月夜の「奇跡」
夜だった。ケアトルが言うには、オレが馬車から異空間へ移動した時から丸一日が経過しているらしい。
人間界の月は一つだ。魔界のような幻想的な美しさはないが、日本の夜とは違い夜間の灯りが少ないため、とても鮮明に見える。だが、今晩ばかりは月が霞んでいた。夜空に雲がかかっているわけではない。王都中が煌びやかな灯りで満たされていて、月の存在が小さくなっているのだ。道の大小に関係なく赤や黄色やオレンジの提灯のような物がふんだんに飾り付けられて、建物にも同じような色合いの垂れ幕がかかっていた。人々は道の真ん中で酒を飲み、踊り、歓喜の歌を歌っている。
それは、祭りだった。王都全体が大々的に、オレが見たことのないような規模で浮かれて、祝って、喜んでいた。騎士も、商人も、男も女も子供も老人も。今日が人生で一番楽しいかのように笑っていた。
「戦勝を祝ってるのか」
それはそうだろう。人間が初めて魔族に勝ったのだ。今後人間がいなくなるまで語り継がれる伝説の日になるに違いない。そして、その立役者であるクロードの巨大な似顔絵が、王城の城壁にいくつも掲げられていた。
王国騎士万歳。レギオン万歳。クロード万歳。人々の声がどこまでもこだましていた。
「……」
オレは、そんな王都の姿を空の上から見下ろしていた。龍王の右腕の力を確認すると同時に、こうして王都全体を見たかったからだ。祝賀ムード一色の王都は、見ていてとても喜ばしい。国民の不安が吹き飛んでいる。だが、彼らは気づいているのだろうか。わずか半日の戦いで、一割の王国騎士が命を落とし、黎明の騎士団は文字通り全滅し、宮廷魔術師が崩壊したことを。今レギオンはかつてなく弱っており、勝利のために払った犠牲がとてつもないことを、彼らは知っているのだろうか。いや、知らない。きっとあの少年王が意図的に隠している。国民に、一時ばかりの幸福をもたらすために。
「……行こう」
思うところはたくさんあった。こうして自分の目で見て良かったと思う。本当なら実際に王都におりて、彼らと話をしてみたい。だが、今はそれよりも優先したいこと、すべきことがあった。オレは空から城へとおりていく。以前マミンに無理やり空を飛ばされた経験がこんなところで活きた。
王都とは正反対に、王城はしんと静まり返っていた。質素倹約を重んじる少年王も、今宵ばかりは城の灯りを惜しみなく輝かせているが、中の人々の声が聞こえてこない。言ってはなんだが、雰囲気がとても暗く思えた。かつて王女アミナと話をしたテラスにおり立つ。あの時、オレの隣にはクロードがいた。あの気高い眼鏡の騎士は今、どこにいるのだろうか。
明るすぎる城内に入る。だが警備はいない。赤い絨毯は相変わらず清潔で、真ん中を歩くのが躊躇われた。だが、オレの足は一直線に進んでいく。鈍ることはない。絶対にこの先に、あの人がいることがわかっていたからだ。王城の三階を抜けると、少し離れた場所に建物がある。それは病院だ。負傷者を担ぎ込む場所で、この国の最も優れた医者が集結している。誰に教えられなくても、オレが知りたいと思えば知れた。
建物の簡素な扉は、すぐに開くことができるようとても軽かった。だが、一歩足を踏み入れると、重くるしい空気がまとわりついてくる。左右に個室が用意されていて、よく耳をすませば小さな呻き声が聞こえてきた。痛みや苦しみにもがく、男たちの低く垂れていくような声に胸が痛む。これ以上聞いていたくない。オレの決意が歪む前に、彼女の元へ行かなくては。
建物に入って四つ目の個室。他の部屋に比べて僅かだが広い。どの部屋の前にも花束や果物などの見舞いの品が置かれていたが、ここには何もなかった。その理由はオレにはわからない。横にスライドするというこの世界では珍しい扉をゆっくりと開いた。
部屋の奥に大きな窓があった。そこからは夜の優しい風と、祝賀に盛り上がる民衆の歌い声が届いてくる。弱い月明かりが室内にそっと青い光を伸ばしていた。そして、窓際に設置されたベッドの上で、一人の女性が座っている。その人は美しいピンク色の髪を月光にキラキラと輝かせながら、優しい表情で空を見ていた。その横顔は、しゃんと伸びた姿勢は、はっとするほど美しく、世界が息を潜めているような神々しさがあった。
