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伝えたいことは



 一流旅館なみの大浴場は久しぶりで、肩まで湯に浸かると痺れるような快感があった。特別な温泉というわけではないはずだが、屋敷の風呂は格別だった。とにかくデカいし。一人で入るには贅沢すぎてちょっと寂しいくらいだ。


「あぁ〜〜」


 立ち昇る湯気で壁が見えない。湿気に包まれて肺まで温かくなってくる。

 あの後、アヤさんはしこたま酒を呑んで泥酔してしまった。別に珍しくもないが、いつもより酔うペースが早かった気がする。彼女は呑めばすぐに酔ってしまうタイプだが、前後不覚になるまでには時間がかかる。ほろ酔いが異常に長いからだ。だが、今日はあの酒瓶が半分になる頃にはリーリにおぶわれて寝室に連れていかれていた。いつだって明るく元気なお姉さんだが、やはり次々と仲間が亡くなっていくのは物凄く寂しいのだろう。


「あがるか……」


 現代日本ではないから、食事をして風呂に入ってしまえば、あとはこれと言ってやることはない。せいぜい本を読むくらいだ。リュカは一番風呂に入っていたから、早くしないと眠ってしまう。オレはリュカに話しておきたいことがあった。

 風呂から出ると、脱衣所には新しいオレの服が用意されていた。この屋敷で暮らすようになって、色んな服を貸してもらってきた。リュカやリーリが縫ってくれたものもある。これはそのうちの一つだ。綺麗に畳まれた服を広げると、陽の光の匂いがした。いやいや、「帰ってきた感」を味わっている場合ではない。早くリュカのところに行かなくては。


「おや。エドガー様。お早いですね。もう少しごゆっくりなさっても構いませんよ」


「あぁ、いや。リュカに用事があって」


「お嬢様に? でしたら、中庭にいらっしゃいます」


「わかった。ありがとう」


 風呂から出てすぐの曲がり角に運良くパトリシアがいた。こんな夜中にリュカは屋外にいるらしい。部屋の中にいる分には気にならないが、夜の外は少し肌寒い。そういう意味では、これから気温はどうなっていくのだろうか。雨季が終わったということは、やはり夏になるのだろうか。


「リュカ」


 中庭の休憩所のそばに、ケルベロスが寝転んでいた。三つの頭の六つの目は心地好さそうに瞑られている。そして、そのお腹に埋まるようにしてもたれ込むリュカがいた。ケルベロスの体毛は剣のように鋭いのだが、リュカが撫でてあげるとふわふわになるという謎の仕組みがあった。リュカはぼんやりと空を見ている。遠くに半月となった二つの月が浮かんでいた。


「エドガーさま。どうかなされましたか?」


「いや、ちょっとね」


「ではこちらへ。凄く気持ち良いですよ。それに、温かい飲み物もございます」


「ありがとう」


 オレもケルベロスを背もたれにして座った。すぐ右隣にリュカがいる。小さなマグカップを手渡してくれた。リュカの分とオレの分、そして何故かもう一つあった。柔らかな腹に体重を預けると、オレの身体まで柔らかくなった気がする。注いでもらった飲み物は優しい甘さがあった。


「リュカ、どうして中庭に? 風邪引くぞ」


「少し、考えごとをしておりました。いつもなら自室で十分なのですが、今日は何となく空が見たくなって」


 オレもつられて夜空へと目を向けた。少しだけ気まずかったから、言い訳から会話を切り出す。


「あの、さ」


「はい?」


「一応言っておくけど、オレは別にリュカのこと忘れてたわけじゃないからな」


「なるほど。ちゃんとわたくしのことが頭にあってなお、お二人のことを選んだのですね」


「え、えっとそれは……」


「ふふ。わかっていますよ」


 たじろぐオレを見て、リュカがくすくす笑う。


「今はもう、エドガーさまが元気で帰ってきてくださったことが何よりだと思っています。それに、お二人を優先するのが、エドガーさまなのでしょう」


 特に寂しそうにするでもなく言われた。寛容だなぁと思う反面、ますますオレのダメ男加減が増したなと口の中が苦くなってくる。ぐぅ、というケルベロスの空腹の音色が情けなさを加速させる。

