修羅場
「さて、やっと着いたか、とは言わない。ダーリンとの会話も楽しかったしな」
「まあ、そうだな」
境界はもう随分前に越えていた。この世界に初めてやってきたころの雰囲気を感じて、どこか心が落ち着く。それが魔界だと言うのだから滑稽だ。ここまで連れてきてくれた二人の男たちと手を振りあって別れる。
到着したギルダツの村は、獣人の村と同じような小さな所だった。ただあの村と少し違うのは、家の造りが石であることと、少数ながら人間がいることだ。商人風の男たちが村内を歩き回っている。
「で、どこにいると言うのだ? ダーリンの嫁というのは」
「その言葉の異常さに気づけよ」
ただ、オレにとっても何だか当たり前のように感じ出してきたのが怖い。もしかしたらオレは、かなり流されやすい性格なのかもしれない。これから気をつけよう。
「さて、この村にいるってことしか知らないからな。これから探さないと……」
その時、
「エドガーさま!」
オレの名前を、変なイントネーションで呼ぶ聞き慣れた声がした。振り返るとそこには、小さな買い物袋を胸の前で抱えた、モコモコがいた。
「おう、リュカ! 良かった。探す手間が省けて……」
「ほう。彼女がそうか。どれ、私も自己紹介を」
魔族に対しても大変フランクな騎士団長である。
「エドガーさま、そ、そのお方は?」
しかし、リュカはそうもいかない。突然現れた人間の、しかも騎士の格好をした者に驚いてしまっている。
「あ、ああ、この人は……」
「ダーリンの嫁だ」
そして、変わらず変態が迷惑な方向に話を広げる。ただ、この時オレは失念してしまっていた。オレにとっては、もう聞き慣れてしまった妄言だが、それは、初めて聞く人にとってはそうでないことを。しかも、他の誰でもない、リュカに何の前置きもないまま聞かせてしまった。
「え、あ、あの、私……」
リュカが呆然と固まってしまう。見開かれたその瞳には、確かな動揺と困惑が混ざり合っている。
「ああ、リュカ。先ほど商人が川魚を持ってきてくれたぞ。どうだ、今晩は魚にしない……む?」
そして、建物の陰から何やら疲れた様子で、呑気なことを言いながらリーリが現れる。こちらも買い物袋を抱えている。
「っ!!」
そのリーリの言葉でスイッチを押されたかのように、突然リュカが向こうに駆け出して行ってしまった。一言も言わず遠くなっていくその背中を、三人が驚きを持って傍観する。そしてリーリもオレの存在に気がついた。
「エドガー様。なぜここに……?」
「え、様?」
「あ! 違う! これはリュカがお前のことばかり話すものだから、つい口調がうつってしまったのだ!」
焦って両手を振るリーリが、買い物袋を取り落す。グシャリと音がして、中の物が潰れたことが分かる。
「おい、オレの話って何だよ」
「あ、いや、この数日リュカは貴様の自慢話ばかりでな。私にとっては大変なストレスだったのだが、あんまり嬉しそうに話すものだから、聞かない訳にもいかず……」
思わぬ事に、少し面映ゆい気持ちになる。
「そ、そうか。いや、でもリュカとオレが過ごしたのはほんの数日だぞ? そんな大したエピソードがあるとは思えないんだが……」
「その通りだ。だが、リュカは一通り話が終わると、再び初めから話し出すのだ。わかるか? 嫌いな奴の話を延々とループして聞かされる私の気持ちを!」
「お、おう。お前も大変だったんだな」
こいつは本当に苦労人だなぁ。心なしかやつれて見えたのはそれが理由か。少し悲しそうに落ちた買い物袋を拾うリーリを、憐れみの視線で見やる。
「おい。そんなことより、あの子を追いかけないで良いのか?」
そして全ての元凶がいけしゃあしゃあとぬかす。しかし、悔しいことにその通りだ。
「はっ! そうだリュカ!」
「待て。オレが行く。誤解を解けるのはオレだけだしな」
団長とリーリを二人で残すのは少し心配だが、その度合いで言えば当然リュカが上回る。
「私たちはここで待とう。しっかり連れ戻して来い」
「あんたが言うな!」
鈍足なのだろう。これだけのんびり話をしていても、一向にその背中を見失うことないリュカを追いかけて、オレも走り出した。
小さな村から、少し離れた川のほとり。赤い花が綺麗に揺れるそこに、リュカが一人うずくまっていた。流れる水面を無言で眺めている。その小さな後ろ姿に、大して苦もなく追いついた。
「リュカ……! どうしたんだ、いきなり!」
いや、わかっている。純粋なこの娘の心を、不用意に揺さぶってしまったのだ。震えるその肩は、泣いているのか。笑っている、ということはまずないだろう。
「リュカ……。お前は勘違いを……」
ただ、今きっとリュカが考えていることは真実ではないのだ。それを少しでも早く教えてあげたい。リュカのためというのももちろんだが、まずオレが困る。いや、困るとはどういうことだろうか。
「エドガーさま」
「おう、なんだ」
「私は、少々思い違いをしておりました。あなた様と、たとえ遠く離れていたとしても、私の想いはただただ募るばかり。こんなにも愛しい気持ちを育んでいけるのではあれば、二人の距離すら大切であると。そんな風に思っていました。けれど……」
その声には、涙こそ滲んでいなかったものの、リュカの張り裂けんばかりの悲しみが色濃く含まれていた。その背中に、オレは何も言えない。
「けれど、現実は違いました。思い上がりも甚だしい。エドガーさまが故郷にお戻りになられた理由、今やっとわかりました」
