煌めく液体は、リュカの体温と同じ温度をしていた。それを感じた一瞬後に、その温度は失われていく。左手でリュカの頬を撫で、そして包んだ。滑らかな肌を、確かに手に入れる。


「え……?」


「夢で良いよ。君のそばにいられるなら、夢でも構わない。その二色の瞳に写れるのなら、どこでだって良いんだ」


 一緒にいたいと思ってくれたリュカに、オレが返してあげられるものは、オレという存在しかない。おこがましいが、オレは、オレを捧げることしか出来やしない。それほどまでに、オレは何も持たない人間だった。けど。けれど。


「大切なこの屋敷の皆と、リュカのそばに、いさせて。オレの願いを叶えさせて」


 これが、オレの全てだった。オレがリュカに伝えられる最大限は、これほどまでに小さい。だが、それがオレの人生だ。だから、オレの願いへの答えを、待つ。


「エドガー……さま……?」


「そうだよ。オレだ。馬鹿で弱くてみっともない、オレだ」


 リュカの頬から手を離し、シーツを握りしめているリュカの手を取った。指を絡め、手のひらを合わせ、指先の感覚を共有する。最後に、ぎゅっと力をこめた。


「ごめん。リュカを傷つけたのはオレだ。でも、やっぱりリュカのそばにいたいんだ。許してくれないか?」


 リュカの顔はみるみるうちに血の気が増してくる。二色の瞳が見開かれ、信じられないものを見つけたような色を灯す。オレは呑気にも、そんなリュカの変化を楽しんでいた。絡めた手に力は込められない。それどころか、オレから逃げるように離れていこうとする。


「嘘……。嘘……! だって、だってエドガーさまは……!」


「色んな人に助けられて、気づかされて帰ってきたんだ。リュカに謝りたい。君の優しさを掻き消した。君の気持ちに気づけなかった。ごめん。ごめんな。本当に、ごめんな」


 どこか心ここに在らずのリュカは、まだオレの存在を疑っているようだった。これほどまでに世界が信じられなくなるほど心を抉り取ってしまったのだ。けれど、今ならまだ償える。都合の良い解釈だが、リュカの表情と先程の言葉から、導き出した答えだ。


「オレだ。帰ってきたんだよ」


「エドガー……さま!!」


 オレの左手を握ったまま、リュカは身体を起こすと、瞳に涙をいっぱいにためて、そして、


「エドガーさま!!」


 飛び込むように、オレの胸に抱きついてきた。軽い体重は勢いがついていて、上手く受け止められず後ろ向きに床に倒れた。右手は伸ばした状態で、身体だけでリュカを抱え込む。


「もう……もう帰ってきて下さらないと思っておりました……!」


「うん」


「幼稚でワガママな私など、とっくに見切りをつけられたと思っておりました! けれど、けれど戻ってきて下さったのですね……!!」


「うん。リュカに会いたくて、戻ってきたんだ」


 どうしても、もう一度リュカの隣にいたくて、ムシのいい話だが、戻ってきたのだ。

 身体にかかるリュカの体重が、こんなにも愛しい。互いを暖め合う体温が、どこまでも嬉しい。小さな小さな身体に、大きな優しさを持ったこの娘が、どうしようもなく魂を震わせる。


「リュカ。ごめんな。リュカに酷いことをした。本当にごめん」


 もう、何度謝罪の言葉を口にしただろうか。だが、残りの人生をひたすら謝り続けたとしても、オレの気は晴れない。のしかかる後悔はリュカが大切なものだと気づくほど大きくなる。繋いだままの左手に、力を込めると、今度は確かに握り返してくれた。


「いいえ。いいえ。あれは私が勝手に心得違いをしただけです。エドガーさまはその優しさを発揮されただけでした。ですのに、私は勝手に……」


「嫉妬してくれたんだろ? レヴィアに言われたよ」


「え、え? い、いや、私は……」


 焦ったように口ごもるリュカは可愛らしい。泣くのとはまた違った頬の染め方をする。


「オレが牧村に優しくするのが、気に入らなかった。だから怒ったんだな」


「う……。うぅ。そうです。だって、エドガーさまはどんな時もマキムラさんのことばかり。あなたは誰にだって優しくて、そこに優劣はありません。けれど、マキムラさんだけは違う。マキムラさんだけ、エドガーさまの一番なのです。私は……私はそれが、悔しくて、嫉しかった」


 そんなの、女の子なら当たり前にある嫉妬心だ。誰だって抱える気持ちだ。しかし、純真なリュカは、自身の心にあるその気持ちを、受け入れられないようだ。オレに話してくれるその口ぶりから、彼女自身への嫌悪感が伝わってくる。


