オレにしか
薄い雲に覆われた夜空では、朧げな赤い月の光が唯一の灯りだった。青い月は、どこか海の向こうに隠れているらしく、いつも仲の良い赤と青の月の共演が見られない。だが、そのことに不安になる必要はない。だって、あの月はもともとは一つだからだ。遠い所から見てるいるから二つに見えるだけで、彼らはいつも、誰よりも近くに寄り添い合っている。
まだ夜明けは遠い空の下、海の幻想号の甲板の上で、オレとアヤさん、レヴィアは立っていた。今は少し強い雨が降っていて、レヴィアの魔法発動を待っていると、服が重くなるほど濡れてしまった。
「良い? 私はこの魔法、あんまり得意じゃないわ。だから使ったことはほとんどないの」
「わかった。とにかく、出来るだけ屋敷の近くに飛ばして欲しい」
アヤさんには、現在位置を把握するという魔法の羅針盤を貸してもらっている。これがあれば、赤い月の位置から、行きたい場所への方角と距離を割り出せる。銀縁の半球状のガラス玉の中に、黒い矢印と数字がいくつか並んでいる。非常に便利なのだが、右手の中に収まる大きさだと言うのに、両手で持たないと取り落としそうなほど重いのが難点だった。
「よし。描けた」
レヴィアは雨の中甲板に円陣を描いている。そして、それが今完成した。中心に立つオレは、レヴィアに最後の声かけをする。
「ありがとう。相談に乗ってくれて。励ましてくれたのも、すごく嬉しかった」
「はぁ!? 私は私のしたいようにしただけ。あんたの為に何かするわけないでしょ? 思い上がらないことね」
そんなお約束のような憎まれ口も、もう心地よい味わいだった。自然と笑顔になる。
「うちはしばらくここでレヴィアちゃんで遊んでから帰るわ。頑張りや」
「はい」
「ちょっと待って!? 私『と』遊ぶんじゃなくて、私『で』遊ぶの!?」
「言い間違いや。早よ詠唱してや。寒いんよ」
絶対に言い間違いじゃないな。アヤさんにとっては、魔王もスーパーアイドルも、等しく玩具なのだろう。
「う、うう……。まあ、良いわ」
釈然としない表情のレヴィアが、詠唱を開始する。
「虹の彼方・天と地・黎明の終焉・瞬き視る者・光陰・彷徨う御心・今ここに飛び立たん!」
レヴィアの魔力によって、円陣が緑色に輝く。その光が目に届いたのは一瞬だけで、すぐに不快感だけに全身が包まれた。得意じゃないと言うのは本当みたいだ。逆さ吊りされたまま停止されているような感覚が何度も背筋を撫でる。血が頭に昇る。胃の腑が上がってくる。それが限界に達する手前、
「う、げぼっ! ぐはっ! う、ゲェエェ……」
オレの足は地の感触を踏みしめていた。でもやっぱり吐く。顔を上げて雨を口の中に取り込み、うがいする。それを何度か繰り返して、酸っぱい口臭を消し去った。落ち着いてきたので、辺りを確認する。すると、少し目をこらしたその先に、見覚えのある建物があった。
「やっぱ仕事する魔王だなぁ」
それは魔王の屋敷の裏手だった。暗い夜の中でも視認できたことは最上級の幸運だ。距離にして数百メートル。得意でない魔法でも、きちんと送り届けてくれた。これが「持っている」者のカリスマか。オレには一生縁のない力だな。
レヴィアに感謝しつつ、屋敷に向かって走り出した。ぬかるんだ黒土はびちゃびちゃと跳ね上がり、ズボンを汚し服を汚し、時おり口の中にまで入ってくる。それを吐き出しながら、とにかく走った。腰の辺りまで生えた雑草が邪魔で、薙ぎ倒すようにして進む。
すると、突然横の草陰からゴブリンが三体、オレめがけて襲いかかってきた。緑色の醜悪な顔に潰れた鼻を持つそいつらは、叫びながら棍棒をふりかざす。
「どけや!!」
龍王の右腕で殴り、地面に叩きつけた。しかし、こいつらに話し合いなどきかない。リュカが今なお悲しんでいるのに、こんな雑魚どもに邪魔をされるのが煩わしくて、腹立たしかった。馬鹿正直に正面から突撃してくるゴブリン達を、龍王の右腕の爪で切り裂く。しかしその時、後頭部にがつんと鈍くも重い痛みが走った。驚いて振り向くと、オレの顔に泥がかけられる。目が見えない。これは、こいつらの仲間か? いや、ゴブリンは狡猾だとリーリが話してくれたことがある。最初の三匹は囮だったのか。普段なら引っかかることもない戦術だが、雨で視界が悪いことと、気持ちが焦っていたことが悪い方にハマった。視界を失った状態で、ゴブリン達の袋叩きにあう。やつらが剣を持っていないことが唯一の救いだった。
「っの!! うっぜぇんだよ!!」
龍王の右腕で地面を思いっきり殴った。その衝撃で辺り一面が吹き飛ぶ。周りにいたゴブリンを風景ごと殲滅した。
「くそっ!」
全身の鈍痛に一瞬膝をつくが、それでももう一度走り出す。屋敷はすぐそこだった。
屋敷には、正面玄関と、裏門。そして、洗濯場やリーリの家庭菜園に面した東門がある。裏門から入るのが一番早いのだが、オレはあえて玄関へと回り込んだ。何故かそうすることが誠意だと感じたからだ。屋敷の全方位を守護する高い魔法鉄柵の周りをぐるりと回って、とうとう正面にまでたどり着いた。まずは鉄柵を押し開き、木々が植えられた庭を抜け、玄関前へと到着する。
