大合唱へ
一体どこの誰だろう。一体どのタイミングだろう。え、と小さく呟いた者がいた。
「「「え?」」」
それにつられるように、海の幻想号に集まった十万の魔族と人間が、全く同時に繰り返した。そしてそれは、
「ふざけんなぁ!! 何考えてんだ!!」
「う、嘘だろおい!? 冗談で言ってるんだろ!?」
「で、でもほらあれ見てよ! 本気……なんじゃ……!」
「何のつもりだよ! 頭おかしいのか!」
「もしかして、俺達を殺すつもりか!?」
「そ、そうだ! アスモディアラの娘が復讐に来たんだ!」
大津波のような大混乱へと変わった。各々が様々な反応をするが、共通しているのは、その場から離れようとすること。大きく分類すれば、リュカに攻撃しようとする者と逃げようとする者に分かれた。
「おい!」
「あぁ!」
いくらレヴィアのファンだろうと、厳しいこの世界で生きてきた者達だ。一度攻撃すると決めたら容赦はない。突き刺しそうな殺意が膨張する。リュカを守るため、リーリと一緒にステージに飛び出そうとして、オレ達は足を止めた。飛び出すことができなかった。
「あんたらが出たら、フワモコの時間は終わりだけど、それでいいのかしら?」
レヴィアがそう言いながら、恐ろしいほどの殺気を向けてきたからだ。そのあまりの迫力に、オレ達は一瞬動けなくなった。その時、
「っ!?」
「曲が……!!」
メロディーが、流れ始めた。それを聞いて観衆は更なるパニックに陥る。会場中に設置された音響設備が役に立たないほどの悲鳴が船上に膨れ上がる。悲鳴に掻き消されて、メロディーもすぐに聞こえなくなる。それでも。
「リュカ……!」
リュカは、歌っていた。聴こえるはずもない。聴いてくれるはずもない。この場にいる全ての者達が、
「逃げろぉ!」
「くるぞ! あいつが、ベルゼヴィードが!」
「殺される! 喰われちまう!」
「どけ! どけよ邪魔だ!」
「お前が邪魔だ!」
もう自分のことに手一杯で、ひたすら逃げることだけを考えていた。リーリをして猛者達と言わしめた親衛隊達も、どうすればいいかわからなくなっている。レヴィアを守るのか、歌をやめさせるのか、会場の混乱を鎮めるのか。正常な思考ができている者は誰一人としていない。混乱は暴動となって破壊を呼び、そこかしこで血が流れ始めた。
これはもう、どうしようもない。この計画は始めから無茶で、博打にすらなっていなかったのだ。暗い絶望が俺の脳内を埋め尽くそうとした、その時。
「っ!!」
突如として、十万の観衆が動きを止めた。魔族も人間も、微かな身動きすらできなくされたのだ。あまりに異様な光景に、呼吸が止まりそうになる。熱帯夜になっていた海の幻想号の空気が、猛烈な速度で冷え込んでいった。
「こ、これは……」
「もしか、しなくても……」
「牧村……?」
十万である。十万の観衆が全員、首から上だけを残して氷漬けにされていた。さらに、島に匹敵する超弩級戦艦の甲板を、分厚いと表現するに足りない氷の壁が覆う。半透明な氷の天井は月の光を屈折させ、まるでミラーボールのように船上を輝かせた。問答無用、有無を言わさぬ超強制。最高レベルの魔法による、前代未聞の拘束技だった。
これはつまり、その気になればいつでも十万の命を刈り取れたということ。リーリが圧倒されたように後退り、パトリシアはへたりと尻餅をついてしまっていた。
「ふぅ。全く。女の子が一生懸命歌っているというのに、大声を出して騒ぐなど言語道断でござる。我が輩もチョイおこでござるよ」
気がつくと、ぜぃぜぃ息を荒げている牧村が、レヴィアの隣に立っていた。高く掲げた右手は肘から指先まで霜で真っ白になっている。
「ふ、ふふ。僕が、氷雪魔法カッケーと思って、習得したことに……感謝してよ。これ、火炎魔法とか、雷電魔法とかだっ……たら、普通にゲームオーバーだったから、ね」
女神ユニコからてんこ盛りのチートを貰っている勇者でも、流石にこの規模の大魔法はキツいらしい。ござる口調を維持できていない。これでは、一番命の危険があるのは牧村ではないか?
