一滴の涙
「はぁ〜〜っ!! 疲れた!!」
座り込んだ瞬間、そんな言葉が口をついて出た。両手を後ろについて天を仰ぐ。
「はい。大変お疲れさまでした」
「久しぶりにこんな肉弾戦したよ」
左腕を振る。既に傷は癒えて骨も元に戻っているが、流れた血の跡までは消えない。いや、消すこともできるのだが、消したくないと言う気持ちがあった。
「でも、ちゃんと頑張れたのは良かったな」
右腕の力でハイ終わり、ではなく、自分も必死になって血を流して闘った。自己満足に過ぎないが、だからこその達成感と爽快感があった。この騒動を収めるのに、自分も少しは貢献できただろうか。
「あぁ、そうだ。オレのことなんかどうでも良いんだ。リュカ、ありがとう。ちゃんと煌石を見つけてきてくれて。今回のことが収まったのも、全部リュカが頑張ってくれたおかげだな」
本当に、今回は何から何までリュカのおかげだった。
「い、いえ! 私は何も……! 結局、皆さんに守っていただくばかりで……」
「いや、そんな謙遜しなくても。肝心要の煌石を見つけたのもリュカじゃないか。そんな土だらけになって、めちゃくちゃ苦労したんだろ?」
「あ、その、それなんですが、実は煌石、意外とすぐ近くにありまして……」
「え?」
「たまたま私の近くの方に移動して来てたみたいで……服の汚れは、煌石を捕まえる時に焦って転んだだけなんです……」
「そ、そうなんだ」
バツが悪そうにしゅんとしているリュカを見て、
「ふ、はは!」
笑ってしまった。ちょっと抜けてる、どんくさいとこは相変わらずなんだなぁと思ってしまったのだ。
「あ、ひどい! 別に笑わなくても良いじゃないですか!」
「あ、あぁ。ごめん。そうだよな。頑張ってくれたことには変わりないもんな……く、あははは!」
「もー!」
真っ赤になって怒ってるのがまたおかしくて、やっぱり笑ってしまう。こう言う姿を見せられると、やっぱり普通の女の子に思えて仕方がない。
魔界を力で支配していた魔王の娘だなんて、思えるわけがない。
「もう夜だ」
「……はい」
オレの独り言にリュカが頷く。見上げた先に星空が広がっていた。気持ちの良いくらい雲が無くて、暗いはずの夜空が星明かりで輝いている。この世界にも星はあることに、何となく不思議な気分にさせられる。
団長と牧村は無事だろうか。マミンは何をしているのだろう。
ゴーレム達の暴走は止まった。これにて一件落着だ。だが、ことがことだけに、色々と事後処理もあるだろう。早めにマミンから指示を仰ぐのが正解のはずだ。いくらオレでもそれくらいのことはわかっている。
「……」
だが、オレの心には、このままここに座っていたいと言う気持ちがあった。静かになったこの場所で、ゆっくりと夜空を見上げていたい。このまま二人で、ここに座っていたい。そんな風に思ってしまう。
「……」
オレの気持ちが伝わったのか、リュカが俯いている。肩がギリギリ触れ合わない距離が呼吸音で維持されて、オレ達は黙ってしまった。黙ってしまってから、このやり方では次に一歩を踏む出すのがとても難しくなることに気づいた。何故、ここに居たいのか。何故、二人で居たいのか。
それは、オレ達の時間が終わりを迎えようとしているからだ。
ベルゼヴィードと闘うのは明日。もしかしたら、もう今日になってしまっているかもしれない。今は見えなくなった陽が再び昇れば、オレは行かなくてはならない。行くと決めている。
時を意識すればするほど、何を話せば良いのかわからなくなる。話したいことが何なのかがわからなくなる。だがそれでも、オレは何かを言うべきで、言いたかった。きっかけを無くしてしまっても、それを無理やり作らなくては。
「リュ……」
リュカがつ、と顔を上げたその時、
「お疲れ様でござる!!」
「よくやったなダーリン!!」
頭が割れそうなボリュームの歓声が辺りに響き渡った。
「うおっ!?」
「ひゃっ!?」