「おや。思わぬ来客だな」
「……団長」
「ふふ。元気そうでなによりだ。しかし、女性の病室にノックもなしに入ってきたのはいただけないな」
暁の騎士団団長、ティナ・クリスティアは、静かにオレに目を向けた。こんな深夜に前触れもなくやって来たオレに、特に驚くことはなかった。
「えぇと……あの、その……」
「まぁ、座るといい。遠慮なくくつろいでくれて構わない。それとも夜這いに来たのか。それなら、私はいつでも準備はできているぞ。ただし、隣室で寝ている者もいる。できるだけ静かにな。男は女性にできるだけ声を出して欲しいかもしれないが堪えてくれ。だが気を落とす必要はない。そのあたりのトレーニングは問題なく積んである。絶妙な塩梅であえいでみせるさ」
「もっと他に言うことあるだろ……」
流石は団長だ。淀みなくふざけたことを言ってみせた。そんないつも通り、というか、オレがよく知っている姿に、少し緊張の糸がほぐれた。おそらく、それは意図的だろう。
「ごめん」
「どうしたんだいきなり。私が初めてだから心配しているのか?」
「黙れ」
普通に怒ってしまった。だって、あまりに団長がいつも通りすぎるのだ。だが、言わねばならない。
「その傷……。全部オレのせいだ。もっと言えば、あの戦争が起こった原因もオレなんだ。謝ってすむことじゃないのはわかってる。自己満足なのも承知だ。それでも、それでも言わせてくれ。本当に、ごめん」
団長は黙って聞いていた。頭を下げるオレにどんな目を向けているのかはわからない。
「何を言うかと思えば……」
そして、とても穏やかな声で答えた。
「この負傷は私の責任だ。私が弱かった結果だ。ましてや戦争の責任がダーリンにあるなど、ありえない」
「いや、でも」
「命を背負うことを、あまり軽く考えないでくれ」
優しい声だったが、毅然とした誇り高さと、きりきりとした無念さが滲み出ていた。
「たくさんの騎士が死んだ。消えていった。彼らは彼らの人生を終え、家族や友人に悲しみを届けてしまった。だが、それだけじゃない。彼らの誇りは、決意は、希望は、もっと温かく清廉なものを、この世界に残してくれたのだ。その全ては、彼ら自身のものであり、他の誰のものでもない。それを背負うことが、どれほど苦しく、そして烏滸がましいかを、もっとよく考えてくれ」
「……」
「そんなことは、私のような図太い人間に任せておけばいい。ダーリンには、他にできることやすべきことがあるはずだ」
相変わらず、この人は急に騎士になる。オレが今まで出会ってきた人の中で、誰よりも気高く凛とした女性に様変わりする。そして、これから先、これほどまでに誇り高い人間に出会うことは二度とないだろう。
オレは顔を上げた。この部屋に入ってからずっと見ないように逃げていた目を、覚悟を決めて一点に向ける。団長の美しい髪ではなく、慈愛の目元ではなく、彼女の身体へと。その両腕へと。
「……っ!!」
団長の右腕は、肘から先がなかった。左腕は肩口から消失している。
わかってはいた。知ってはいた。それでも足りなかった覚悟をやっと振り絞ったつもりだった。だが、そんなものは脆い木屑のように崩れてしまいそうになる。
「そうマジマジと見ないでくれ。照れるではないか」
「そ、そういうこと……言うな。お願いだから」
「なら何と言えばいい? それに大丈夫だ。勇者殿のおかげで命は繋がった。普通なら間違いなく死んでいたのだ。それだけでも運が良かった」
「良いわけ、ないだろう……!!」
「……そうだな」
泣きそうになるオレを見て、団長が苦笑した。そして右肘を上げようとして、止まった。おそらく、手を顎に当てて考え事をしようとしたのだ。
「まぁ、不便ではある。私は細かい魔法は得意ではないからな。食事は誰かに食べさせてもらわなければならないし、何より手淫ができない」
「は? いや、あのえっと……おい」
