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折れた誓い



 涙の意味を全て察することはできない。ただ一つ言えることは、それが歓喜によるものではないということ。団長は自分一人が得をすることに喜んだりはしない。

 思えば団長の泣き顔を見るのは初めてだった。それどころか、歳上の女性の涙そのものがそうだ。こんな形で経験することになってしまって、胸が強く締めつけられる。できることなら、嬉しい気持ちで自然と流れた涙を見たかった。


「あ、いや……。上手く頭が回らないな。思考がもどかしく混濁する。感覚がびっくりしているというか、信じれないというか……」


「それはオレにはわからないけど、嘘や幻じゃないことだけは本当だ。団長の腕は確かに元に戻っている」


「は、はは」


 団長の乾いた笑い声がする。しばらくラジカセのような途切れ途切れの笑声が続いていたが、それが止まった。


「何と言ったらいいかわからない……」


「うん」


「だが、少しずつ怒りに似た感情が芽生え出している。さっきまで干からびていたはずなのに、心に温かな水が戻ってきて、そして」


 それが激しい熱を帯び始めた。


「怒ればいいのか、失望すればいいのか。いや、それよりももっと根本的な何かの熱が灯った。だが、それが何なのかわからない……。私自身がこの感情を、説明すらできないんだ」


 人は理不尽に対して怒る。嘆く。祈る。そして最後には諦める。団長の身に起こっていることは紛れもなく理不尽だ。彼女ただ一人が傷を完治させ、元どおりの身体を取り戻した。これを理不尽だと思い、怒りを感じずにどうする。

 だが、団長ならもうわかっているはずだ。オレがどういうつもりで彼女の傷を治したのか。彼女以外の人の傷を治さないのか。この理不尽に込められたオレや団長自身、そしてこの国の人々の未来を、彼女なら重く重く感じ取っているはずだ。だからこそ、団長はこんなにも逡巡している。自らの感情がわからず、放出先も見つからず、迷い戸惑いながら彼女の心を鈍く燻らせ続けている。


 オレは、団長がいつかはその感情に名前をつけるだろうことはわかっていた。この人がいつまでも立ち止まったままでいるはずがないことは、一緒に過ごしてきた時間が教えてくれる。例えそれが短くとも。そして、その結末がどこにどう行き着こうと、それを受け入れるつもりだった。団長がこれからどんな行動を起こそうと、オレは黙って見守る。だが、絶対にこの「理不尽」を、「奇跡」をなかったことにしたりしない。

 静かに呼吸を続ける。城下の喧騒がやけに大きく耳に届くようになってから、何分かの時間が経った。これが長いのか短いのかはわからない。もう二度とこんなことは起こらないから、何と比べようもない。


「私に、やれと言うのか」


「あぁ」


 団長は深く俯きながら、低く這うような声を漏らした。その両手は顔を覆っている。


「……そうか」


 手を外した団長の表情に、オレは背筋を震わせた。


「誰も……私を助けてはくれないのだな」


 ひどく苦しそうに、寂しそうに、団長は笑った。その笑顔は決して長くは続かなかったが、時を止めたかのようにオレの胸に焼きついた。


「……ふ、いいだろう。この国に身命を捧げると誓ったあの日は嘘ではない。折れた誓いを、もう一度掲げようではないか。次はこの身が塵芥と消えるまで」


「……」


 オレは、ここに一人の女性を犠牲にした。下りた肩の荷を、また背負わせた。それも、以前よりもずっとずっと重くして。

 間違ってはいなかったと思う。こうすべきだと思ったし、こうするしかなかった。だが、オレがもっと強ければ、もっと都合の良い未来をイメージできたのだろう。それができないオレは、どこまでも神ではなく、一人の人間で、ちっぽけだ。そして、それを知って僅かな安心を覚えるくらいには、心が弱い。


