王女
何か、身体に違和感を感じる。自分の物のはずなのに、自分の物じゃないみたいな。そんな感覚が不快で、目が覚めた。と言っても、意識を取り戻しただけで、瞼はまだ開けられない。それでも、ゆっくりと意識がより鮮明になっていくにつれて、重みと疲労感に打ち勝つだけの気力も湧いてくる。正直自分が今どんな状況にあるのか予想も出来なくて怖くもあったが、例えそうだとしても確認しないことには話が始まらない。覚悟を決めて、カッと目を見開く。そしてオレの瞳に飛び込んできたのは、
「牢獄、か……」
薄暗い石造りの狭い部屋の中、窓のない部屋の隅に一つだけ設けられた松明の炎が揺れている。炎の光によって空間がオレンジ色に照らされていた。オレの正面には分厚い鉄柵が細かな網目を編みつつそびえている。
「やっぱ、毒かな」
まだ全身に痺れと疲労感が色濃く残っている。頭だけははっきりしている分、上手く身体が動かないもどかしさがある。だが、オレの身体の自由がきかない理由はもっと他にあった。
オレは十字型に背後の壁に磔にされていた。首筋や手首に石が当たって冷たい。また、両手両脚が鉄の錠で固定されている。脚にはご丁寧に鉄球まで取り付けられていた。さらに、右腕に関しては五重の鉄錠がオレを縛り付けている。明らかに対オレ用の牢獄だと思えた。
「くっそ」
迂闊だった。オレには魔法や能力の類いの拘束は一切効かないが、毒だけは有効だ。致死性の猛毒でなかったのは幸か不幸か。とは言え、この全身の感覚からしてもうしばらくはまともに動けそうにない。復調さえすればこの程度の拘束は意味すらないが、それまで相手が待ってくれる保証はない。どうにかして現状を打開するための策を練っていると、
「まあ、もうお目覚めになられましたのね!」
カツンカツンと言う足音とともに、明るい嬉しそうな声が暗がりに反響した。
「本来ならあと二時間は眠っているはずの量を嗅ぎましたのに。やはりあなたは特別な方!」
それは、オレが想定していた犯人の中では最も低確率だと考えていた人物だった。
「王女……これは一体……」
水色の美しいドレスが汚れるのを厭うことなく、王女が鉄柵の鍵を開けて牢内に入ってきた。オレンジ色に照らされる彼女はまるで妖精のように輝いていたが、今は不吉な予感しかしない。彼女は何やらその両手で重そうな箱を抱えており、それをオレの側に置いた。
「ふふ。やっと二人きりでお話出来ますのね」
「いや、だからこれはどう言うおつもりで……」
「私はこの日を待ちわびて毎晩夢に見ていましたのよ」
返答はなく、どこか会話が成立しない。王女の表情は平べったくて、碧眼だけが爛々と煌めいている。
「本日から私があなたのお世話を毎日いたしますわ」
世話って何だ。オレのこめかみから頬にかけて冷たい汗が一筋流れる。するとその時、王女が持ってきた箱がごそりと動いた。
「あらあら、いけませんわね」
「っ!?」
王女がその箱の蓋を開け、中の物を取り出す。それを見て、オレの頭皮の汗腺がさらに広がる。
「ふふ。いい子いい子。あまり騒がしくしてはダメよ?」
それは、緑色の鱗、長い身体、くねる尻尾。王女の腕程の大きさの蛇だった。そいつが彼女の胴に巻きつき、顔のすぐ近くでチロリと舌を出す。そして、蠢く箱からは何十と言う蛇が這い出してくる。それに混じって少数の蜥蜴もいた。兎にも角にも大量の爬虫類が狭い牢獄を動き回る。
「こ、これは……?」
「もちろん。私とあなたの愛の結晶でございますわ!」
「は!?」
「私がお腹を痛めて産んだ子たちではありませんが、もしあなたと私が交われば、きっとこんな子たちが産まれると思いますの」
うっとりとした瞳で、王女はオレの右腕を見つめる。すでにオレの服は汗でべっとりと身体に張り付いていた。
「待て待て待て! どう言うことだ!?」
まるで理解出来ない。したくない。第六感が全力で警鐘を鳴らす。
「もしかして、お忘れになってしまったの?」
「何が!?」
王女は少しだけ寂しそうに息を吐く。俯いたその目が、地を這う蛇を追いかけ、そして、
「う、わ……」
その頭をヒールの踵で踏み潰した。蛇の血が飛び散って王女の頬にかかる。さらに蜥蜴を捕まえると、尻尾を振り回して壁に投げつけた。
「毎夜毎夜、あなたは私と寝室をともにし、無限にも思える愛の睦言を囁きあったではありませんか」
「何の話だ!?」
おかしい。それはおかしい。その発言もそうだし、なにより、ついさっきオレに会えなくて待ち焦がれていたとか言っていたではないか。妄想の中ですら矛盾が生じている。
「あぁ。でも私は忘れませんわ。あなたが言ってくれた愛してると言う言葉。魔王に攫われた私を助け出してくれたあなたの勇敢さ」
身体をくねらせる王女は、オレではなく壁に話しかけていた。ヤバいヤバいヤバい! こいつはヤバい! 身に覚えがない所の騒ぎではない!
