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最期の最初



 その男は、小さな山小屋の屋根に寝転がっていた。数日間をかけて自分で建てた、自分だけの城だ。本当は娘や息子達も連れてきたかったのだが、彼の持つ陰惨な事情がそれを許さなかった。七人の子供達とは別居状態となり、おそらく二度と会うことはないだろう。子供達の号泣する姿が今でも思い出せて、何とも言えない気持ちになった。そう。何とも言えないのだ。普通なら、悲しんだり後悔したりするはずなのだが、男の中には、すでにそのような類いの感情は残っていなかった。そんなことは自分が一番わかっていたつもりだったのだが、いざ目の前にしてみると、思っていた以上に……虚しい。


「あぁ、空腹だ」


 見上げる空に浮かぶ雲が、とても美味しそうに見える。前世で食べた、「綿菓子」とやらに似ていると思うが、「綿菓子」がどんな味だったかはもう思い出せない。空はこんなにも青く、雲はこんなにも白い。世界は美しいはずなのに、何故意味がないと思ってしまうのだろう。その時、


「……?」


 雲の切れ間から、銀色に反射する何かが降りてきた。目がくらむほど眩しくて、それが太陽の光を吸収しているのだとわかるまで、随分時間がかかった。


「あぁ。貴女はもしや、天女なのか?」


「ちゃうよ」


 雪の結晶よりも白い両翼、紅茶色の髪、セピアに揺れる瞳。至上の艶やかさを目指して造られたかのような存在だった。天女ではないのなら、天使か。どちらにせよ、初めて目にする神の御使いだった。


「あぁ……。素晴らしい匂い(スメル)だ。かの剣聖や雷神卿に勝るとも劣らない、極上の香りがするね」


「そう? ま、どっちとも付き合い長いしな。そう言うこともあるやろ」


「中でも翼が素晴らしい。良質な酒でじっくりと煮込んだような、優しい風で乾燥させたような。世界の美しいもの全てを染み込ませた熟成具合だと言うのに、どこまでも瑞々しい」


 男、ベルゼヴィードは思わず立ち上がって手を伸ばした。この世界に彷徨い出て約四十年、ありとあらゆる奇天烈怪奇な食材と出会ってきたが、ここまでの美しさをたたえる生物は初めてだった。視界に映すだけで、彼の口内に大量の唾液が広がっていく。


「あぁ。あぁ、あぁ……! 素晴らしい。素晴らしい! 言葉にならない食欲が私の脳を埋め尽くしていく! 侵し尽くしていく! 胃が、食道が、舌が叫ぶ! どう、しよう、もなく! 貴女を食べたいと!!」


 すでに理性など沸騰していた。あるのは底知れぬ食欲のみ。食べたい。食べたい。あぁ、食べたい! あの喉に、頬に、瞳に、そして翼に、どうしようもなく噛り付きたくて堪らない。もう抑えられない。ダメだダメだ。もう、抑えられないっ!


「ジッっッしョく!!」


 屋根を破壊して跳躍し、天使に襲いかかった。頭に牛骨が現れ、ベルゼヴィードの魔力を増幅させる。だがしかし、捕らえた、と思ったその時には、ベルゼヴィードの周囲には何も居なくなっていた。


「速さ比べしたら、ウチには絶対勝てんよ?」


 そこに居たはずの天使は、絶対に手の届かない上空にまで飛翔していた。


「そのようだ。益々素晴らしい!」


 屋根に降り立ち、再度見上げる。


「それに、そんながっつかんでも良えよ。あんたはすぐに消されるから」


「ほう?」


「三日後、龍の腕を持ったヘタレが、あんたを消しに来る」


 龍の、腕。あぁ、あの青年か。


「殺すんやなくて、『消しに来る』。怖いんやったら別に逃げても良えよ。逃げれんけど」


 天使の声には、確信があった。陽が落ち、昇ることを見つめるような、絶対的な確信。普遍的な事実。


「そうか。あの青年は、この世界に馴染んだのだね」


 以前会った時は放置し過ぎて腐ってしまったと落胆したが、彼はそこで終わらなかったようだ。発酵させてより味わい深くなる食材は少なくない。今から彼に会えるのが楽しみで仕方なかった。お前は消される、と断言されていても、高まる食欲が恐怖を感じさせない。極上が再び目の前に、それを想うと、世界が光り輝く気分になる。