「次はどんな形で会うのかな」


 団長はオレの用事が終わったことを理解した。そして、雑談もなくここから出て行くことも察した。


「わからない。会いたい人がたくさんいるんだ」


「ふふ。その者たちよりも先んじて選んでもらえたことを、少しだけ喜んでおこうか」


「……それじゃあ」


「あぁ」


 立ち上がったオレは振り返ることなく病室を出た。団長の視線が月に向けられていることだけを背中で感じていた。彼女はまた闘いへと身を投じる。全ての騎士の信頼を細い肩にのせながら、誰よりも早く戦場へと突進していく。その恐怖を、また。













 口を引き結んだまま、オレはあの子を探していた。もしかしたらまた黒猫亭の二階に逆戻りしている可能性もあったが、そこはあまり心配していなかった。確かにそうであってもおかしくなかったし、再び狭い部屋に引きこもるだけの酷い経験をしただろう。だが、オレはあの子がもう華奢なだけの少女ではないことを知っている。成長か、元の自分を取り戻した結果なのかはわからないが、それでもあの子の持つ柔軟な強さは、健気でなお逞しい。ただ、今もきっと、一人きりで膝を抱えているのだ。そんなあの子に、オレはすぐに会うべきだった。


「おい、いるか」


 そこはかつてオレがアーノンに通された客間だった。興奮した団長がサイコロにした扉は綺麗に修理され、今はオレの視界をびしりと阻んでいる。


「いるんだろ。開けてくれ」


 この中に、居る。居たのではなく、今まさに居るのだ。声をかければ必ず聞こえている。夜更かしは引きこもりの習性だからな。


「顔を見たいんだ。開けて欲しい」


「…………………………いやだ」


「なんで」


 返事があった。オレが誰かはわかってるらしい。ガラガラだが弱々しい声で拒絶された。こいつは放っておくとすぐ声を枯らす。


「別に何もしないぞ。話をしにきたわけでもない。ただ本当に顔が見たいだけなんだ」


「…………………………」


 悩んでるのが扉越しにもわかる。


「…………なら尚更いやだ」


 そして再び拒絶された。


「なんでだよ。遠慮なんかしなくていいんだぞ」


「別に遠慮とかじゃないし……。むしろ、おまぇ……江戸川殿が遠慮しろ。美少女の部屋で、ござる」


「前々から思ってたけど、ござる口調ダサいし古いし痛いぞ」


「……え、嘘?」


「いやマジで。いったい何を意識してんだよって話。お前のせいでリュカやリーリは異世界人はみんなそういう口調だと思ったらしいからな。『エドガー様と勇者様は別の国のご出身なんですか?』って聞かれたぞ」


「ウィーアーフロムジャパン」


「恥ずかしいから、そうだよって言っといた」


「……酷い」


「てことで開けろ。言っとくけど、お前が開けないならオレが勝手に開けるからな。五、四、三、二……」


「ちょっ!? ちょっと!! 待って、ダメ!! ホントにダっ!! ボク今っ!!」


 中で物をいくつもひっくり返すような音がしたが、無視する。室内がどういう状態で、扉の向こうの少女がどんな姿なのかは見てきたかのように想像できる。だがまぁ、それを見られたくないと思う女心もわからないではないので、ちょっとだけ顔を拭う時間を与え、ずにオレは扉を開けた。鍵はかかっていたらしいが、扉が開くイメージなんて簡単にもほどがある。


「あ……あぁ!」


「酷いな……。初めて会った日みたいだ」


 カーテンは全て締め切られた真っ暗な部屋。そこには新品のパソコンやテレビなどが無造作に置かれ、お菓子や漫画がいたるところに散らばっている。ただ、そのどれもに使った形跡がない。それはまるで、気を紛らせるために集めてみたが、結局触れる気にならず放置していたかのようだった。そして、そんな散らかっているのか整理されているのか判断に困る部屋の隅に、もぞもぞと動くシーツが丸まっていた。

 オレは扉を閉める。ほとんど何も見えない。集められても何の意味もないガラクタに足を取られながらも、シーツに近づいていく。オレの足音が近くなるたび、シーツはびくびく反応している。やがてオレの手が届く距離にまでなると、しんと動きを止めた。