 だが、オレだっていつまでも情けないダメ男でいるつもりはない。己に課せられたやるべきことくらいは、せめてきっちりやり切ってみせる。


「リュカ。聞いて欲しいことがあるんだ」


「はい?」


「ずっと考えてたんだけど、やっと答えが見つかった。本当に、凄く凄く大切なことだから、後でリーリやパトリシア、アヤさんにも聞いてもらいたいんだけど、でも誰よりも先にリュカに伝えるべきだと思って。ううん、伝えたくて」


「は、は、はい?」


「オレたちのこれからのことなんだ」


 リュカの瞳をのぞき込むと、同時にリュカの肩がぴくりと反応した。大きな目が何度も瞬きする。オレは意識していなかったが、オレたちの顔は実はとても近い距離にあった。鼻と鼻が触れ合いそうな間隔だった。


「あ、あの……これからって、その……?」


「あぁ」


 リュカの顔がみるみるうちに朱に染まっていく。くるくると巻かれている角までが熱を持っているかのように朱に。オレはリュカの手を取った。左手だけでなく、右手も使って、小さなその手を握る。体温が燃え出しそうなほど上がっているのが伝わってきた。


「あ、あ、あの……。わ、私、心の準備が……! いや、その、もちろん嬉しいですけれど……!」


 そして何故かアワアワしだした。だが、この機を逃せば次はない気がする。ここで言わねばならない。ごくりとリュカが喉を鳴らしたのが合図。


「オレ、向こうの世界に帰ろうと思うんだ」


 その一言で、時が停止した。僅かにそよいでいた風は凪ぎ、ケルベロスの寝息も静まる。リュカは緊張しきった表情をそのままに、瞬きはおろか呼吸まで止めてしまっている。白くきめ細やかな肌は彫像のようになっていた。


「リュカ……?」


「……」


「リュカ? 聞いてるか? おい、おーい」


「……」


 ぱん! と、目の前で猫騙ししてみたり、手を振ってみたりするのだが、リュカは微動だにしない。もう風もケルベロスも元の姿を取り戻しているが、リュカだけはいつまでたっても帰ってこない。目に光が灯っていなかった。そして、リュカのその状態は五分以上も続いた。これはそろそろヤバいのではないかとオレが思い始めた矢先、握っていたリュカの手が痙攣するように動いた。


「あ……」


「リュカ?」


「あ……あ、いえ、その」


「えっと、大丈夫か? どこかおかしいのか?」


「いえ、そんなことは……。そ、んな、ことは……。そんな……こと、は……」


「っ!」


 オレから目をそらしたリュカは少し俯くと、瞳の端から大粒の涙をぼろぼろ零し始めた。しゃくり上げることもなく、嗚咽を漏らすこともなく、静かな涙が下へ下へと落ち続ける。身体中の水分が全てなくなってしまうのではないかと思ってしまうほど、延々と涙する。


「あ、あは。も、申し訳ございません。へ、変ですね。どうして、どうしてこんなに泣いてしまうのでしょう。おかしいな、おかしいな……」


 止まらない涙を拭うこともせず、リュカは震えるように空笑いをする。


「あれ? あれ……? 嫌だ、別にそんなつもりは。ちが、違うんです。あぁ、でも、どうして……?」


 見開いた目から流れる涙で、リュカの目尻が赤くなっていく。それなのに頬がどんどん青白くなっていくから、オレは目を開けていることもできなくなりそうなほど胸が痛んだ。気がつくと、