沈黙との温度差にオレとリュカは同じ態勢で飛び上がった。目の前には少し前に見たばかりの巨大な鏡が現れていた。テレビ中継のように手を振る牧村と団長がそこに映し出されている。二人とも激戦の痕を全身に溜め込んでいたが、大怪我はなく、とても元気そうだった。
「おぉ! でも、最後に決めたのはオレじゃないぞ!」
拳を固めて突き出す。牧村が満面の笑みで同じポーズを取った。当たらない拳をコツンと当て合う。
「よし。ダーリン達の無事も確認したことだし、私達は屋敷に帰る」
「え?」
「リュカ殿! リーリ殿やパトリシア殿には我が輩から話しておくから、安心して過ごすでござるよ!」
「は、はぁ……」
屋敷に帰る。騎士団長と勇者は魔王の屋敷に帰るらしい。今更だけど、やっぱりこの二人はおかしい。
「それじゃあね!」
そして、言いたいことだけを言ってさっさと居なくなってしまった。鏡が上の部分から徐々に消えていく。この二人にしては随分とあっさりしてるな、もしかして気を使ってくれてるのかな、そう思った。だが、
「あぁ、そうだった。これだけは言っておかねばな。リュカ。聞いてくれ」
「は、はい」
だが、再び団長が下の方からひょっこり顔を出した。とても生真面目な顔をするものだから、オレとリュカが身体を固くする。きっと何か重要なことを伝えてくれるのだろう。
「ダーリンの前戯がどんなに下手でも、ちゃんと喘いでやるんだぞ!」
「帰れっ!!」
「帰ってくださいっ!」
悲鳴よりもけたたましく怒鳴った。当たらないのがわかった上で当たれと思って石を投げる。団長はオレ達の反応に満足そうに笑って、今度こそ鏡ごと消失した。
「も、もぅっ……! 本当にあのお方は!」
「っとに、要らんことしか言わねぇな!」
リュカもオレも真っ赤になってお互い背を向けた。くそ。変態のせいで余計に話し難くなってしまった。身体の向きだけで言うなら、隣り合っていたさっきよりもずっと悪い。
先程までとはまた別の気まずさで沈黙が流れる。頬は異様に熱いのに、ひゅうと吹いた乾風がとても寒く感じた。
「……………………」
「……………………」
頭が変な温度でグルグル回る。どうしたものかと考えれば考えるほど、嫌な汗がこめかみに浮く。できることなら今すぐにでも冷水を頭からひっ被りたい。熱くなり過ぎる胸の温度を下げる何かが欲しい。すると、
「あの、エドガーさま」
「あ、あぁ」
リュカが消えそうな声で言う。その小さな身体がオレの背にもたれかかってきて、人差し指がオレの小指と重なった。その指先は微かに震えている。
「あなたさまに求めて頂けるのなら、私は……」
「っ!」
脳を直接揺さぶられたみたいな感覚に、語彙力を無くした。オレの襟足をリュカのふわふわな髪がくすぐる。その気配を首筋が敏感に捉え、火照った白い頬が近づいてくるのがわかった。オレが少し振り返ると、リュカの蒼い瞳がすぐそこに待っていた。こつんと可愛らしく角が当たって、オレ達の距離がもう一度僅かに離れる。
「ぁ……」
リュカのその表情を目にしただけで、心臓が跳ねた。灼きつくように艶やかな唇がそっと開かれ、甘い香りのする吐息が口元にかかる。
オレの指はその世界に吸い寄せられる形で動き、リュカの肩を掴んだ。そして、
「……そうじゃない」
そっと引き離した。
「オレは、そんなことがしたいわけじゃないんだ」
呼吸音で爆発しそうになった何かを遠ざけて、オレは大きく息を吐いた。そんなオレにどんなことを思ったのか、リュカは小さく息を吐いて、
「……そうですか」
無感情に呟いた。一生耳に残りそうだな、そう悟ってオレは目を閉じた。リュカの肩に置いたままの手をじりじりと離し、また一人分の空間を開けた。その時、
「あー、良かった。このままおっぱじまったらどうしようかと思ったわよ」
「はっ!?」
「え!?」
それは、別の世界線からやって来た安堵の溜息だった。オレ達は、岩場の影から闇色のローブの魔女がこちらを覗き見しているのに、やっとのことで気がついた。
「ま、マミン!?」
「あーそうよ、マミンよ」