「これは本当に大変な問題なのだぞ。生命の危機に本能が昂ぶってしまったらしく、どうしようもなくムラムラするのだ。しかし、それを発散させることができない。仕方ないからアーノンに頼んだのだが、無言で殴られてしまった。それ以来あやつは見舞いにこない。薄情な部下だ」
「真面目に言ってるらしいのが一番驚き、いやむしろ怖ぇよ」
呆れていい場面なのかすらわからないでいると、団長は小さくこぼした。
「もう、剣も持てない」
利き腕であった右肘を見つめている。瞳には深い影があった。その一言には、団長の無念と恐怖、そして不安がいっぱいに溜め込まれていた。溢れて落ちてしまいそうなほどの感情が、あんなにも。
「なぁ、ダーリン」
団長は窓の月を見上げる。
「黎明の騎士団は、全滅した。宮廷魔術師は壊滅し、暁の騎士団も機能をほぼ失っている。残された曙の騎士団すら、戦前の七割程度の力しか持っていない」
「……うん」
「もう、レギオンに戦う力は残されていないんだ。十年、二十年は経たなければ、王国騎士は元には戻らない。それまで魔族が待ってくれるとも限らない。それどころか、低級魔族への対処すらままならないだろう。だから」
団長はオレへと振り返った。この人が悲しそうな顔をしているのを、初めて見た。まるで道を見失った少女のように瞳を潤ませて、そして無理やり微笑んでみせた。
「この国を、守ってはくれないだろうか。私の大切な人々や、土地や、建物や、空が、ここにはあるんだ。もう使い物にならない私に代わって……くれないか」
「……っ!」
「勝手な頼みだとはわかってる。情けないのも自覚している。だがそれでも、もう誰かに託すしかないんだ」
細く消えていきそうな声は震えていた。月の光を背負う団長が光の当たったチョークの粉のように輝く。
「ダメだ」
オレは一言で跳ねのけた。その臆病な返答に、団長は残念そうにすることはなかった。ただ寂しげに笑っている。
「そうか」
声を荒げて文句を言ってもいいはずだ。怒りに任せて詰ってもいいはずだ。だが、団長はそうはせず、聞き分けよく顎を引いた。口元を苦笑に歪めながら、自分の欠けた手を見つめる。
団長の前に跪いた。
「オレは、できない。しちゃいけない事実もあるけど、それ以上に、勇気がないんだ。国を背負うような強さを持っているような人間じゃないんだ」
「そんなことは」
「だから」
オレは団長の両手を握った。どうしてこんなにもすらりとしているのか不思議な手を、醜いトカゲの腕で包み込んだ。団長の手を。まるで初めからそこにあったかのように、団長の手が現れていた。
「……え」
「これは、オレのズルだ。ただの我儘の結果でしかない。でも、それでも、団長には、こうあって欲しい」
「こ、れは……。な、な、どう、いう……」
「やっと、自分の力がわかったんだ。本当は、一個人が持ってたり、ましてや使ったりしちゃいけないほどの力なんだけど、オレは使いたい。団長のためじゃない。オレ自身のために」
「こ、れを。エドガー殿がやったのか……?」
「そうだ」
目を限界まで開く団長は、ふざけることを忘れて呟く。オレの手の温もりが団長の手へと。団長の手の熱が、彼女の身体へと流れこんでいく。当たり前にあるはずだったその感覚は、団長の元へ「奇跡的」に戻っていた。
「オレじゃ、ダメなんだ。オレのことなんか、この国の誰も認めてくれない。求められていない。だから、この国の先頭に立つのは団長じゃないとダメなんだ。この国で生まれ、育ち、戦ってきたあなたじゃないと、人々の心を守れないんだ」
こんなのは不公平だ。戦争で怪我をした人はたくさんいる。命を落とした人はたくさんいる。それなのに、団長だけが、こんな「奇跡」を許されていいわけがない。オレ一人の我儘や自己満足、逃避で身体を取り戻してはいけないんだ。でも!
「オレからのお願いだ。誰かに託したりしないでくれ。最後まで、あなたがこの国の希望でいてくれ」
夜の病室で起こった「奇跡」。オレが起こした。オレの言葉をはっきりと聞こえていないであろう団長は、少しずつ握力を強めていき、そして細く輝く涙を一筋こぼした。




