海の幻想号
アヤさんに運搬され始めてどれくらいの時間が経過したのか。オレの体重はそこそこ重いはずだが、彼女は休憩をすることなく飛び続けている。地面から二十メートルくらいの高さを、雨が頬に当たると痛い程度の速度での空中闊歩だ。
別に、この人に付き合う必要はなかった。無視してとっととどこかへ行けば良い。多少ついてこられても、オレなら追い払うことは出来る。しかし、そうする気になれないのは、まだ心の片隅で、何かを期待しているからか。
「さて、見えてきたよ」
「海……?」
視界に入ってきたのは、鈍色の雲を写す鈍色の海だった。景気の悪い色をした海はまるで輝いて見えなくて、オレの心は本当に荒んでいるんだなと変に実感出来た。海辺には砂浜や防波堤はなく、巨大な埠頭だけがある。ただ、その近くにはいくつもの大きな倉庫があった。そこでは、かなりの数の魔族が木箱を運んでいたり、ひとまとめにしていたりして働いている。その光景には既視感があった。
「ここって……」
「魔界アイドルレヴィアの船、海の幻想号の停泊地。その中でもよく寄港する港やな」
アヤさんはふわりとオレを下ろすと、自身も地面に降り立って歩き始めた。どんどん港の方へ進んでいく。
「あの、ちょっと!」
「まあ騙された思てついてき。悪いようにはせんから」
先を行くアヤさんの背中を追いかける。すると、
「お。流石はうちや。最高のタイミングやね」
海の彼方、水平線の向こうに、小さな黒い点が見えてきた。それに反応するように、港の魔族たちも仕事を活発化させる。次々と木箱を埠頭へと運んで行った。黒い点は、少しずつ大きくなっていき、それが点ではなく船の形になる頃には、海を両断するような波飛沫をあげるようになる。巨獣の唸り声のような汽笛の音が灰色の空に向けて放たれた。そして、山ほどの大きさがあるふざけた巨大帆船が、埠頭にゆっくりと停泊した。見上げれば、そのまま後ろにひっくり返ってしまいそうなそれは、最早船ではなく城だ。
「さぁて行くよ」
「ちょっとアヤさん! 行くって……」
「魔界のスーパーアイドルに、会いに行くんよ」
オレを振り返ることもせずに平然と言ってのけるが、それはとてつもなく難しいことだ。以前オレがレヴィアに会った時も、黒魔女マミンの紹介があったからだった。つまり、魔王レベルのツテがなければ、レヴィアには会えない。もしかして、アスモディアラから何か紹介状のようなものを預かっているのか? そんなことを考えていると、
「な、なんか視線を感じるんですけど……」
「そう? ま、うちくらいの美人が通ったら当然やろ」
港に入った途端、もの凄い数の視線がアヤさんに集まり出した。張り切って仕事に精を出していた魔族達が、ピタリと手を止めて彼女を見る。時には二度見、三度見するような者もいて、綺麗なお姉さんがいるから振り返る、というのとは違う気がする。誰も声などはかけてこないが、アヤさんの前には誰一人として立つことなく、道がすぅっと拓けていく。そして、気がつくと埠頭の先にまで辿り着いていた。かなりの数の魔族が押し合いへし合いをして仕事をしている中、こんなにスムーズに歩けたのは奇跡だ。
「ちょいちょい、お兄さん」
そして、そんなアヤさんに注目していた一人の、荷物の搬入を指揮している魚頭の魔族に、アヤさんが声をかけた。
「は、はい?」
「レヴィアに伝えてや。うちが会いに来たよって」
「いや、その、うちと言われましても……」
「んん? わからん? ほな、ハーピー族のアヤさんが来たよって言うてや」
すると、魚頭は青い顔をさらに青くしてパクパクと口を開け閉めしたあと、逃げるように巨大帆船の中に走って行ってしまった。指揮者がいなくなった現場は当然作業が停滞するが、そんなことにも一切構わない行動だ。しばらくして、先ほどの魚頭がぜぇぜぇ言いながら帰ってきた。
「あ、あの。レヴィア様が上がってこいと。船長室におられます」
「ありがと。ほらリューシちゃん行くよ」
驚き過ぎて声も出ない。ここまであっさりとレヴィアが面会を許可するなんて、それこそ天地がひっくり返るような事態だ。木箱や荷物を搬入している巨大な桟橋の中央を、アヤさんは堂々と通っていく。仕事中の魔族達は、一人残らずアヤさんに道を譲った。なんなんだ、この人は。魔王への態度といい、雰囲気といい、まるで底が見えない。
「ほら、何しとるん? 早よおいでや」
振り返ったアヤさんは、立ち止まっているオレにため息を漏らすと、羽をぱたつかせて手招きする。オレの周囲の魔族たちの視線で、やっと脚が動き出した。彼らの仕事をこれ以上停滞させないためにも、さっさと船に乗らないといけない。
「船長室は確かこっちやったな。歩くのめんどいし飛ぶよ。リューシちゃん、また掴まってや」
「は、はい」
桟橋から甲板に登ると、またふわりと羽を広げて空へと飛んだ。右腕でアヤさんの足首辺りを掴んで運んでもらう。デカすぎる船の船頭へと飛んでいく。時折海風に吹かれたが、手を離すと硬い甲板に叩きつけられるので、必死にアヤさんに掴まる。しばらくそうして飛んで、やっと船頭に到着した。そこから船の中へと続く大階段を降りていく。かつかつとブーツを鳴らして歩くアヤさんに迷いはない。この船の内装を知っているようだった。
「あの、アヤさん」