「へぇ。ちょっとはやるじゃない。褒めてあげるわ」
と思ったが、レヴィアが珍しくニコリと微笑むと、
「う、うおぉおお!! レヴィアたんに話しかけられた!! しかも褒められちゃった!! 生きてて良かったぁ!!」
メキメキ元気になった。肩ではなく、鼻で息をし始めた。よし。これならまだまだ保つな。心配して損した。
「リュカ!! 今だ!!」
ステージに目を向ける。眼前の光景が光景だけに、リュカも驚愕で一時停止してしまっている。朱と蒼の瞳が色を失っていた。だが、必死で叫んだオレの声には反応してくれた。こちらを振り返り、そして、唾を飲み込みながら力強く頷いた。
甲板は氷漬けされた観衆の呻き声で満ちている。叫ぼうとしている者は鼻を残して口も覆われる。牧村が持てる魔力を総動員して微調整を繰り返していた。精緻極まるその魔法は、軍神ルシアルの偉業と比べても見劣りしない。
「あんまり、やると、みんな凍傷になるよ。歌うなら、早く……!」
牧村が作ってくれた時間。暴れた観衆によっていくつかの音響設備は壊されてしまっていたが、氷の壁で音が反響する。きっと一番遠くまで届くはずだ。
レヴィアが長く息を吐いた。すると、再びメロディーが流れる。もしかして、バックミュージックも全てレヴィアだけで賄っていたのか。本当に、パフォーマンスという点において、このアイドルは何もかもが図抜けている。だが、今はレヴィアの凄さに舌を巻いている場合じゃない。オレが目に焼きつけるのは、他の誰でもない、リュカだ。
流れ出した旋律は、ピアノのような楽器で儚げに演奏されていた。ゆったりと透き通るように、だが、確かに弾みながら、優しい音が紡がれていく。初めて耳にした異界の音楽に、オレの脳は甘い痺れに襲われた。それは、オレが聴いてきた音楽の中で、最も美しいメロディーだった。
「歌います! だから、聴いて下さい! どうか、お願いします!」
観衆の中には、恐怖で気を失っている者もいた。それ以外の者も、必死でメロディーから逃れようともがいている。頭を振り、固く目を閉じ、死刑台にのぼるような表情だった。
だが、ほんの一握りの者達は、観念したようにリュカを見つめていた。もういいや、と。好きにやってくれ、と。もしかしたら、これがレヴィアとリュカの歌唱対決だということを思い出してくれたのかもしれない。
リュカが胸いっぱいに息を吸いこんだ。目を瞑り、喉が震え、そして。
「っ!」
唄い始めた。
「ーー。ーーーー。ーー、ーー」
リュカの歌声が、氷の世界に響いていく。
「ーーーー、ーーーー。ーー。ーーーーーー。ーー、ーーーー。ーー。ーーーー。ーーーー」
奏でられるメロディーとリュカの歌声が溶けるように混ざり合う。時折離れ、近づき、また離れては支え合う。
「終戦の鐘」は、地域によって歌詞が違う。詩人が戦場で歌い始めたという歌には楽譜がなく、その場にいた兵士達の耳にのみ残った。それが人から人、魔族から魔族へ伝わっていくにつれ、少しずつ変化していったのだ。「終戦の鐘」は、地域や時代が変わっても、平和を願う者達の生活の中で、大切に歌い継がれていた。
だが、それは一人の男によって全く別の物に成り果ててしまった。平和を願う歌は、呪いの歌となった。それを歌えば、この世界で最も恐ろしい男が現れる。
「ーーーー。ーー。ーーーー、ーー、ーー、ーーーー。ーーーー。ーーーー。ーーーー、ーーーー!」
だから、「終戦の鐘」は、歌詞を失った。この歌を歌えば、魔王が、ベルゼヴィードがやってくる。皆んな皆んな、殺されてしまう。惨たらしく食べれられてしまう。
