君ともう一度
それはリュカの声ではない。かなり掠れていたが、牧村の声だった。おそらく、二人とも優しい娘達だから、傷ついたお互いを慰め、支え合っていたのだろう。そして、泣き続けたせいで喉が痛み、声が枯れてしまったのだ。
「入るぞ」
部屋の中は、ベッドの脇にある机の上の蝋燭が一つ燃えているだけで、かなり薄暗かった。カーテンは締め切り、陰鬱な空気が室内を支配している。ただ一つの蝋燭は、そんな闇の中残った最後の心のように思えた。
「……寝てるのか」
「さっきまで起きてたんだけどね」
ベッドでは、苦しげにうつ伏せになったリュカが、枕を抱き抱えるようにして眠っている。幾重にも重なる涙の跡が、彼女の頬や鼻筋には残っていた。それが蝋燭の灯りを半透明に反射している。
「ボクはいいよ」
オレの方を見ようとしない牧村は、そんなリュカの白い髪の毛を優しくすくい取りながらそう言う。
「自覚あるんだ。迷惑かけてるのはボクだし、酷いこと言ったのもボクが先だ。だから、君がもしボクに罪悪感を持っているなら、それは忘れてくれて良い」
床に膝をついてベッドに横からもたれかかる牧村。オレには一貫して背を向けたまま、淡々と話す。しかし、その声は震えていた。
「ボクが全部悪かったんだ。調子乗ってたんだよ。感謝されたり、友達みたいに過ごしてくれたりして、勘違いしちゃったんだ。そんなの、あり得ないのに。まるで自分を普通の人間みたいに思っちゃったんだ。そんなわけない。ボクは社会不適合者のニートで引きこもりなのに」
牧村は、つっかえつっかえ、自分の心に擦り込むかのように話す。
「ごめんな」
また、この弱い娘の心に、傷をつけてしまった。それはゆっくりと侵食し、牧村の過去の傷すら呼び起こす。考えなしのオレの言葉が、前を向いた彼女の顔面を殴りつけ、再び後ろへと振り返らせた。
「知ってたんだ。自分がダメな奴だってことくらい。でも、君に優しくされて、リュカちゃんに笑いかけてもらえて、おかしくなっちゃったんだ。馬鹿だよね。人はそう簡単には変わらないのに。時間と自分とで睨めっこしてるだけの人生を、ずっと過ごしていくのが、ボクにはお似合いだったのに」
最後に牧村は、自分をそう締めくくると、リュカの髪から手を離した。その両手は彼女の顔を覆う。震える肩をオレは背後からただ見下ろしていた。だが、オレには伝えたいことがある。だから、言う。
「違う」
違うんだ。
「違わないよ」
「違う」
「違わないんだって……」
裏返った牧村の声は、鍵盤の右端を叩いたようにオレの耳を鳴らす。オレは、ゆっくりと牧村へ近づき、彼女の真後ろに胡座をかいて座った。
「違う。お前は、違うんだ」
「何がだよ。ボクなんて、いてもいなくても良い存在なんだよ。でも安心して。もうすぐ帰るからさ。すぐいなくなるから。だから、もう……」
牧村は叫んだ。
「もうボクに、夢を見させないでよ!」
ずっと孤独に生きてきた牧村の苦しみが全て、その言葉に乗っかっていた。だが、オレは確信を持って否定することが出来る。
「夢なんかじゃない。オレや、リュカがお前と過ごして楽しかった時間は、夢じゃない。確かに存在した、現実なんだ。お前が好きで、お前と一緒に過ごしたくて、そこにあった事実なんだ」
「そんなの……」
「嘘じゃない。そりゃもちろん、偽善や自己満足がゼロだったとは言わない。でも、お前と話して、笑って、楽しかったことは本当なんだ。お前を友達だと思ったことは本当なんだよ。だから、夢だとか、嘘だとか、そんなこと言わないでくれ。オレは、お前と出会えて嬉しかったんだ」
異世界なんて馬鹿みたいな場所にやってきた、そんな状況と感情を、唯一共感出来る存在なんだ。オレは、もし許されるならば、これからもお前と一緒にいたい。
「だから、ごめんな。酷いことを言った。でも、それでもお前と一緒に生きたい。だから、許してくれ。本当に悪かった。もう一度」
