体温を分け合って
オレは風呂で自分の身体を見て興奮したりしない。見慣れてるとか同性だからとか言うレベルの話ではない。単純に自分自身だからだ。もしオレが強烈なナルシストならそう言うこともあるのかもしれないが、あいにくオレの自己評価は低い。
つまり何が言いたいのかと言うと、オレは女の身体のままトイレに行っても、風呂に入っても全然興奮しなかった。むしろ胸とか普通に邪魔だった。肩は凝るし服は選ぶしであまり良いことがない。何事もほどほどが良いのだと改めて思い知った。
今日という激動の一日がもうすぐ終わる。丸薬の効果はあと一日となり、明日を乗り切ればオレは元の身体に戻れる。オレのストライクゾーンど真ん中の美少女が一人この世界から消えてしまうのは悲しいが、身体を取り戻せるのでイーブンだ。いや、イーブンだと少しまずいか。
「はぁ……」
知らず知らずのうちに溜息が漏れる。アヤさんや団長には本当に困ったものだ。今日の事件はオレにも多少の責任はあるが、だとしたって大人がやるような悪戯ではない。更にタチが悪いのは、あれだけリュカに怒られた二人が、にも関わらず大して反省していなかったことだ。リュカのお説教をものとしない者を初めて見た。これはまた似たような事件を起こすと思われる。彼女達の行動には目を光らせている必要があるな。
そんな事を考えながらオレは今読書を進めている。「バカでも分かる基礎魔法」という本だ。魔法を使いたいとリュカに相談したらこの本を勧められた。なんでも、著者があの黒魔女マミンで、魔界の大ベストセラーなのだそうだ。魔界の子供達はまず必ずこの本を読むらしい。確かに非常に読みやすい。優しい単語のみで構成されているから子供向けにはもってこいだろう。すると、
「エドガーさま、少し良ろしいですか?」
扉の向こうからリュカの声がした。こんな遅い時間に彼女がオレの部屋を訪ねてきた。その初めての行動に少し動揺してしまう。また何か怒られてしまうのかな。でも、オレも気をつけて生活したつもりだ。
「う、うん。良いけど、どうしたの?」
「失礼しますね」
リュカは完全に寝間着姿だった。淡い桃色のそれに、同色の帽子。薄いカーディガンを羽織っている。そして、その目には眼鏡をかけていた。
「いえ、怪しげな丸薬を飲ませられていますから、何かご不調があるといけないと思いまして」
「あ、ああ。大丈夫だよ。元気そのものさ」
とりあえず怒ってはいないみたいなので良かった。リュカはとことことオレのそばに寄ってくる。
「また読書ですか。もう少し明るいところでお読みにならないと目を悪くしてしまいますよ」
部屋の明かりはベッドの隣の燭台と、今オレが本を読んでいる机の蝋燭だけだ。お世辞にも明るいとは言えない。
「分かってるんだけどさ、これくらいのが落ち着けて集中出来るんだ」
蝋燭の明かりがこんなにも優しいことをこの世界に来てから学んだ。電球の明かりは派手で綺麗だとも思うが、静かな夜には蝋燭が似合う。
「そうですか。でもほどほどにしておいて下さいね。私も目が悪くて不便ですから」
「でも普段は眼鏡なんてかけてないよな。何か理由があるのか?」
「朝に視力調整の魔法をかけてるんです。眼鏡があると邪魔な時もありますし、それに……」
「それに?」
リュカは言いにくそうに小声になった。
「眼鏡があまり似合ってないですから」
そんな風に言う。むう、全然そんな事ないのだが、むしろよく似合っている。清楚な図書委員みたいだ。それを素直に口にすると、
「え? そ、そうですか?」
「ああ、似合ってるよ。普段かけないのがもったいないくらいだ」
オレに眼鏡っ娘属性はないが、たまにアクセントや遊び心でかけてくれると嬉しかったりする。
「な、なら、たまにはかけてみますね……」
「うん」
リュカは少しおずおずと髪の毛をいじりながらそう言った。その頬が蝋燭のオレンジに照らされて染まっている。
「さて、オレはもう寝るよ。リュカも寝た方が良いんじゃないか?」
散々怒りまくって疲れているだろうに。怒るってのは人間の感情の中でも特にエネルギーを放出するものだ。そう思ってオレなりの気遣いをリュカにしたのだが、当人は部屋に帰ろうとしない。それどころか、
「あの、今晩ここで一緒に眠っても良いですか?」
そんなことを言ってきた。流石に驚くし、慌てる。
「い、いや、それはダメだろう。年若い未婚の男女がして良い行為じゃないぞ」
「今は男女ではありません。女と女です。私は今でもたまにリーリと一緒に寝たりしますよ」
リーリが朝から妙に機嫌が良い日があるのはそのせいか。たまに気になってその理由を聞くことがあった。教えてくれなかったが、そんな羨ましいことをしてたのかよ。頭がそっちに気取られている間に、リュカはオレのベッドのシーツにくるまってしまった。ちょこんと顔だけ出しているので、いよいよ羊にしか見えない。
「いや、リュカ……」
「……パティちゃんが、泣いていました」
「え?」
「エドガーさまを自分から求めたのに、いざ求め返されると怖いと思ってしまった。メイドとしても一魔族としても中途半端なことをしてしまったと凄く気にしていました」
