意味のない闘い
連れてこられたのは、リーリの部屋だった。オレを弁護してくれようとするリュカを無理やりパトリシアに抑えさせ、二人きりにさせられた。ファンシーなぬいぐるみが並ぶ棚の前にオレは立ち、リーリはオレを逃がさないとするかのように扉を背にして立っている。
「どうして貴様がそういう結論を出したのかは、察しがつく」
リーリは声を荒げないように必死になっていた。話がある、と言った通り、まずは話し合いから入ってくれるつもりらしい。それでも、理性の糸はいつ切れてもおかしくないほど張りつめていた。
「その考え方なら、団長や勇者を優先した理由も納得ができる。貴様は、自分がこの世界に来たことで生まれた凹凸を均そうとしているのだな。そして、結果としてリュカや魔界、人間界が少しでも平和になればいい。そういう腹積もりだ」
「……そうだ」
オレや牧村、ベルゼヴィードがこの世界に来たことで、いくつもの捻れが起こった。ユニコやケアトルがカバーできないほどのものだ。だからオレはそれを清算する。ベルゼヴィードを消し、オレを消す。少しでも元の状態に戻し、そこからやり直してもらう。それがオレの意思だった。
「オレは、この世界にいちゃいけない。だから、帰る。それだけだ」
言葉に不純物を交えなかった。自分でも勝手だとわかっている。だが、こうすることしか思いつかない。そして勝手だからこそ、最後までやり遂げるべきだとも決めている。オレはリーリの目を見て言った。リーリの方頬がヒクついた。目を細くしながら、腕を組む。
「帰りたいなら帰ればいい。穀潰しがいなくなってせいせいする。だが、私は言ったな。リュカを悲しませたら許さない、と。その様子だと覚えていないようだが」
「覚えてるさ」
「覚えていて、そのザマか」
「あぁ」
あの馬車の上で語らった全てを、オレは刻銘に記憶している。明るい笑顔でリーリが笑っていてくれたことが、オレの支えになった。そして、オレは彼女を最悪の形で裏切るのだ。
「いくらオレが情け無くても、優柔不断でも、これだけは曲げるつもりはない。いくつかのやり残したこととすべきことを終わらせれば、オレは元の世界に帰る」
きっと上手くいくと思えるような道筋が見えた。この機会を逃したくはない。だから、
「お前に何と言われても、オレは最後までやり遂げる」
オレは天に誓うつもりでそう言った。絶対零度にまで冷え上がったリーリの瞳を見つめ返す。最初の出会い方こそ悪かったものの、最近は少しはオレに親しい表情を向けてくれるようになっていた。だが、そんなものは跡形もなく凍りついて割れ落ちていった。リーリの顔が敵意に染まる。もう、オレを屋敷の住人とは見てくれていなかった。彼女にとって、オレはリュカの心を弄んだ敵だった。
「よくわかった。貴様は一応はリュカの婚約者だからこの屋敷においてやっていた。だがこの瞬間から貴様は侵入者であり害虫だ。即刻出て行ってもらう」
「……あぁ」
そういう扱いを受けて然るべきだろう。そもそも、これまでが優しすぎたのだ。人間嫌いであるリーリは、アスモディアラやリュカの取り成しでオレを住まわせていたに過ぎない。
これは、あまりに空虚な終焉だった。初めてオレを認めてくれたのは、異世界の魔族たちだった。寝床をくれ、食事を食べさせてくれ、何より笑顔を向けてくれた。オレの居場所を作ってくれた。それも今日で終わる。他の誰でもない、オレの犯した過ちによってだ。そう思うと、結局は始めからオレに居場所など作れやしなかったのかもしれない。彼女たちの優しさで誤魔化されていた靄は、とうとう晴れた。
「……」
「……」
両者の間で、別離の沈黙があった。
「……」
「なぁ、リーリ」
「なんだ」
「そこどいてくれないか」
リーリは唯一の出口である扉の前で突っ立っている。よく見たら扉に背中をもたれさせていた。それだと外に出れない。