「なんや?」
「その、どうして……」
わからないことや聞きたいことが多すぎて、上手く言葉に出来ない。
「ま、レヴィアは他人を元気付けるんが上手いんよ。それにあやかろう思てな」
「は、はぁ……」
アイドルやってるんだから確かにそうかもしれないが、たかだかオレのためだけに何かしてくれるような安い魔族ではない。魔王だし、スーパーアイドルだし、何よりあの性格だ。不興を買ってすぐに追い出されてしまう未来が容易に想像出来た。
「ついたついた。さぁてレヴィアちゃん、おる?」
「いるわよ私の船なんだから。何しに来たかは知らないけど、さっさと入って来なさい」
船内の中ほどの位置にある大きな部屋の前で、アヤさんは中に声をかけた。すると中からは、可愛らしい声に乗った捻くれた返事が返ってくる。先に入室するアヤさんに続いて、おっかなびっくりオレも部屋に入った。
「うわ。あんたびしょ濡れじゃない。よくそんなので人の部屋に入ってこれたわね」
「うちとレヴィアちゃんの仲やん。細かいことは気にせんでや」
「気にするわよ。あら?」
レヴィアの部屋は、かなり豪勢だった。至る所に宝石や貴金属のネックレスや指輪、腕輪、イヤリングが飾られ、部屋の三分の一は色とりどりの衣装ケースで埋まっている。その中央にでんと構えられた赤い大きなソファに、レヴィアは肘をついて寝そべっていた。赤いシャツにリボン、下半身の同色のスカートからは、魚の尻尾が見えている。それがぴちぴちと揺れていた。天の川のような綺麗な銀髪に、海色の瞳。整った愛嬌のある顔は小さくて、まさしく男どもを熱狂させるアイドルの気品があった。赤く化粧を施された目がオレを射抜く。
「またあんた? 言っとくけど、もうサインは描かないわよ」
しっしっと、犬や猫を追い払うように手をひらひらさせる。そして、アヤさんとオレの姿を一通り見て嫌な顔をする。
「二人してびしょ濡れ。本当あり得ないわ。アヤ、あんた雨の中飛ぶとか何考えてんの?」
「ちょっとな。てことで風呂貸してや。うちも濡れたままやと風邪引くし」
「船上の真水の貴重さ加減をまるでわかってないわね。迷惑もいいとこよ。でも貸してあげるわ。あんたら臭いのよ」
「ま、うちくらい美人やったら多少臭くても関係ないけどな」
レヴィアの嫌味を歯牙にも掛けず、アヤさんは部屋の奥に行ってしまった。ソファの後ろにはシャワールームのような小さな風呂があるみたいだ。すると、
「リューシちゃん、一緒に入る?」
風呂と部屋を隔てる壁から身体を出したアヤさんが、ぺろりとブラウスを下げて肩を見せてきた。一気に体温が高まるほど色っぽいが、今はそういう精神状態ではない。目をそらすだけで返答とした。
「で? 何そこで突っ立ってんのよ。さっさと風呂入って着替えてきなさいよ」
「いや、今はアヤさんが……」
「この船の中に風呂が一つのわけないし、あんたなんかに私専用の風呂を貸すはずもないわ。外でジャーマネが控えてるから、適当に連れて行ってもらいなさい。全く鈍臭いわね」
レヴィアはいらいらしながら手元の新聞をめくっている。その手が再びオレを追い払う仕草をした。オレも言われるがままに外に出た。するとそこには、黒服黒眼鏡七三分けのあのマネージャーがスタンバイしていて、オレを見るなり物言わずに歩き出す。多分ついてこいと言うことだろうから、その背中を追いかける。
こんなでかい船には乗ったことがないから、どんなものなのか気になって、歩きながらも周囲をきょろきょろと見回していた。レヴィアの部屋付近には他の用途の部屋はないらしく、ただ無機質な一本道が続くだけだ。窓もないので、景色がずっと同じで頭が狂いそうだった。
「こちらです」
そしてとうとう、左右に小部屋や窓が見え始めた頃、マネージャーが扉を開いた。中は、小さな一人用のシャワールームがずらっと並んでおり、他の船員も何人か身体を水で流していた。
「現在お湯は出ません。このレバーを倒すと水が出ますので。石鹸はマミン様印の魔法石鹸ですのでご安心を」
「は、はぁ」
このマネージャー、とにかく話し方が機械みたいだ。テキパキしているというより、なんか事務的、流れ作業的な会話方法だ。
「レヴィア様が他人を待つのは最大三十分までです。帰りの道もありますので、風呂の時間は約四分です」
「そすか……」
本当にただ雨水だけ流して終わりそうだな。まあ、文句を言える筋合いではないから黙って服を脱いで個室に入る。マネージャーに教えてもらった銅色のレバーを倒すと、ジョウロのような弱い勢いの水しか出てこなかった。異世界に来て日本レベルの技術を期待する方が悪いが、これはちょっと萎える。水も濁ってるし、それに雨に濡れて風邪を引きそうだから風呂に入るというのに、それが水風呂では本末転倒だ。いや、レヴィアはオレ達が臭いから風呂に入れと言ったんだっけな。元よりこちらの体調など考慮してくれていなかった。
じょぼじょぼという蛇口が壊れたような勢いの水を頭頂に感じながら、リュカと牧村を思い出していた。あいつら、まだ泣いてるのかな。大好きなあいつらには早く泣き止んで、楽しいことを考えて欲しい反面、オレのことも思い出して泣いて欲しくて、何とも酷いことを少女達に期待してしまう。
そんな自分が、嫌だった。