そうなのか。あれからパトリシアはオレと距離を作ってきた。てっきり襲われかけたのが怖くてオレから一歩引いているのだと思っていたが、そうではないらしい。パトリシアらしい誠実で純情な考えだ。しかし、リュカは話を続ける。
「私はそれを聞いて、悔しいと思いました」
「え?」
「同時に、羨ましいとも。だって、例え媚薬の効果であろうともエドガーさまから求めてもらえるだなんて、とてもとても嬉しいことです。私は、パティちゃんが羨ましい。だから」
今晩はここで眠りたいです。
頬を真っ赤にしながらも、オレから逃げることなく視線を向けてくるリュカを見つめ返すことが出来たのは約二秒。要するに、すぐ目をそらした。
「いや、それはやっぱりさ……。ダメだよ」
いつだって逃げてきた。曖昧な関係を曖昧なままにしてきた。それをダメだと思う心もあったのだが、それよりもこのままを望む自分の方が大きかった。だから、リュカの目は見れない。ここで受け入れたら、ずるずると引き返せないところまで沈んでいくと思ってしまったからだ。
「多分ですけれど……」
そんな情け無いオレの答えを聞いても、リュカは諦めない。
「エドガーさまは、きっと永遠に私と寝室を共にはしてくれない。そんな気がしています。だからこれはきっと、最後のチャンスです。お互いが女である一夜限りの日。私のワガママを聞いては下さいませんか?」
リュカは自分のことを、ワガママだと言う。絶対に理由をオレに押し付けてはこない。彼女がしたいことを、オレが許容する。そんな形を取り繕ってくれる。でもオレは。
「一緒には、眠れない」
蚊の鳴くような声でそう言った。風のないこの部屋で、蝋燭の炎が揺らめいている気がした。オレンジ色の室内は、心を癒す色にもなるが、時としてそれは、物悲しい景色を助長する。
「そう、ですか。分かりました……」
一言だけ呟いたリュカは、シーツに一瞬鼻を押し付けると、素直にベッドから出てきた。入れちがうようにオレがベッドに入る。そこで、
「え……?」
リュカの手を引いて、オレの身体の中に抱き込んだ。彼女の背中から回されたオレの腕が、ロックするようにがしりと組まれる。リュカの背中の温かさを、オレは手の中に感じていた。
「え、エドガーさま!?」
「このまま、少し……」
リュカのうなじからは、石鹸の良い香りがした。とくん、とくんと、頸動脈を流れる血が彼女の心音を教えてくれる。それが、徐々に徐々に早くなってきた。まだリュカを逃さない。
「もう少し……」
オレの右手がリュカの頬を撫でる。龍王の右腕では絶対に出来なかったことだ。この柔らかな肌は、あの爪で触れれば傷つけてしまうだろう。右手でこの娘を感じることが出来る、数少ない瞬間だった。
「上……」
「ん?」
「もっと、上です……」
怖がるような、ねだるような、そんな声でオレの右手が誘導される。女の細い指が辿り着いたのは、リュカの唇だった。ルージュを塗るように人差し指が唇をなぞる。
「あ……」
そんな風にリュカが呻いたところで、指を離した。このままだと、きっと指を舐められる。そうなってしまえば最後、二人の関係が壊れてしまう。この小さな少女を、めちゃくちゃにしてしまう、そんな予感があった。
「もう、エドガーさまは……」
「嫌だった?」
「違います。意気地がないくせに、時々こんなことを平然としてくるのです。油断している私はいつも困ってしまいますよ?」
「嫌なら、しない」
リュカが笑った。
「本当に意地悪ですね」
嫌だなんて、一言も言ってないじゃないですか。
リュカの首筋に落とされたオレの顎を、手で優しく包み込まれた。オレの頬が熱いせいか、その手は酷く冷たく感じた。温めてあげたくなって、また上からオレの手が重なる。
「今日は、お邪魔虫さん達はいませんね?」
「いないな」
「どうしますか?」
「どうもしない。少しだけリュカの体温を分けてもらって、眠る」
何せオレは今女だ。何をするつもりもないが、何が出来ることもない。そんなふわふわしたくらいが、オレには丁度良かった。それがリュカには不満なのだろうが、オレはその線から出られないし、出てはいけないと思っている。
「もう、一人で眠れるか?」
「眠れません。一緒が良いです」
「一人で眠ってくれよ」
「お願いですか?」
お願いだ。オレは今日は一人で眠る。明日も一人。一年先も、十年先も、百年先も一人で眠る。だから、リュカが人肌を求めるならその相手はオレじゃない。
「なら、そうですね、キス、してくれたら考えます」
「取り引きが上手いな」
「ふふ、ありがと……あっ!」
一瞬気をそらしたリュカの隙を突いて、そのこめかみに唇を落とした。それだけをすると、ゲートを開くように、彼女を拘束していた手を解く。
「ズルいですよ」
「ズルくないさ」
「むぅ」
「おやすみ」
不満そうに頬を膨らましたリュカだが、最後には少し笑って自室に帰って行った。その後ろ姿を見送って、オレはそのままベッドに落ちていく。
「どうしたもんかな……」
本当、どうしたもんかな……。




