涙の訳
リュカは可愛らしい眉を寄せて、難しい顔をしている。アスモディアラから受け継いだ執務室は彼女には大き過ぎる。前の主人が愛用していた机や椅子はそのままに、リュカは別に自分用のものを使っていた。リーリの手作りらしい。優れた執事は大工仕事もこなすのだと、ちょっと嬉しそうにリーリが教えてくれた。そんな顔をしているものだから、執事ってそういう仕事じゃないと思う、とはオレは言えなかった。
「我々にはこの地を預かる責任があるのだ。こんな不安定な情勢の中、領地をほっぽり出して遊興に耽る領主がどこにいる」
「リーリの言う通りです」
オレが屋敷にいない間、リュカはこの地に住まう種族の長たちと会談を設けていた。はっきり言って、リュカは領主になりたいとは全く思っていない。他の魔王たちと肩を並べることなど難しいし、ましてや争いあうなど不可能だ。だから、リュカはアスモディアラが愛したこの屋敷さえ残せるなら、領主としての地位を譲って良いという姿勢だった。だが、残念なことに他の種族の長たちが領主になろうとすることはなかった。たまたま今の世代はどこも力が弱まっていて、雷神卿アスモディアラの肩書きに並べるだけの個体がいない。ルシアルが敗れた件や、ベルゼヴィードへの恐怖も相まって、領主の座を得ようという野望を持ち合わせていなかった。リュカが期待していた、アスモディアラ領における主力種族、ハーピー、ラミア、サキュバスも、権威やステータスなどを欲しなかった。そのせいで、リュカは暫定領主としての責任を押し付けられてしまった。誰も貰ってくれなかったのだ。
オレは現在、執務室で頭を抱えているリュカとリーリに、レヴィアの独唱会への参加を促しているところだ。
「こんな機会は二度とないぞ」
「それはそうですが……」
オレもリュカも、昨晩のことは忘れてしまったかのように自然体だった。気まずい空気になるかとも思ったが、意外と何とかなった。ただ、それは気持ちに整理がついているからという訳ではない。あえて触れないように演技しているだけだった。
「今後の領地運営のことを考える必要もあります。その、本音を言えば行きたくて行きたくて、行きたくて行きたくて仕方がありませんが、こればっかりはどうしようもないです」
「頑固だなぁ」
四回も言うほど行きたいのなら素直に行けばいいのに。
「それがリュカの良いところだ。悪いところでもあるがな。大体は悪い方に働くが」
「リーリ、一言多いですよ」
どうやらリーリも苦渋の決断らしい。彼女らしくない発言が至る所で散見される。独唱会のことで頭がいっぱいなのだろう。
「じゃあ、一つ提案があるんだ。聞いてくれるか?」
「と、言いますと?」
オレが踏み込んでいい領域を超えているが、オレ以外は誰も言い出せないことだった。だから物怖じせずに言う。
「この領地を、レヴィアに譲ればいい」
少しの間、リュカもリーリもぽかんとしていた。そこまで突拍子のないことを言ったつもりもなかったが、どうやら彼女たちは考えもしていなかったことらしい。
「誰も領主になりたがらない土地なんだ。だったら、他の魔王に譲る方が建設的だと思わないか?」
領域内の強力な魔族は幸か不幸か、上に立つことに興味がない。だったら、よほど気に入らない条件を提示されない限り、強く反抗してくることはないだろう。リュカやリーリの話を聞けば、どうやらハーピーもサキュバスもラミアも、アヤさんみたいな性格の魔族が多い。自分たちが楽しければ、地位も名誉もどうでも良いのだ。
「い、いや、流石にそれは……。いくらレヴィア様とは言え、勝手に勢力地図を変えられては、魔界全土に影響が。それに、もし私たちの領地を明け渡してしまえば、レヴィア様の領土は魔界最大、人間界に匹敵する広さになってしまいます」
「それなんだが、レヴィアの領土が広がること自体はそんなに問題じゃないと思うんだよ。あいつは別に暴君じゃないし、領民を管理する能力だってある。無闇に戦争を仕掛けたりもしないだろう」
「ルシアル領に侵攻したばかりだと言うのに、よくもそんなことが言えたな」