「……うるさい」
「え?」
腕を組んだままのリーリが下を向いた。黒髪のポニーテールが揺れる。脚を肩幅に開いた仁王立ちである。オレが声をかけると、聞き取れない音量の返事が返ってきた。
「うるさい。うるさい」
「えっと……」
「うるさい。うるさい、うるさい」
「どうした? 何か聞こえるのか?」
リーリは狼人族の末裔だ。嗅覚、聴覚ともに恐ろしく優れている。匂いを嗅いだだけで相手の感情が読み取れるとも言っていた。だから、オレには聞こえないような音が聞こえているのかと思った。
「違う、違う……! どうしてこんなに、心が叫ぶんだ! どうして……どうして!」
リーリは背中を扉に押し付けながら、ズルズルと尻を落としていく。ぺたんと座り込んだ彼女は、獣耳を手で押さえて頭をふる。首が曲がってしまうのではないかと心配してしまうほど強く。それは、小さな子供がぐずっているかのようだった。
「貴様は、リュカの敵だ! 私の敵だ! 早く出ていけ! 出て行ってくれ!」
出て行けと言うのに、扉から退こうとはしない。オレはどうしようもない気持ちでリーリを見下ろしていた。どんな形で声をかければ良いのかわからない。
「嫌いだ! やっぱりお前なんか嫌いなんだ! 私にもリュカにも、誰にも何も言わずに勝手に決めて、それを曲げようともしない! なら私たちはどうすればいい!? この気持ちを、お前は知ってくれないのか!?」
「それは……」
「いきなり現れて勝手に居着いて、散々思い出を残して、どこかに行ってしまう! そんなことなら、初めからいないで欲しかった!」
……そうか。そうだったのだ。いつも憎まれ口ばかりだったリーリも、ちゃんとオレを受け入れてくれていたのだ。リュカと同じように、オレがいなくなることを悲しんでくれている。そして、オレは彼女たちの心に何一つ応えてあげられないというのに、彼女たちはオレの決断を認めてくれているのだ。
だが、それはリーリがオレを許してくれているということではない。だからこんなに怒って、声を荒げて、悲痛な表情で頭を振っている。
「闘え」
「え。そ、それってつまり……」
「決闘だ! 私と闘え! 私は貴様の全てが気に入らない! だからもう、闘う以外のことが何もわからない!」
その帰結は彼女らしい。
「……わかった。その決闘、受けよう」
互いに何の戦利品もなく、得られる権利もない。ただ、行き場のない気持ちをぶつけるだけの決闘。闘うという意味以外の意味のない、空っぽの闘いだ。
リーリは悪鬼の瞳でオレを睨みつけながら立ち上がると、扉を蹴り飛ばして中庭へと出た。ケルベロスがうたた寝をしていたが、リーリの放つ鬼気迫るオーラに驚いて逃げ出していった。
「あぁ」
「なんだ!」
「いや」
初めて会った時も、こうして決闘をした。お互いが立っている場所も同じだ。オレはあの日を思い出して、少し心が折れそうになった。オレとリーリの関係はあの決闘から始まった。そして、最後もこうして決闘で終わるのだ。
「アイツェルン!!」
リーリが喚び出したハルバードは、ずっと変わらない。いつだってリーリの部屋に大切に保管されている。だが、それを扱うリーリはかつてとはまるで別人だ。屋敷の仕事に忙殺されながらも、一日として鍛錬を怠ることはなかった。師匠であるセルバスが残した魔界三叉槍を受け継ぐために、リーリは懸命に努力を続けてきたのだ。
「アイツェルンを変化はさせない。あの状態はあまり強くないと最近気づいた」
「最近かよ」
リーリが普段しているのはハルバードの鍛錬であって、猛獣使いになるためのものではない。
「私は本気で行く。本気で貴様を殺しにかかる」
「オレも、それ相応の覚悟で闘う」
決闘のための決闘。お互いに確かな意味を持つことのない寂しい闘争だった。勝とうと負けようと、何も得ることはない。