もう一度、お前の顔を見せてくれよ。
図々しいお願いだ。おこがましい、自分勝手なお願いだ。でも、それでも、お前にはこう言いたいんだ。お前には、幸せな人生を歩んで欲しいんだ。
「無理だよ……」
「無理なんかじゃない。だってお前は変わろうとした。今回だって、オレ達を頼ってきてくれた。一歩ずつ進んでいるんだよ。大丈夫。大丈夫なんだ。だからすまなかった。酷いことを言ったオレを、許してくれ」
君が許してくれるなら、オレは君を大切にする。傷ついてぼろぼろになったその心を、必ず縫い繕ってみせる。君が、自分をいてもいなくても良いだなんて思わなくなるようにしてみせる。だから、そのための赦しをオレに与えてくれ。
「牧村。また、やり直そう。二人で頑張っていこう」
牧村の身体を背後から抱きしめた。牧村はいやいやをするように身体を揺するが、離さない。右手でそっと、空気に触れるようにそっと彼女の身体を抱いたまま、左手で牧村の手を外す。涙する顔を隠していた手を片方ずつ外していく。その手は弱い力で抵抗されたが、最後には牧村の顔が見えるようになった。それでもまた顔を隠そうとするから、左手で両の手首をまとめて掴んで止める。
「うう……ズルいよ……」
「お前の手は小さいからな」
「そう、なんだけど、そうじゃなくてさ……」
牧村は、流れる涙はそのままに、鼻を何度もすする。すんすんという音は、どうしてかとても可愛らしく、愛しいものに思えた。
「許して、くれないか?」
牧村によく聞こえるように、耳のすぐそばで声をかける。オレの鼻が牧村の耳たぶに触れる。
「頼む。許してくれよ」
「う、あ……んん」
しかし、牧村は顔を下に向けたまま、首を横に振る。
「やだ……」
「お願いだ」
もう牧村の涙は止まっていたが、まだその名残は鮮明で、顔も耳も首筋も赤い。左手で捕らえた手首も熱い。横座りする牧村の、鎖骨の辺りを右腕で抱える。
「悪かった。許してくれ」
「だから、ズルいんだってば……」
「何が?」
「う、うう……。もしかして、許すって言わないと、ずっとこのままなの?」
「そうだ」
すると、牧村はびくりと震えた。それから惑うように身体を小さく揺らして、そして、
「……どうしようかな」
そんなことを言い出した。焦らしているのか、はたまたからかっているのかと思ったが、どうやらそういう雰囲気ではない。牧村は本気で考え込んでいるようだった。だが、それはどこかわざとらしい。
「こ、このままが良いとかじゃなくて、そう! 罰だよ罰。ボクを傷つけた罰だよ!」
「これが罰になるのか?」
むしろ、オレみたいな男に背後から抱きしめられている状況は、女子にとって不快なのではないか? だが、牧村がそう言うのであれば仕方ない。
「わかった。ならこのままでだな。悪かったから、許してくれよ」
「どうしよっかなぁ。我が輩か弱い女の子なのに、江戸川殿に酷いこと言われたからなぁ。くすんくすん。辛いでござるよぉ」
「ナメてんのかてめぇは」
人がせっかく真剣に話していたというのに、途端に調子に乗りやがった。そんなんだからメンタルに上げ下げがあるのだ。オレの腕の中でメトロノームのように揺れる牧村は、辛そうな顔は引っ込めて、なんだか楽しそうだ。
「ふふふ。じゃあ江戸川殿には、他にも罰として我が輩の言うことを聞いてもらおうかな」
「あんまり馬鹿な内容はダメだぞ」
「うん。ならまずは、今日から我が輩がここで暮らせるよう尽力するでござる。あのハーピーのお姉さんとの和解とか、国王様への言い訳とか」
「わかった。でもアヤさんは大丈夫だ。基本優しい人だからな」
ここぞと言うところで頼りになることもわかったし。悪戯ばかりするのはいただけないが、それもまあ楽しいと割り切れないこともない。
「それと、あのメイド達を……どうしようかな。てか王城のメイドも良かったけど、こっちのメイドも素晴らしいでござる。ふりふりいっぱい。何より可愛い。たまらんでござる」