「それはそうだが、オレが言っているのは領地の譲渡だ。戦う必要も意味もない。それに、サタニキアやマミン、ベルゼヴィードに同じことをするよりかは、領民の理解も得やすいんじゃないか?」
レヴィアの持つ求心力と人気、そして絶大なカリスマ性。あれが魔王としてトップに立っていることに疑問はない。他の魔王たちも強力な力を有してはいたが、レヴィアはその範囲がまた違うし、より広い。
「時期だっていいと思う。ルシアル領が占領されたんだ。サタニキアは最後に残すとして、次はマミンかここだ。ただでさえ戦う力がなく、主戦力はあまりやる気がない。それなら、変に傷を負うよりも先に無傷で領地を明け渡した方が、土地も魔族も被害が少ない」
「……」
リュカがさらに眉間のシワを深くする。知恵熱でも出ているのか、可愛らしい頬が赤くなっていた。それとは対照的に、オレに考えがある、と言われたパトリシアは、まさかこんな大それたことだとは思っていなかったのだろう。少し顔を青くしていた。自分が独唱会に参加したいと言ったばかりに、魔界全土を揺るがすような事態に発展している、と思っているのだ。実際は全然そんなことではないので、後で丁寧にフォローしておかないといけないな。
「私は、賛成だ」
「っ! リーリ!?」
オレが全く期待していなかった方から賛同が上がった。それは同時に、リュカが味方だと認識していた存在がいなくなったことでもある。
「リュカに広い領地を治めるような器はないし、魔力だってまだ十分に扱えきれていないのだ。どうしたって他の魔王とは見劣りする。おまけに主力である三つの種族は、アスモディアラ様だから付き従ってくれていたようなものだ。いつどんな形で離れていくかはわからないぞ」
ならば、早いうちに手放した方が、この領地が活きる。そして、
「私は……リュカを危険に晒したくない。今でも悪い噂はいくつも流れている。アヤさんがいてくれるから直接手出ししてこないだけだ」
本当に、アヤさんはこの魔界でどんな立ち位置なのだろう。二日酔いでベッドから出てこないお姉さんを思う。
「そこの変態が言うように、今は一つの転機だ。好機という訳ではないが、この谷間は上手く操れれば追い風になる」
今は一種の空白だ。レヴィアの独唱会が百日続くというのなら、その終わりが空白の終わりでもあるだろう。そうなれば次のチャンスがいつになるかはわからない。状況がどう移り変わっていくかもまるで読めない。動き出すなら今だ。
「今はリュカが領主なんだ。どれだけ文句を言われようが、決定権はリュカにある。それに、レヴィアとの交渉次第で、領地の魔族の納得する条件を取り付けることもできるはずだ」
オレには、その交渉における重要なカードがあった。これもまた、オレにしかできないこと。
「リーリ。こちらがレヴィアに提示したい条件は?」
「……ふむ。まずはリュカの安全だな。これだけは外せない。そしてそれと関係することだが、領地の譲渡の後、この地の魔族たちが不当に下位カーストとして扱われないことだ。物流や交流が平等でないと、領民に不満がたまる。その矛先がリュカに向かないとも限らない」
「なるほど。多分、それくらいなら何とかなる」
「何か手札があるのか?」
「あぁ」
龍王の右腕の拳を強く握った。
「ベルゼヴィードの討伐だ。今度は待つんじゃなく、オレから打って出る。そして必ず倒してくる」
あの軍神ルシアルでさえ、戦場における最大の不確定要素と断言した存在、ベルゼヴィード。ついに現れることはなかったが、その対策にオレが呼ばれていた。それだけではなかったと後でオレも気づかされたが、やはり一番の理由ではあったはずだ。
現在、魔界と人間界において最も恐れられている魔王が、ベルゼヴィードだ。戦闘力、凶暴性、性格、機動力、それら全てを統合し、奴の存在そのものを形作る嗜好。領地や領民を預かる魔王としては目障りで仕方がないだろう。それを、排除する。オレが。一人で。
これは間違いなくレヴィアに対する有力な交渉材料になる。かつてレヴィアは、自らのステージである海の幻想号に侵入され、ファンを惨殺されている。その時はレヴィアとマミンの魔王二体で何とか撃退したものの、あれがもし一対一だったらどうなっていたかわからない。同じように、オレが王城で遭遇した時も、牧村と共闘した。それでも押し切れず、逃亡を許したのだ。個人の戦闘力で言えば、あいつはズバ抜けている。