「な、な、な……何故マミンさまがそこに!?」
「何故って……。貴方達にお礼を言いにきたのよ。私がよ? 魔王直々によ? それがなに? 他所様の領地でイチャコライチャコラ……。はー! 若いって嫌だわー!」
「べ、べ、べっ……! 別に、イチャコラなんてしてませんけどぉ!? 私たち、ちょっとToLOVEるってただけですし!」
「ToLOVEるってたとか言うな」
動揺しているとは言え発言がメタ過ぎる。あと、決してToLOVEるってたわけでは無いと思う。この件についてはファンの方々と大きく食い違いがありそうだ。
「まぁ、冗談はそのくらいにして」
「じょ、冗談だったのですか!? 酷いです!」
あわあわしているリュカを見て、マミンが優しく微笑んだ。その視線の色はまるで、血の繋がった家族を見ているかのようだった。だが、そんな温かな様子も即座に切り捨て、腰に両手を当てながらオレ達を見下ろす。
「ありがとう。貴方達のおかげで何とかなった。本当に感謝しているわ」
魔王の威厳か矜恃か、口調は尊大だったが、込められた感謝は本物だった。だからなのか、オレは喉に引っかかっていた疑問を素直に尋ねることができた。
「なぁ、オレ達がここに来た時、待ってたって言ったよな。あれはどうしてなんだ? 何か特別な魔法を使ったのか?」
オレ達の行き当たりばったりの旅先を予測するなんて、まず不可能なはずだ。それなのに、マミンはまるでオレ達がやってくる未来を知っていたかのように言った。
「魔法ではないわ」
教えてくれないかもと思っていたが、これまた意外に素直に答えてくれた。マミンが何か意味ありげにチラとリュカを見る。
「私も、時々見えることがあるのよ。未来だったり、遠くだったり、可能性だったり。私はとある種族の出身だけど、出来損ないだったから、上手く制御できないのだけどね。その種族ももう数が減りすぎてしまったから、種族もろともこの能力も消滅するでしょう」
マミンが語るその力は、三眼族のものと良く似ている。と言うか、まるまる同じものとしか思えない。だが、マミンはここでオレ達から目を逸らし、これ以上の質問を打ち切ってしまった。
「不思議よね。途轍もなく強い能力を持った種族なのに、こうやって消えていく。弱いはずの人間が数を増やし、強いはずの魔族が数を減らす。私はね、その理由が知りたくて、こうしてせっせとゴーレムを作っているのよ」
「え、あの、素人考えで申し訳ないのですが、ゴーレムを作ることがその謎を解明することに繋がるのですか?」
「おそらくだけどね。どっかの馬鹿魔族が突然変異的に強力無比な肉体を得た時のような瞬間を、いつかは見えると思っているわ」
突然変異か。まぁ、リュカもアスモディアラの娘とは思えないほどの愛らしさを持って生まれてきた。ある意味ではこれも突然変異の一つだろう。
「ま、私からは以上よ。あとは貴方達で勝手によろしくやってなさいな」
パチン、と軽快に指を鳴らすと、マミンは煙となって消えてしまった。退場の仕方があまりに呆気ないせいで、逆に不安な気持ちにさせられる。
「本当にいませんよね……?」
「……どうだろう」
リュカと同じような仕草で辺りを見回す。空にも、岩場の向こうにも、背後にも、マミンの気配は無い。どうやら本当に居なくなったらしい。
これで本当に、オレとリュカだけの世界だ。そんなすぐには切り替えられなかったが、言葉にできない息苦しい感情が湧き上がってきたことで事実を自覚した。
「これで、お別れなのですね」
膝を抱えたリュカの声は、蛍のように儚く消え落ちた。
「こうしてお話しできるのも、あと少しだけ。ですが……もう、何を話して良いのかすら、私にはわかりません」
「わからない」。そう漏らしたリュカは更に深く俯いていく。
「わからないのです……」
こんな。こんな、たんぽぽの綿毛みたいに弱ってしまったリュカは、初めてだった。少なくとも、オレの前でそうしたのは。