「あ、それだけど、金髪碧眼の子は男だぞ」
「……………………マジ?」
牧村がぴしりと固まったのがわかった。ぎぎぎ、とロボットのように首を回してオレと目を合わせる。
「マジだ。女装してるんだよ。それと、背の高い方は普段は男装してる。今は罰ゲームでメイド服着てるだけだ」
オレの言葉に牧村は、
「ブッハァァア!!」
鼻血を撒き散らしながら前のめりで倒れた。オレの右腕にかろうじて掴まる。
「ま、マジでござるか……。そ、そんな、ガチの男の娘と、男装麗人。そんな、そんなラノベの中だけの存在が現実にあるなど……」
「ちなみに男の娘は今下着をつけてない。罰ゲームで」
「ぐはっ!? どこの誰かは存ぜぬが、その罰ゲームを考えた人は天才、いや、神でござる!」
まあ、そこはオレも大いに同意する。あと二、三日はパトリシアもリーリも今のままだ。その点で言えば、牧村は非常に良い時期に屋敷にやって来たということになる。鼻と口から盛大に血を垂れ流す牧村は、最早死に体だ。びくびくと痙攣していて、正直見ていて気持ち悪い。町で見かけても声をかけたくないレベルだ。むしろ、早く警察に通報しなくてはならないレベルだ。片手で鼻と口を覆い隠しているが、それでも流れる血はとどまることを知らない。そして、突然オレの右腕から脱出し、拳を固く握って立ち上がる。
「我が輩は宣言する! 絶対ここに住む!」
「はいはい」
渇いた拍手を送る。ポーズこそ勇猛果敢な戦士のようだが、その実ただのオタク根性である。
だが、そんな様子も今は微笑ましい。さっきまで酷く落ち込んでいたのが嘘みたいに笑ってくれている。理由は何とも言えないが、それでも嬉しい。妄想でもしているのだろう、何やらにやつきながらヨダレを垂らし、手を卑猥に動かし、足は妙なリズムで震え、目はイッてるが、それでも……
「いや、お前危ないぞ!?」
完全に変態だ。オレの仲間達の身が心配になって牧村の頬を叩く。変な世界にぶっ飛んでる牧村を強引に連れ戻した。牧村も、自分が花畑で駆け回っていたことに気づいたようで、はっとなって頬を染めた。
「す、すまない。取り乱したでござる」
「わからないでもないが、落ち着けよ」
「ああ。だが、どうしよう。我が輩は勇者でござる。多分、あのメイドさん達からは嫌われているでござるよ」
ここで現実を思い出したようで、心底悲しそうな顔をする。嫌われているのが嫌、と言うより、メイドさんとスキンシップ出来ないことを悲しんでいる顔だ。せっかく気持ちが明るくなったのに、ここでまた落ち込まれては困る。牧村の前に跪き、両肩に手をのせて安心させる。
「大丈夫だ。お前は魔族に対して酷いことなんて一つもしていない。ここの皆は良い奴ばかりだ。ちゃんとわかってくれるさ」
「そ、そうかな」
リュカはもちろん、リーリだってオレを受け入れてくれた。パトリシアも優しい娘だ。きっと皆牧村に良くしてくれる。ここで暮らしてきたオレが太鼓判を押せるのだ。少し俯く牧村の顔を、下から見上げて、目を合わせた。
「大丈夫だ。だから、オレのこと、許してくれ。お前の居場所はちゃんとある。そこにオレも居させてくれ」
まだ、牧村の口から直接許しの言葉を聞けていない。もうどこかへ吹き飛んでしまったように思える内容だが、オレにとっては重要だった。自分のしでかしたことに、けじめをつけたかった。
そして、牧村は一度ゆっくりとまぶたを閉じ、最後、意を決したように目を見開いて、オレを真摯な瞳で見つけ返した。
「ボクは君を許す。だから、これからも仲良く、してね……?」
「もちろんだ!」
牧村は、自身の肩に添えられたオレの両手を取り、ぎゅっと握った。その手の体温が心地良く、とても温かいものに思えた。
笑う。二人で、おでことおでこをくっつけて、笑う。まるで楽しいことを見つけたような、雲の晴れ間に虹がかかったかのような、どきどきする笑顔だった。