「私だって、エドガーさまの一番になりたい。私だけを見て欲しいです。でも、そんなワガママは、見苦しい」


 オレの胸に頬を擦り付けるリュカは、諦めるような声音で語る。


「良いか?」


「え?」


 そんなリュカに、


「オレのこの、醜くて汚くて、乱暴な右腕で、リュカの頭を撫でて良いか?」


 オレはお伺いをした。許可を、了承を請うた。


「リュカの頭を、撫でたいんだ」


 オレは、極力右腕で誰かに触らない。暴力と破壊を司るこの右腕は、生物に触れるだけでその存在を吹き消してしまう。だから、オレは右腕を他者と関わらせない。普段の生活でさえそうなのだ。こんな、大好きな仲間たちや、愛しい女の子に対して触れるなど以ての外だ。柔らかくて温かいものたちと、オレの右腕は対なるものだ。


「私の、頭を……?」


「うん。きちんと、リュカを抱きしめたいんだ。片手じゃ足りないんだ」


 けれど、オレだって、誰かを抱き締めたい。遠慮することなく好意を届けたい。この気持ちだって、オレに右腕を授けた神様からすればワガママだろう。でもさ、もう良いだろ? いい加減認めてくれよ。オレは人間よりも危なっかしい存在かもしれない。人間からしたら、迷惑な存在なのかもしれない。けれど、そんなオレだとしても、誰かを抱き締めたいんだ。そしてその誰かは、他の誰でもなく、リュカなんだ。


「オレがこの右腕で抱き締めるのはリュカだけだ。頭を撫でるのは、リュカだけだ。だから、オレのワガママを聞き入れてくれないか?」


 顔をを上げたリュカと間近で目を合わせる。少しだけぽかんとしたリュカは、ちょっと間抜け顔だ。けれど、そんな姿すら可愛い。やっぱり子羊みたいだ。


「私、だけ……?」


「うん。リュカだけ。だから、ダメかな?」


「そんな……そんなの……! あぁもう。ズルい。ズルいです。エドガーさまは、いつもそうやって、私の心を容易く溶かしてしまうのですね」


「そんなつもりはないんだけどな。それに、溶けてるってならオレもそうだ。リュカの体温で溶けたどろっとした生暖かい何かが、ずっとオレの胸にあるんだぞ」


 恋や愛を表現したにしては、いささか気持ちの悪い言葉だったが、オレの感情なんて所詮そんなものだ。

 震えるリュカの瞳と向き合ったまま、お許しを待つ。右腕はもう我慢し切れないと言うかのように空中で待機している。そして、


「もちろんでございます! 私の頭を、是非、撫でて下さいませ……!」


「ありがとう」


 リュカは、握っていたオレの左手を離し、首に抱き付いてきた。その細い肩に左手を当て、そして、右腕で、ゴツゴツとした鱗に、剣のように尖った爪のある右手で、リュカの頭を撫でる。優しく優しく。感覚としては、ふわふわのウールそのまんまで、少し可笑しくなってしまう。


「これからは、毎日撫でて下さいね」


「毎日?」


「はい。毎日です。忘れちゃダメですよ? 絶対ですからね? これも命令です」


「はは。喜んで。王女さま」


 くるくるとカールした髪の毛が楽しい。小さな頭が愛おしい。触れているだけで心が和み、そして、胸が高鳴ってくる。こんな、世界で一番素敵な女の子の頭を毎日撫でられるなんて、オレは幸せ者だ。生きてきた甲斐がある。


「リュカ」


「はい」


「オレの右腕、怖くないか?」


 昔、会ったばかりの頃、同じ質問をした。もう一度、初めて言ってくれたあの言葉が聞きたかった。


「怖くなんて、ありません。この右腕は、優しいエドガーさまの右腕。誰かを守り、誰かを包む右腕。私の大好きな、エドガーさまの右腕です」


「ありがとな……」


 まるで打ち合わせて言わせたみたいだ。けれど、それで良かった。そんなことを言ってくれるのは、リュカだけだったから、それで充分嬉しかった。込み上げてくる涙をバレないように、リュカのもこもこに顔を埋めた。石鹸の香りする。リュカの香りがする。そしてそれが大好きな女の子だと実感出来る。

 オレはこの日を忘れない。捺印を押すように、心に押し付けて記憶する。閉ざしていた心を初めて解放した夜の、時刻、色、香り、感触、温度。その全てを身体中の血管を通して全身に行き渡らせる。リュカが疲れて穏やかな寝息に胸を揺らすまで、ずっとそうして、世界を記憶していた。

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