 きっとこちらに背を向けている。どこが頭なのかは見分けがついたから、そこに手を置いた。一際大きく、飛び上がるようにして震えた。


「よう。しばらくぶりだな」


 そして、シーツを力いっぱいひっぺがした。


「…………っ!!」


 出てきたのは、髪をボサボサにし、瞳の周りを真っ赤に腫れあがらせる少女。涙の筋は跡になって頬にこびりついている。着ている服は、あの日、王国騎士の最後列に座っていた時のままだった。だが、あんなにも美しく煌びやかだった氷の鎧は見る影もないほどくたびれていた。よく見ると、腹の部分に赤黒い色が付着している。


「そんなに泣くな。睨むな。牧村」


「う"、うぅぅ。だ、だってぇ……!!」


 堰を切ったようにボロボロ泣きだした牧村に、オレは笑ってしまった。彼女をこんなにも傷つけてしまったのはオレなのだから、笑ってはいけない。そんなことは重々承知だった。だがそれでも、こんなにも母親を見つけた迷子の子供みたいに泣かれては、笑うしかない。嬉しいと悔しいが混ざり合ったみたいな表情で泣きじゃくる。


「お、女の子のっ……へ、やに。勝手に入って、くるなぁ!! でり、かしー無さすぎっ!! じゅ、準備と、か。用意、とかあるの!」


「言ってるだろ。お前は女の子じゃねぇよ」


「しねぇぇぇ!!」


「泣くな泣くな」


 入ってくるなとか、デリカシーがないとか言いながら、牧村はオレの首に抱きついている。耳元で鼻をすする音が何度も聞こえる。えぐえぐ言いながら、全体重をオレに預けて離さない。


「ごめんな。来るのが遅くなって。辛かっただろうに」


「ほん、とだよぉ!! 怖かったんだからぁぁ……!!」


「あぁ」


「すっごく、すっごくすっごく怖くて……胸が痛くて、胸が苦しくて……!!」


「だよな。ごめん。お前ならそうだよな」


 目の前でたくさんの人が無惨に殺されて、心を開いていた団長が大怪我を負って。そこに自分が飛び込まなくてはいけないかもしれない、飛び込むべきだとわかっていて、それでも動くことができなかった。こいつの性格なら、それをどんなに後悔したか。どれほど罪悪感に潰されそうになったか。こうしてまた一人、暗い部屋に閉じこもって抱え込んでいたのだ。


「ボクが、ボクがちゃんと戦ってたら……!! あんな後ろで座ってなんていなかったら……!!」


 そうじゃない。お前があそこにいたことで、どれだけの騎士が救われたか。ずっと引きこもって、誰とも会わない喋らない生活を続けていたこいつは、死ぬほどの勇気を振り絞った。


「まずは、思いっきり泣いちまえ。気が済むまで、落ち着けるまでずっとこうしてるから。遠慮なんかしなくていいから」


 元々こいつは遠慮なんかしない性格だ。それなのに、どうしてこんなにも抱え込んでしまうのだろう。優しいことが毒になって本人を締め付けるなんて、やっぱり世界は理不尽に塗れている。


「ぶぇぇ……」


「ぶっさいくな泣き方だな。やっぱ女子じゃねぇよ」


「うるさいばかぁ……!!」


「はは」


 結局牧村は朝までぶっ通しで泣き続けた。その間オレはずっと牧村の背中をさすり、頭を撫でていた。そうすると少しだけ牧村が満足そうに息を吐くから、しっかり泣き止むまでそうしていた。すると突然牧村の身体が重くなった。


「寝たのか」


 カーテンの隙間から、ほんの少しだけ朝の光が見える。牧村をベッドに寝かせ、オレは窓から光が入ってこないことをイメージした。くぅくぅという小さな寝息に耳を澄ましながら、ソファに座って息を吐いた。

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