だから、人々は、魔族は、歌わないように歌うようになった。
言葉にはしない。誰にも聞かせない。ただ鼻歌として、小さく小さく歌った。小さく小さく、細やかに細やかに。
だから、「終戦の鐘」は、誰もが知る歌なのだ。どんな風になったとしても、その歌は、平和を願う歌だから。人々は、魔族達は、歌い続けた。子供に、孫に、旋律だけを託してきた。
もう忘れているかもしれない。だが、魔界と人間界は、三百年前に平和条約が結ばれているのだ。人と魔族は、確かに手を取り合おうとしていた。障害も、壁も、自らの手で乗り越えようとした時期があった。
だから、きっと届く。届くと信じて、リュカは歌っている。
「綺麗な声だ」
「あぁ」
オレの独り言にリーリが返事をした。昨日はリュカの音波兵器に耳をやられていたが、今は静かな表情で耳を傾けていられる。オレ達は、優しい揺り籠に包まれていた。
これも牧村がアドバイスしてくれたことなのだが、リュカは歌おうとしているからおかしなことになるのだ。変に音程を合わせようとしたり、声のボリュームを上げ下げしたりするから、訳の分からないほどに崩壊する。本来のリュカの声をそのまま発揮できれば、必ず美しいものになる。だから、今のリュカは、歌っているというよりは、本の朗読をしているような感覚に近い。しっとりと語り聞かせる声で、歌詞なき歌を紡いでいく。音量なんてものは、レヴィアが拾って、向こうまで飛ばしてくれるのだから。
「ーー。ーーーー。ーーーー!!」
ここで一番が終わった。歌詞がないから二番も三番も同じなのだが、区切りをつけるならここだ。
「皆さん! これから二番を歌います! だから、皆さんも歌ってください!!」
一体感。ファンがライブに求めているのは、歌い手と、自分達ファンが一緒になって音楽を作りあげていくこと。
それを今ここで、やる。
「大丈夫です! レヴィアさまと、勇者さま、そして……」
リュカは一呼吸詰まったが、
「そして、私が大好きな人が、皆さんを絶対に守って下さいます! だから歌いましょう! 終戦の鐘を、今ここで、私達で、取り戻すんです!!」
あるべき姿に。平和を願う歌を、誰しもが歌えるようになるために、ここに集まった十万の魔族と人間の手で、もう一度!
「私に合わせてくれなくていいです! 適当でもあやふやでもいいです! 声を上げましょう! 手を叩きましょう! 私には、私達にはそれができます!!」
観衆達を捕縛していた氷が溶け、水滴となって宙を舞う。月光に照らされ輝く水滴達は、観衆の全員の瞳を反射させている。
「大丈夫ですよ! ほら!」
リュカが、こちらにおいで、と手を伸ばす。すると、
「「ーー。ーーーー!!」」
甲板の右側席から、大きな声が出された。
「「「ーー、ーー、ーー。ーーーー、ーー。ーー!」」」
左側席からも、奥の席からも、人々が、魔族が、リュカと一緒に歌い始めた!! 小さく自身なさげたった声は次第に大きくなり、氷の檻を弾き飛ばしそうな大合唱へと成長した!!
「ありがとう! ありがとう、ございます!!」
指笛が鳴る。手拍子が起きる。拳を振り上げている者がいる。涙を流しながら叫んでいる者がいる。肩を組みあって揺れている者達がいる。
それぞれが、全く違うやり方で、終戦の鐘を歌い上げていた。
「「「ーーーー、ーー。ーーーーーー! ーー。ーーーー、ーー、ーー。ーーーー、ーーーー。ーーーーーー!!」」」
大合唱よりも上、超特大の大合唱は、月へと届いているだろう。