「あー、いや、それはだな……」
「良いのです。元々はお父様が強引に進めたお話です。エドガーさまが、それに縛られることはないのですよ」
頭をかく。気まずいことこの上ないので、そうするしかないのだ。こういう時、何と声をかけたら良いのかわからない。いや、それは誤解なんだ。あの変態の独り言は聞き流してくれて構わない。例えそう言ったところで、解決できるような簡単な問題ではなくなってしまっている。ただ、オレは会話が下手くそで、そのままそれを伝えることしか出来ない。
「一応、言っておく。リュカの今考えてることは誤解だ。あの人は、まあ何と言うか、向こうでたまたま知り合っただけだ」
「たまたま知り合っただけのお方に、もうダーリンなどと呼ばせているのですか? 私には旦那さま呼びを禁止したと言うのに……」
そして、ネガテイブな方向に拗ねられてしまっている。可愛い、などと思っている場合ではない。
「それも、あの変態が勝手に言ってるだけだ。本当に、あの人とは何もないんだよ。信じてくれよ」
何か浮気の言い訳をしているような雰囲気になってきた。何故彼女もいたことのないオレが、こんな修羅場を経験しなくてはいけないのか。いきなりハードルが高すぎる。結果上手い言葉は出てこずに、リュカは振り返ってくれない。
「信じられません。それに足る根拠が、そもそも私達にはないではないですか」
「いや、だから……」
「リーリに対してだってそうです。時々彼女の胸元に、いやらしい視線を送っていたことに、私が気づいてないとでもお思いですか?」
「お、送ってねぇし! それこそ根拠ないこと言うなよ!」
話が急に別方向に飛び火して焦る。はぁ、と自分の胸に手を当てて深いため息をつくリュカに、涙ぐんでしまうことも忘れてはいない。
「男の人っていつもそう。口では可愛いとか好みだとか言っても、結局は小さな胸より、リーリやマミン様のような大きな胸が好きなのです。あの騎士様だってそうです。大層美人なお方ではないですか。お似合いですよ。良いご縁ですね」
そして、話がどんどん脱線していく。何か個人的な恨み言も混ざっていた気もする。その後も、きっと心の中に溜まっていたのであろう愚痴を、リュカは延々こぼし続ける。普段大人しくニコニコしている分、ストレスを溜め込みやすいのだろう。ただ、あまりにオレの話を聞こうとしないその態度に、少し腹が立ってきた。
「何だよ、何だよ! じゃあ良いよ! そんなに言うなら婚約なんて無しにしてやるよ! リュカの親父さんに言っちゃうもんね!」
我ながら子供か。しかし、口から出た言葉は二度と戻ってこない。
「構いませんよ! 浮気ばかりする人など、こちらからお断りです!」
「だから誤解だって言ってるだろ!」
その時、リュカがその朱と蒼の瞳に涙をいっぱいにためて、こちらに振りむいた。買い物袋を抱えたまま詰め寄ってくる。
「エドガーさまはいつだってそう! 私がこんなにもお慕い申し上げておりますのに、フラフラと、あっちに行き、こっちに行き! それをただ黙って見ているだけの私の気持ちがわかりますか!?」
「わっかんねぇよ! 言えよそう言うことは!」
オレの胸元にその小さくて細い指を突きつけながら、リュカがまくし立てる。オレも頭が沸騰してきて、売り言葉に買い言葉になる。
「もう、私は激おこでございます!」
「激おことか言うな!」
「激おこぷんぷん丸でございますよ!」
「だから激おこぷんぷん丸とか言うな!」
あとそれは大して怒ってない時に言うやつだ。本気でガチ切れしながら言う人初めて見た。
「夕食の後もいつもキッチンで食べ物を漁っているのも知っています! お腹も満足に膨れないほどしか食べてくれない! 私のお料理はそんなに美味しくないですか!」
「おやつは別腹なんだよ! リュカの料理は美味いから安心しろ!」
このままでは、オレのどんな些細な行動すらもイチャモンをつけられてしまう。話の主導権を奪い返さなくてはならない。
「んなことより! なんでリュカの髪の毛はそんなにモコモコしてんだよ! 羊か!」
「ただのくせっ毛でございます! ひどい! 気にしてることを言うなんて!」
「ダメだなんて言ってないだろ! 似合ってて可愛いよ!」
「浮気者の言うことなんて信じられません! どうせ誰にでも似たようなことを囁いているのでしょう!?」
「だから言ってねぇよ!」
確か牧村にも同じ事を言われた。どいつもこいつも人のことを全く信用していない。オレは決して正直者ではないが、嘘つきでは断じてない。
何故か激しい舌戦に発展したオレ達の会話は、落とし所が見つからない。もうすでに二人とも息も絶え絶えになりながらがなり立てている。
「で? その犬も食わない痴話喧嘩は、いつになれば終わるのだ?」
「……え?」
「なに?」
するとそこには、呆れた様子の団長と、何やら顔を赤くしたリーリが立っていた。二人とも結局オレ達のことを追いかけてきたのだろう。
「向こうまで聞こえてきているぞ。村の歴史書に君たちのその会話が全文載せられたくなければ、今すぐ口を閉じることだ」
毅然とした態度でオレ達の喧嘩を収める団長には、変態の面影はない。人の上に立つ者の上品さで溢れている。その風格に圧倒されていると、
「さて、まだお互いきちんと自己紹介もしていないな。ゆっくり話せる場所に行こうではないか」
きょとんとするオレとリュカを尻目に、団長は村の方へ歩き出してしまった。