「……ごめん。ごめんな」


 オレも泣いていた。苦しくて苦しくて、もう死ぬんじゃないかと錯覚しそうになる。痺れたようになった頭が熱くてたまらない。初めてだった。こんな感情は生まれて初めてだった。痛む胸は涙腺に直結していて、痛みを和らげるために涙を生成しまくる。だが、どんなに涙を流そうと、鼻をすすろうと、痛みが消えることなどない。それどころか、どんどん痛みは増していく。痛すぎて痛すぎて、座っていることすら辛くなってきた。


「も、もう。エドガーさま。どうして、あなたが泣くのですか」


 鼻声のリュカが困ったようにオレの背中をさする。握った手が強く握り返されて、オレは縋るようにその手におでこをすりつけた。


「ひどいお人です。私だって、泣きたいのですよ。でも、そんな風にあなたに泣かれたら、私は……笑うしかないじゃないですか」


「うん、ごめん」


「謝らないでください」


「うん」


 大丈夫ですよ、安心してくださいね、わかっていますよ。

 そんな言葉をリュカは優しい声でかけ続けてくれた。オレはその度に小さな子供のように頷くことを繰り返す。オレたちの涙が溶けて混ざり合って、芝生に吸い込まれていく。手は、温もりが血管に伝わるだけの強さで握り合っていて、そこから身体が一つに繋がっているような気がした。だが、所詮はそんな気がしているだけで、実際はまるでそうではなかった。これからもう届かないほど互いの距離が広がっていく未来を、ただ必死になって拒むために繋がっていただけだ。馬鹿みたいなオレたちを月が冷ややかな目で見下ろしている。唯一温かいのはケルベロスの体毛だけで、オレもリュカもひたすらに体温を下げ続けている。それでも何とか耐えるため、愚かな身を寄せ合う。


「それは、エドガーさまがお決めになられたことなのですか」


「あぁ」


「そうですか」


 尽きることないと思っていた涙も、結局は枯れてしまった。オレたちの会話は静かな声で交わされる。静かすぎて、頭がおかしくなりそうだ。


「それはもう、どうしようもないのですか」


「……うん」


「……それは、どうして?」


「……」


 束の間の沈黙を要したが、それでも思いは変わらなかった。


「オレは、この世界にいちゃダメだ。オレがいるせいで、世界がおかしくなるんだ」


 傲慢かもしれない。自惚れかもしれない。お前程度の存在一つで、世界の何に関われる。きっと誰からの納得も得られるないだろう。でも、


「オレはもう、世界の重さに耐えられない」


 強い生物であることが、辛くて仕方なかった。オレにそんな器はない。世界を動かすような力を持っていても、使う術も覚悟もない。

 普通の人間であることに、誰よりも安心するオレは、特別扱いされることが死ぬほど息苦しかった。


「帰らなくちゃ。ここにいちゃいけない。オレのせいで人が死んでも、魔族が殺されても、オレは何もしてやれない。なら、初めからいない方がいいんだ」


「……エドガーさまがそうお思いになられているのであれば、仕方ありませんね」


 溜息をつくリュカの震える手が、オレの頭を撫でた。


「今までよく頑張りました。えらかったですね」


 その声を最後に、オレは夢の中に逃げ込んだ。そうしないと、どうしても胸の痛みに耐えられなかった。リュカの顔を見る勇気が、オレにはなかった。

 言いたくなくて、言葉にしたくなくて、でもどうしても伝えなくてはならないから、オレは心を打ち消して、リュカに告げた。変えられない気持ちをリュカにぶつけて、その優しさに甘えた。あまりに情けない結論だった。言葉にしようとしまいと、初めからオレのダメ男さ加減はどうしようもなかった。か弱い魔族の女の子にもたれかかることしかできない。


 でも、だからせめて、再び出会えたその日のうちに、伝えねばと思ったんだ。これでも、こんなやり方しか思いつけなくても、それでも凄く頑張ったんだよ。だからリュカは、「えらかった」と言ってくれたのだろう。最後まで、オレはリュカの望みを叶えてあげることができなかった。世界で初めて、オレを心から求めてくれていたのに。

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