とても芯の強いリュカは、簡単に弱音を吐いたりしない。それが周りをとても心配させるとわかっているからだ。
これは、オレがリュカを追い詰めているのだ。リュカの逞しい心でも抑えきれないほど、苦しい思いをさせているのだ。オレはそれを、とても恥ずかしく思う。申し訳なく思う。そして何より、とても寂しく思う。
「じゃあ、さ。楽しい話をしないか」
「え……?」
「これからのことじゃなくて、これまでのことを。そんなに長い時間を一緒に過ごせた訳じゃないけど、それでも、めちゃくちゃ楽しかった瞬間が、沢山あったと思うんだ」
それはきっと、オレだけの自惚れじゃないはずだ。オレ達は確かに幸福だったと、胸を張って言える世界があったはずだ。だから、今はそれをこの手に収めよう。そっと掴んで、いつまでも離さないでいられるように。
「ほら。例えば、オレとリュカが出会ったあの瞬間、オレがどんなことを考えていたかとかさ」
「あ、あの時……ですか?」
「リュカはもう、覚えてないかな?」
「なっ! そんな訳ありません! あれは私にとっては見える世界の色彩が変わったような瞬間で……!」
「そ、そっか。そんなにか」
「はい! そうです! あ、そ、それで、エドガーさまは、一体どんなことを思われたのですか?」
「あ、うん。なんか見たことないくらい可愛い子がいるなって。この子、本当に魔王の娘かよ。むしろ天使じゃねぇかって」
「そっ、そ、そ! それは……その、えっと、それは!」
「あ、ごめん。そんな混乱させるつもりはないんだけどさ。うわ、顔赤いな」
「と、当然です! そんないきなり、いきなり何をっ! 何を、おっしゃるのですか……」
「まぁ例えばだよ。例えば。どうだろう。どんな風に過ごしても、一秒の間隔が延びる訳じゃない。なら、少しでも楽しい気持ちでいたいって思うんだ。リュカもそう思わないか?」
「それは……」
顔を上げたリュカが少しだけ口籠もり、そして、
「はい! 私も、そう思います!」
花が開くように優しく微笑んだ。
「まぁやっぱり、この世界のことを思い返して一番に思い付くのは、リュカの料理だよなぁ。本当、何食べてもめちゃくちゃ美味かったもんな」
「それは良かったです。エドガーさまはもちろん、お屋敷で暮らす皆さん全員に喜んで頂けるよう腕を奮っておりますから。何の特技もない私ですが、これだけは自信があるんですよ」
「そんな、何もってことはないだろ。掃除洗濯、家事はもちろんだし、今なら強力な雷魔法も使えるじゃないか」
「それは、リーリやパティちゃんに支えてもらっているからです。私だけでお屋敷のことを全て回すなんてとてもとても」
「そうかなぁ」
「えぇ。あ、それでしたらエドガーさま。エドガーさまがこの世界で召し上がったお料理の中で、何が一番美味しかったですか?」
「一番? 一番か。うー。難しいな」
「そこを何とか」
「うーん。まぁ、強いて、強いて言うならだけど、リュカと団長が料理対決した時の団長の肉料理かな。あれは美味かった」
「…………そうですか。ハァ……」
「そ、そんな露骨にガッカリしないでくれよ。強いて、だからさ。何だかんだ言って、こっちで一番食べたのはリュカの料理なんだし、ちょっと慣れみたいなものもあるんだよ。そ、そうだ。オレ達で王都に行った時。あれは楽しかったよな。オレとリュカ、牧村とで色々回ってさ!」
「それは、はい! 本当に! 初めての人間界で緊張した部分もありましたけれど、とても楽しかったです!」
「え、緊張してたのか? 何かひたすら楽しんでいるようにしか見えなかったけど」
「えぇと、それは……それは、エドガーさまがお側にいてくださったからだと思います。何があっても守ると言ってくださいましたから」
「あ、あぁ。そんなことも言ったな。恥ずかしげもなく」
「えぇ。とっても素敵でした」
「まぁ、そう言ってもらえるなら多少は恥ずかしさも薄れるかな」
「あの経験のおかげで、私も少し成長できたと思うのです。少なくとも、人間界がとても素敵な場所だと分かったことが嬉しかった」