「でも、それすら忘れてしまったのですか……」
しゃがみこんだ王女は、膝に顔を埋めて丸くなった。その背中を一匹の蛇が上ってくる。彼女はそれに気づいて顔を上げた。
「愛しい人。優しい人。私を慰めて下さるのですか?」
王女はその蛇を鷲掴みにし、鼻先にキスをした。よく見ると、全ての蛇は牙を抜かれるか折られるかしていた。
「あぁ、いけませんわ。子供たちが見てますのよ」
首筋に絡まる蛇に、王女は恥ずかしげに頬を染める。その後も蛇との会話を小声で紡ぎ続ける。彼女の周囲には蛇や蜥蜴が円を作っていた。
オレはそんな異常な光景を前にして、全身の毛が逆立つのをはっきりと自覚する。リュカはかなり変な娘だし、リーリはオレを嫌っている。アヤさんはオレを玩具にするし、団長に至っては完全な変態だ。
だが、こいつは、この王女はそんな彼女達とは比べることも出来ない程おかしい。頭が狂っている。
よくわかった。この王女は外に出してもらえなかったのではない。出せなかったのだ。彼女がこうなってしまったから外出禁止になったのか、それとも外出禁止になったせいでこうなったのかは分からないが、とにかく不味いし、怖い。
「く、そ。動けよ!」
王女が蛇と絡まりあっているこの隙に脱出しなくては。右腕さえ動けば、動けば。しかし身体は言うことを聞かない。
「どうかされましたの?」
そして、王女が感づいた。手に持っていた蛇の頭を硬い石の床に二回叩きつけると、ゆっくりこちらに歩いてくる。その碧眼はまっすぐにオレを見つめているが、実際何が彼女の脳に写っているのか分からない。
「いや、あの、この鉄錠が痛くてさ。外してくれないかな」
無理を承知でお願いしてみる。
「まあ! それはいけませんわ。では……」
すると王女はオレに背を向け、部屋の隅に設けられた松明の方へ向かう。
「え、あの、王女さま?」
「手足が痛いのですね? ならば顔を燃やしてしまいましょう。火傷になってしまえば痛くありませんものね」
「痛くない! 治った!」
全力で首を振る。手足が痛いから顔を燃やすってどんな理論だ。
「そう、それなら良かったですわ」
そう言うと、王女はにこり笑って構えた松明を戻した。最早過呼吸になりそうな程盛大に息を吐く。一向に汗が引かない。また王女がオレの目の前に戻ってくる。揺れる金髪のツインテールをそれぞれ両手で弄る。
「けれどどうしましょう。私、そろそろこの髪型に飽きてしまいましたわ。あなたはどう思いますか?」
「え、いや……」
どう返せば良い?
「い、いや。よく似合ってるし、可愛いと思うよ。だから別にそのまま……」
「子供の名前はあなたが考えて下さいな!」
ダメだ! やっぱり会話が成り立たない! そして今頃思い出した。あのクロードの表情。あいつはこうなることが分かっててオレを呼んだのか。あの野郎、次会ったら絶対泣かす。そのためには何としてもこの牢獄から脱出しなければならないのだが、どうすれば良い? どうすればこの危機的状況から抜け出せる?
「きゃ、きゃあ! へ、蛇が……蛇がこんなにも……!」
思考がまるでまとまらないうちに、また王女の奇行が始まった。オレの首に腕を回してしがみついてきた。本当に怯えているようで、彼女の細い身体は小刻みに震えている。その綺麗な瞳には涙さえ溜めていた。
「だ、大丈夫。大丈夫だから。そうだ! オレのこの鉄錠を外してくれれば、全部追い払ってやるよ!」
今なら、これならいける気がする。しかし、
「そんな事言って、まんまと逃げるつもりでしょう? ずるい人。頭も大分働いてきているみたいだし、そろそろもう一度香を嗅いでもらおうかしら」
王女の瞳に、突然知性が宿った。冷ややかな視線が文字通りオレの目と鼻の先にある。
「お、お前は一体……」
「私は王女。つまらない、悲しい、可愛い王女。でも安心して。あなたの面倒はちゃあんと私達が見てあげるわ。これから毎日、一生、ね?」
ねっとりとした笑いを浮かべる王女は、小さな唇を開き、真っ赤な舌を出した。唾液に濡れるそれが、オレの頬を下から舐める。頬と舌を細い唾液の糸がつないで、そして途切れた。
「また来るわ。それまで大人しくしていてね?」
懐から例の香を取り出して、部屋の隅に設置して火をつけた。またあの甘い香りが徐々に牢獄内を埋め尽くしていく。この匂いを嗅いではダメなことは分かっているが、どうしようもない。抵抗すら虚しく、オレは脳に靄がかかっていくのを感じながら、自然と落ちる瞼の裏を見ていた。