「ふぅ」
息を吐いた。いざここにきて臆したりはしない。一秒でも早くリュカの元に帰ることが、オレの成すべきことだ。重厚な巨木の扉に備えられた銀のノックを手に取って、出来るだけ大きな音を鳴らした。この音を聞いて、リーリかパトリシアが出てきてくれる。しかし、オレがノックをしたそのすぐ後に、中からくぐもった声が聞こえてきた。
「入れ」
扉を開く。その先には、腕を組んだリーリが仁王立ちしていた。
「ただいま」
「まだここに貴様の居場所があると思っているのか?」
リーリは格好こそふりふりメイドのままだったが、溢れる怒気と覇気は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。オレを上から睨みつける。
「私が貴様に言ったことは覚えているか?」
「ああ」
リュカを悲しませたら許さない。主従であり親友である彼女を想うリーリの心は、紛れもなく本物だ。オレはそれを知っていながら、とんでもない過ちを犯した。
「貴様を殺したいと思ったことは何度もあるが、ここまで本気で思ったのは初めてだ」
「……」
リーリはハルバードを召喚した。斧部は青い炎で燃えている。身体を半身にして、どっしりと構え、オレの心臓を狙う。
彼女は、いくつの言葉で形容してもしたりないほど激怒していた。だが、
「どいてくれ」
「なに?」
「リュカに、会いたいんだ」
「貴様がリュカの名前を呼ぶな。寒気がする」
本来ならば、オレはここでリーリに殺されるべきなのかもしれない。それだけの罪を、怒りを買った。だが、ここでそれを受け入れることも、許されないことだった。
「リュカは、きっとまだ泣いてる。涙を拭えるのは、オレだけだ」
オレのために。そして、リュカのために。何もかもを排除して、彼女の元へ。オレが出来る、唯一にして最小の罪滅ぼし。
おそらく、リーリはずっとこの玄関前でオレを待っていたのだろう。約一日の間、怒りに拳を震わせながら、この寒くて暗い場所で、オレが帰ってくるのを待っていた。そんなリーリの心にも、オレは応えたい。
「オレが帰ってくることを信じてくれて、ありがとう。もう少しだけ、怒りの矛先を、待っていてくれ」
オレの言葉に、リーリは深く深呼吸をすると、ハルバードを消失させた。そしてゆっくりとメイドらしく姿勢を正して一礼する。
「お帰りなさいませ。こちらでございます」
嫌味のないにこやかな笑顔と丁寧な所作で、屋敷の奥を手で示す。これ以上ないほど痛烈な当てつけだった。オレの心にヒビが入るが、立ち止まっていられない。大きく頷いて、リーリの背中についていく。食堂の前を通り過ぎた時、団長が中から出てきた。
「おや、ゲス男が帰ってきたか」
「全裸女に言われたくないな」
「もう疲れた……」
団長は、一糸まとわぬ姿で腰に手を当てる。もう驚くのも馬鹿らしい。リーリは苦しそうに片手で額を覆う。この屋敷に来てから団長は脱衣癖を少しは自重するようになっていたが、何故か再発したらしい。オレも驚くことはなくなったが、それでも裸の女性をじろじろ見るわけにはいかないので、そっと顔をそらす。しかし、オレの細やかな気遣いにも、団長は御構い無しに視界にずかすが侵入してくる。
「どこに行っていたのかは知らんが、頭は冷えたようだな。ま、それで何とかなる問題でもないが、冷静でないよりマシだ」
「あんたも自分の状況を冷静に見つめなおした方が良いぞ」
騎士団長が魔王の屋敷で全裸って、そっち系の拷問とかを連想させる。
「リュカと勇者殿は奥だ。ま、矜持を放棄して謝罪すれば可能性がないわけでもない」
要はほとんど許してもらえる芽がないと言うことだ。団長は冗談はよく言うが、嘘はつかない。変に話を誇張したりもしない。彼女の言葉は紛れも無い真実だった。だが、それが何だと言うのか。
「やるしかないんだ」
「ま、どう思うかはダーリンの自由だ。好きにすれば良いさ」
「ああ。ありがとう」
「とは言え、この屋敷でどう過ごすかの自由は貴様にはない。早く服を着ろ。お願いだから」
人間嫌いのリーリが、とうとうお願いした。闘わずして魔族を屈服させる辺りは流石は騎士団長と言ったところか。理由も方法もとんでもないが、まあ事実には変わりない。
リーリは今から団長がきちんと服を着るかを監視するようなので、ここからはオレ一人だ。雨の音が聞こえてくる。暗い廊下の先はよく見通せない。ここに立つのはもうオレだけだ。闇の中に取り残されたような錯覚を起こしそうになるが、踏み止まった。オレは一人なんかじゃない。オレを必要としてくれる人がいる。
オレが破壊した壁は、すでに修理されていた。リュカの部屋の前に立つ。中から物音は聞こえない。一度深呼吸して、あえて大きくノックをした。指先が冷えていく。それでも、待つ。そして、
「……良いよ」
嗄れた声が、返ってきた。