「ほな、伝えたよ。あと三日、好きに生きぃや」


「おや、もう行ってしまうのかね? 貴女の翼によく合うソースがあるのだが」


「あはは。ほんまにそればっかやね」


「もちろん。何故なら、私にはそれしかないのだから」


 それしか、ない。だが、それだけあれば充分だと思える。思えてしまう。思ってしまう。いつの間にか、そうなった。


「あっそ。けどざーんねん。うちの羽はそんなに安ぅない。今度ハーピー口説く時は、もっとしっかり羽を褒めることやね」


「なるほど。参考にしよう」


 天使は最後にニヤリと笑って、雲の狭間に消えていった。彼女の巻き起こす風は甘美な湯気のように麗しかった。光よりも輝く翼を見送りながら、ベルゼヴィードは黙した。そして、


「行ける場所など、もう無いか」


 どういう術を使ったのかは知らないが、最新の注意を払って移住した場所はすでにバレている。つまりは、もうどこに行っても意味がない。ならばせめて。


「歌姫の旋律をこの身に浴びて来よう」


 美しいものに包まれていたい。



















 人間界、王城の北側、小高い丘の上にその場所はあった。よく日の光が当たる場所のはずなのに、何故か彩色に乏しい。青々と茂る名も知らない草原が、風の音で揺れている。


「ここが……」


 ここが、王国騎士達の墓苑。魔王軍と戦い、命を落とした騎士達が眠る園。千人の名が刻まれた黒石を五つ積み上げてできた墓標。此処から地平線まで、それらがひたすら機械的に設けられている。だが、ここには一つ足りとも死体は埋まっていない。魔王軍との激戦で、骨の一欠片すら残らなかった騎士達の墓苑だからだ。

 何百年も前からあった王国の「名所」に、オレは初めて訪れていた。隣にはリーリもリュカもいない。本当にオレ一人だ。

 揺れる青草を踏みしめながら、墓苑を進んでいく。雨風に削られた墓石もあれば、まだ表面に艶が残る墓石もある。右を向いても左を向いても、ただただ黒い石だけがあった。そして時折、人の姿を見かける。人がいる光景ですら、暗く歪んで見えた。


「あそこは、年がら年中陰気臭い。だから私はどうにも苦手でな。騎士団長の仕事として何度か行かされたことはあるが、私個人の意思で行こうと思ったことは一度もない。薄情だという自覚はあるさ」


 オレがここに来たいと言ったら、団長はすぐにこんなことを教えてくれた。だが確かに、団長とこの墓苑は相性が悪そうだ。そして、リュカやリーリはそれ以上に。どの人間の目にも、仄暗い憎悪の色が宿っていた。近しい仲間、愛しい家族を奪った魔族を、執拗に睨め付けている。戦争と自分は無関係ではない、そう言ってオレに付いてこようとしたリュカを、しっかりと止められて良かったと思う。あの目をした者達がリュカを見つけていたなら、一体どんな恐ろしいことが起こるか、オレには想像もできない。

 自分からやって来たはずなのに、オレはすでにこの地の圧に耐えられなくなっていた。早く終わらせて帰りたい、そんな思考が浮き上がってくる。だが、だからこそオレはゆっくりと歩いた。この場所に自分の時間を落としていくことに意味がある気がしたからだ。そして、


「やぁ。遅くなってごめんな」


 目的の墓石にたどり着いた。かなり新しい黒々とした石は、雲の影に隠れてどっしりと座り込んでいる。


「名前……どれがどれだか」


 刻まれた名前を上から順に指で追っていき、見つけた。だが、思わぬ現実に立ち塞がられた。探していた名前は、なんと六つもあった。


「シャン・マクシミリアン。年齢は、書いてないか」


 オレの、この世界に来て初めてできた人間の友人。シャン・マクシミリアンという男の名前が浅く刻まれている。だが、それと全く同じ名前の人物が他に五人もおり、六人ともが、ルシアル軍との戦争で戦死した者達だった。シャン・マクシミリアンがよくある名前なのか、それとも悪い偶然が重なっただけなのかは、今のオレにはわからない。オレの頭に浮かぶ男がどれなのか、わからない。