「ん? 人間が豊かになり過ぎると魔界は危ないんじゃないか?」
「そう、かもしれませんね。けど、この世界のどこかで幸せに暮らしている人々、種族がいる。それはきっと、境界線の消えた世界がとても幸福なものになれると言う、一つの希望だと思うのです」
「……確かに、そうかもな。そうであってくれれば良いよな。いや、きっとそうなれるよな!」
「えぇ、必ず。私はそれがわかっただけで心がすっと晴れやかになれました」
「うん。まぁでも正直な話、何日か滞在した人間界よりも、魔界のあのお屋敷の方がずっと居心地が良かったけどな。最初、牧村を探しに行った時なんかもう帰りたくて仕方なかったからさ」
「それは……! それは、えぇ。とても良いことを聞かせて下さいました。できるならリーリにも直接聞かせてあげたかった。きっととても喜んでいたでしょうから」
「人間のオレが魔界に帰りたくなるなんて、ちょっとおかしな話だけどさ。まぁ、人間界最強の騎士団長と勇者が入り浸るような場所だし」
「ふふ。団長さんに初めてお会いした時は色々と驚いたり戸惑ったりしましたが、一緒に暮らしたらすぐにわかりました。あぁ、この人はとても度量が広い方なんだって」
「う、うーん。それはそうなんだけど、あんまり手放しで褒めていいかは微妙だよ」
「そうでしょうか。牧村さんが明るくなったのは、団長さんのお力が大きかったと思うのですが」
「うん。確かにそこは同意だ。実は牧村、オレが最初に会った時はほとんど相手にしてくれなくてさ。オレもかなり落ちこんだんだ。でも、その夜に団長が励ましてくれて。もう一回会ってみようって気持ちになれたんだ。やっぱり人を勇気づけるのは上手いよ」
「……夜にですか?」
「いや、変な意味じゃないから。寝る前に話を聞いてもらっただけだから」
「寝る前に?」
「……に、二回目に牧村に会った時に、レヴィアのサインが欲しいって言われたんだよな! 『魔界アイドル』なんて訳わかんない二つ名で、一体どんな奴なのかと疑ったのをよく覚えてる」
「あぁ! レヴィアさまの独唱会! 先日の私は歌唱対決にばかり心が行ってしまって、楽しむ余裕なんてありませんでした。勿体ないことをしてしまいました。あぁ、できることならまた行きたい……」
「行けるさ。何たって百日ぶっ続けで独唱会やってるんだぜ」
「そうでしょうか。いえ、そうですね。きっとまた、今度はもっとしっかり体験してきます!」
「あぁ。あれはめちゃくちゃ楽しいぞ! 世界中が虜になるはずだよ。レヴィアの歌声も踊りも音楽も、何もかも最高なんだ」
「一生に一度は行かなくてはいけませんからね。リーリやパティちゃんとも色々相談して、何とかチケットを用意する方法を考えましょう」
「それは良いな。皆んなで行けたら最高に楽しいと思うよ。祈ってる」
「えぇ」
「パティなんかもう行きたくて行きたくて仕方ないって感じだったしな。仕事に忠実なあのパティがだぞ」
「そうですね……。パティちゃんは少し働き過ぎなところもありますから、本当に何か、息抜きになるようなことをさせてあげたいですね」
「真逆のことを言うようだけど、独唱会のチケットは、そう簡単には手に入らないからな……。パティは何が喜ぶだろう」
「食べ物は好き嫌いが無いようですし、お部屋もリーリのぬいぐるみのように何かを蒐集しているわけでは無いようですし……。あれ、パティちゃんって意外と謎が多いですね」
「無趣味なのかも。仕事が好きって言ってたくらいだし」
「うーん……。これは大変なことになりました。いつもお世話になっているお返しをしたいのですが……」
「だよな。良ければオレにも考えさせてくれ。めちゃくちゃお世話になったし、助けられてきたから」
「えぇ、それでしたら……」
「うんうん……」
彼方の星が薄く消えて行きかけるまで、オレとリュカは語り合った。楽しかったことを話そう、なんてこと言って始めたはずなのに、結局は今までの思い出を総浚いみたいになってしまって、笑ったり怒ったり恥ずかしがったり悔しがったり、そんなことを繰り返した時間だった。