だが、今は違う。オレは龍王の右腕の持つ真の力を自覚した。自惚れなしに、オレが敗北することはあり得ない。
「アスモディアラがベルゼヴィードと決闘をしに行った時は、他の魔王たちの協力で奴の居所を特定していた。それならもう一度同じことができるはずだ。その点は貸しを作ることにはなるが、討伐の功に比べたら些細なものだろ?」
これで、リュカはレヴィアとの交渉の席につける。それもこちらに有利な状況で。あとは独唱会中のアイドルと面会できるかだけが問題だ。
何より、オレが考えるベルゼヴィード討伐は、オレがこの世界ですべきことの一つだ。最大の案件だと言っていい。そしてそれがリュカたちの役に立つというなら、オレは進んで役目を果たしてみせる。
「え?」
そう思っていた。
「リュカ……?」
初めて、本当の意味でリュカたちの役に立てる、そう思って提案したのに。きっと喜んでくれると思っていたのに。
それなのに、リュカは泣いていた。
「ちょ、お、おい! どうしたんだよ、いきなり!」
机に座ったまま、リュカは静かに涙している。その様子に慌てたのはオレだけではない。リーリもパトリシアも、何故リュカが泣いているのかわからず、そしてそれ以上に、あまりに突然すぎて、声を出すことも忘れていた。
「あの、リュカ? どうした? 体調が悪いのか? それならそうと……」
「ここしばらくお忙しくかったですから、疲れが出たのかもしれませんね。リーリさん、私は何か落ち着けるお飲み物を取って来ます」
「あぁ、そうしてくれ」
リーリとパトリシアがようやっと再起動したが、彼女たちはリュカの体調が崩れたと思っているらしい。実際、オレが知らなかっただけで、リュカはここ数日は目の回るほど忙しかったのだ。それも慣れないことばかりをさせられていた。
だが、リュカは目尻に雫をためながら、無理したように笑ってみせた。
「あ、だ、大丈夫ですよ。すみません、ちょっと目にゴミが入ったみたい」
「いや、何故そんな嘘をつく」
「嘘じゃないですよ。ほら、もう治りましたから。平気です」
遠慮がちに手を振りながら笑う。その姿のどこに「平気」があるのか。そして、その異常の原因を、リーリは的確に察知した。
「この変態が、どうかしたのか?」
姉妹のように長く深く時を過ごしてきたからこそ伝わる何かがあったのだ。突然の落涙という不可思議な事態だからこそより強く働いた。
「い、いえ。そうではなくて……」
「こいつが原因なんだな」
リュカの弁解を容易く看破して、確信すら持った。あとはもうリーリのターンである。
「何があったんだ。私には言えないことか?」
「そ、それは……その」
「昨晩こいつが中庭で眠りこけていたことと関係があるのか」
「……」
みるみるうちにリュカは追い詰められて、小さくなってしまった。だが、オレやパトリシアに助けを求めたりはしない。いつもなら結構すぐに視線でSOSを訴えかけてくるのだが。
「リーリ」
「……なんだ」
オレが話しかけると、リーリはブチ切れ一歩手前の声を出す。
「オレ、元の世界に帰ることにしたんだ」
「はぁ?」
「それを昨日、リュカに言ったんだ。だから……」
「だから、リュカが泣いているのか?」
「そ、それは違うんですっ!」
どす黒いオーラを立ち昇らせながら、リーリがゆらりとオレに足を向けた。その背中に追いすがるように、リュカが叫ぶ。
「わ、私が! ちゃんと受け止めてなかっただけなんです。先程のエドガーさまの、ベルゼヴィードを倒しに行くという言葉で、やっと実感が出てきて……! 申し訳ございません、エドガーさま。こんなの、面倒くさいですよね。お気になさらずとも……」
ズダン! という空間を裂くような音は、リーリが投擲したハルバードが、オレの頬すれすれを通って壁に突き刺さった音だった。
「話がある。出ろ」
「……あぁ」
こうなるのはわかっていた。だが、順序が最悪だった。先にリーリに説明していれば、と思う。
いや、どの道同じことだったかな。