「わからなくて、ごめんな。もっと早く来れれば良かった。いや、こんなことになる前に、何かできれば、それが一番良かったはずなんだ」


 魔族と人間の命が紙屑のように消えていくあの戦場を、オレは確かに見ていた。その場所にいて、その現実を変えるだけの力と時間もあった。だが、何もしなかった。この墓苑に刻まれた名前を、もっと減らせたかもしれないのに。

 オレに親切にしてくれた気の良い青年は、もうどこにもいない。


「最後になってしまったけど、ここに来れて良かった。ここに来れるだけの勇気がオレにはまだあったことが、せめてもの救いかもしれない」


 自分が何もしなかったせいで積み重なった死体の山から、目をそらさなかった。そこだけは、自分の成長なのかもしれないと思う。だが、そんなことで補えるほど、失われた命は軽くない。


「もう、会いにはこれない。オレは帰るから。でも、最後の三日間だけは、オレに時間を与えて欲しいんだ」


 ここに来たのは、結局は懺悔なのだろう。そして、許可をもらいに来たのだ。誰が返事をしてくれるわけでもないので、ほとんどオレの自己満足なのだが。


「ごめん。ありがとう」


 この言葉を最後に、オレは右腕に祈りを込めた。ありとあらゆる事象を思い通りにできるという神の右腕に。そうすれば、オレにとって最高に暖かい場所に帰れる。

 瞳を閉じ、弱い風がオレの前髪を揺らしたのを感じると、そこはすでに屋敷の前だった。客観的に見れば、墓苑でぶつぶつと独り言を呟いてきただけだった。だが、それでも、オレには理由のある行為だったのだ。


「ただい……」


 ま、と言おうとして、


「お帰りなさいませ!」


 向こうから開いた扉で額を強く打った。扉にかけようとしていた右手の指が、曲がっちゃいけない方向に曲がった気がする。


「ぐ、うおお……」


「あ、あぁ! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」


「だ、大丈夫だ、落ち着けパティ」


「で、ですが指が! エドガー様のお指が、曲がっちゃいけない方向に曲がってしまっております!」


「うわ、何だこれ。我ながら怖いな!」


 痛みよりも、寒気を感じた。自分の肉体がおかしな状態になっているというのは、めちゃくちゃ怒ろしかった。


「ど、どうしたのですかパティちゃん! って、あぁ! え、エドガー様の指が、ま、曲がっちゃいけない方向に!? 具体的に言うと……!」


 騒ぎを聞きつけてやってきたリュカの表情が一気に青ざめる。


「ぐ、具体的に言っちゃダメだ! 余計怖くなる!」


「全く。必要のない過程に何を大騒ぎしているのだ……。時間が無いのではなかったのか」


 リーリが呆れた様子でやってきた。オレの指を見るなり、わざとらしく溜息をついている。


「ほら、見せてみろ。貴様は覚悟が足りないからそうやっていちいち……って、これはちょっとマズくないか?」


「あ、ヤバい。どんどん痛くなってきた」


 気付かなかった痛みが少しずつ脳に響いてきた。黄色信号が赤信号へと変わっていく。何でこんな訳の分からないポイントで時間を無駄にしないといけないんだ、という気持ちから、痛い助けてというシンプルな気持ちに切り替わる。そんなオレの感情が周囲に伝播したのか、パトリシアが、リュカが、リーリが、ヒステリックな具合になってきた。このままでは収集がつかなくなる、微かに残った冷静さで考えていると、


「はぁ。帰ってきただけで大騒ぎとは、どこの悪役怪獣でござるか」


「あ!」


「どれ、我が輩が診てあげる……というか、自分で治せば良いではないか。団長殿の腕を治したのでござろう?」


 ちょっと信じられないものを見た。魔界のスーパーアイドルレヴィアの独唱会で踊り狂っているはずの人物が、突然目の前に現れたのだ。


「牧村……!」


「そんな大げさに呼ばなくても、口調でわかると思うが」





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