その最期の話の切れ間、どちらともなく口を噤んだその時、リュカがふと空を見上げた。美しい紅と蒼の瞳に、明るくなっていく世界が写り込む。
その横顔は、光景は、胸が灼けるほどに美しかった。
「……もう、朝ですね」
「うん」
「不思議です。こんなに時間が早く感じたのは、生まれて初めて」
「オレもそう。一秒よりも短かったかもしれないな」
「それなのに、思い出すと永遠のように思えて、少し不安です。私はちゃんと世界に座れていますか?」
「あぁ。そこにいるよ。この世界に」
「でも、あなたさまは」
「この世界には、立っていられなくなる。いや、立つことを辞めるんだ」
「ーー。
「え? ごめん、よく聞こえない」
「ーー。
「リュカ? 何て言ったんだ?」
その囁きは、本当に、瞬きの合間だけのものだった。
……行かないで。
「……」
お願いします。どうか行かないで。ここに居て。
「……」
何もしてくれなくて良いんです。私の隣に居てくれるだけで良いんです。
「……」
お願い。お願いだから。
「……」
あぁ……! ごめんなさい。本当にごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかった。言うつもりじゃなかったんです。本当です。でも。
「……」
でも、だめだった。やっぱり、私には耐えられなかった。ごめんなさい。あなたさまを困らせたくない。いつまでも幸せでいて欲しい。いつでも笑っていて欲しい。本当に、ただそれだけなのに。
「……」
私は、リーリやパティちゃん、アヤさんや団長さま、牧村さまが居てくれるだけで幸せなのに。
「……」
それなのに、どうしてそれ以上を求めてしまうの? それどころか、あなたさまさえ居てくれれば良いと、そんな酷いことすら思ってしまう。
「……」
好きなんです。初めて会ったあの日から。魔王の娘ではなく、私を普通の女の子として接してくれたあの瞬間から。あなたさまが、好きなんです。
「……」
あなたさまだけなのです。私の中身を見てくれる方は。あなたさまだけなのです。私に微笑みかけてくれる方は。そんなあなたさまのことが、愛しくて愛しくてたまらないんです。
「……」
あぁ、もう、何故。何故。どうして、あなたさまと出会ってしまったの? お別れがこんなに哀しいのなら、最初から出会わなければ良かった。その笑顔も、温もりも、優しさも、全て知らないままでいたかった。
「……」
好きな殿方が。どうしようもなく愛しい誰かがいる気持ちなんて、知らない方が良かった。ただの魔族の小娘で良かった。良かったのに。
「……」
あぁ。でも。
「……」
こんなに、胸が張り裂けそうなほど。こんなにも苦しくて、痛くて、おかしくなってしまいそうなのに。
「……」
なのに。
「……」
なのにどうして、あなたさまを好きな気持ちは消えないの。苦しくて苦しくて、息もできない思い出なのに。
「……」
どうして、こんなにも大切なの。忘れたくないと思ってしまうの。
「……」
お願い。どうかお願い。お願いします。行かないで。
「……」
行かないで。ずっとここに居て。お願いします。お願いします。どうか。どうか。
「……」
私の手を握っていて。肩を抱き寄せていて。頬に触れていて。
「……」
私を、見つめていて。
「……」
あぁ! あぁ……! あなたさまのことが、エドガーさまのことが、狂おしい程、好きなんです。だから。だから……! どうか、お願い……!
「……リュカ」
「えぇ。どうかなさいましたか?」
オレの言葉に、リュカは静かに頷いた。オレの不義理全てを呑み込んで。オレの自分勝手を、弱さを、何もかもをその小さな身体に溜め込んで。
「オレ、行くよ」
立ち上がったオレに、腰を下ろしたまま。
「はい。行ってらっしゃいませ」
一滴の涙すら見せることなく、そう微笑んだ。