「死ね!」
鋭利な言葉とは裏腹に、リーリの瞳は揺れていた。その瞳のままオレに突っ込んできた。疾い。格段に疾くなった。勢いそのままに、ハルバードの切っ先が突き出される。オレは左腕を掲げた。その時、
「はい、そこまでー」
オレとリーリの間に突如として割り込んできた者がいた。左手に持った氷の剣でハルバードを受け止め、右手は五指をいっぱいに開くことでオレを制している。ギィン! という肝が冷える音とともに、氷の剣にヒビが入った。
「全く。突然のSOSに何かと思えば、幼子のような駄々のこねあいでござるか。挙げ句の果てに干戈を交えようなどと、いつの時代のコミックでござる」
「牧村……」
ショートカットの小柄な少女が、不釣り合いな大人びたため息をついている。一瞬を砕いたような決闘の間に割り込める力は、まさしく勇者だった。
「……どけ。貴様の世話をしている暇はない」
「ふりふりのメイド服姿でよくもまぁ」
「っ!」
一瞬リーリの頬が朱になるが、力は緩めていない。ハルバードと剣がふるふると震えている。リーリは全身全霊の力を込めている。それに対して、牧村は眉の間に小さなシワを作っているだけだ。
「リーリ!!」
悲鳴でリーリの名を呼んだのはリュカだ。中庭の外れからオレたちを見つめている。
「お願い。やめて……」
「……リーリさん」
リュカの背中には、申し訳なさそうに目を伏せるパトリシアがいた。リュカを抑えていて欲しいというリーリの頼みを、最後まで全うできなかったのだ。
「激昂してもこじれるでござるよ。ここは少し頭を冷やすでござる」
ツンドラの大地のようなこの空間において、牧村のふざけた口調は小さな灯火だった。いつもは鬱陶しくて聞き流していたような口調は、逆にオレたちの日常にもなっていた。
「リュカが、この穀潰し二号を呼んだのか」
「はい。私〈わたくし〉ではどうしようもないと思い、猫の手も借りたいという気持ちでお知らせしたのです」
「我が輩の初めてのリアルのメル友の頼みでござる。満を持して駆けつけてきた」
執事である自分の行いを主人に暴走だと思われ、それを宿敵によって止められた。リーリにとってはこれ以上ない屈辱だろう。
「……私は、何とも滑稽だな」
自嘲したリーリは静かに武器を下ろした。その黒々としたハルバードも、やがて淡い光になって消えた。
「両陣営とも、少し話し合うでござるよ」
「マキムラさんの言う通りです。リーリ、ちゃんと話をしましょう。私の思いを、聞いて欲しいんです」
「わかったよ……」
リーリの横顔は疲れ果て、陰りが見えた。いつものキビキビとした歩き方は見る影もないほど鈍重な足取りで、リュカと共に屋敷の中へと消えていった。その背中に手を当てるリュカが、一度ちらりとこちらを見てから、他にどうしようもない、という顔で笑った。
「あの、温かいお飲み物をご用意しますね」
そして、パトリシアもリュカとよく似た表情をして、キッチンへと駆けていった。オレはそんな彼女たちを脱力した心と身体で見送っていた。
「ほら。呆けてないで、我が輩たちも話すことがあるでござる」
「え」
「え。じゃない。世の中は史上最高に浮かれていると言うのに、どうして江戸川殿はそうも暗いのか」
「うるせぇな。性分なんだよ」
性分なのだ。オレが暗いのは、ずっと昔からなのだ。
「もぅ。ほとほと困ったちゃんでござる」
「お前にだけは言われたくねぇ」
アメリカンに肩をすくめる牧村。小柄なこいつがやると必要以上に小馬鹿にされている気になる。
すると牧村はオレにくるりと背を向け、すたすたと休憩所まで歩いていった。石の椅子に腰掛けると、隣をバンバンと叩く。
「ほら。聞きたいことが山ほどあるでござるよ」
オレもこいつに話さなければならないことがあるのを今思い出した。




