廃都サタニキア
魔王都サタニキアとは、魔界のほぼ中央に位置する廃都だそうだ。かつて魔王サタニキアが魔界を支配していた時の実質的な中心都市。六大魔王という形の分割支配がされた現状において、どの魔王の領地にもなっていない場所であり唯一の非戦闘地域。
「そこでは過去三回の魔王会議が開かれています。そのどれもが人間から仕掛けられた戦争をどう迎え撃つかという議題でした」
晴れ晴れとした空の下、パトリシアが洗濯物を紐に干していく。その中にはリュカの服一式とベッド用品のほぼ全てが含まれている。
「それにしても、本当に心配です。リュカお嬢様は大丈夫なのでしょうか……」
「うーん。大丈夫じゃないと思う」
マミンから王国の宣戦布告を聞かされたその日の夕刻、屋敷に正式な宣戦布告の書状が届いた。リュカが読むことを拒んだため、オレとパトリシアで抑えつけ、リーリが音読するはめになった。まぁ、内容は宣戦布告と言うには厳か過ぎる堅苦しいものだった。別に煽ったりしてきていない。むしろ、これから戦いに行きますので、よろしければ是非お相手して下さいね、的な感じだった。魔界と人間界のパワーバラスの歪がひしひしと伝わってくる。
だが、あの少年王の手書きであろうその書状の文字は、力強い覚悟が滲み出ていて、彼らの本気度が痛いほどわかった。必死なんてレベルではない。生き残るために決死の戦いを挑んでいる。
「さぁ。とりあえずは全て綺麗になりました。このお天気ですから、お昼には乾いてくれますね」
「だな」
洗濯物の中にリュカの衣服が多いのは、昨日からずっとリュカが嘔吐しっぱなしだからだ。極度のストレスやプレッシャーによるものなのだろうが、最終的には胃の中のもの全てを吐き出してしまって、胃液で喉を焼いてしまっていた。
「あの、エドガーさまはリュカお嬢様のおそばにおられなくてよろしいのですか?」
「いや、今はリーリに身体拭いてもらってるんだ。汗も凄いから」
「そうですか……。明日は転移魔法で魔王都サタニキアまで行かなくてはいけませんよね。なんとかお嬢様は欠席ということにはならないのでしょうか?」
「……」
多分、ならない。しかし、おそらくだが欠席すること自体は構わないのだろう。ただ、魔王アスモディアラを失ったことに端を発する戦争だ。だと言うのにその対応について話し合う会議に参加しないとなると、リュカやこの領地の立場は更に悪くなる。もうご自由に切り取って下さいと言っているようなものだ。その矛先がこの屋敷に向かない訳もない。リュカはリュカのために、這ってでも会議に出る必要があるのだろう。それを分かっているからこそ、リュカはあんな風になっている。
「なぁ、パティ。パティは怖くないのか。戦争が始まるんだぞ」
洗濯物のシワを伸ばしているパトリシアに投げかける。戦争なんて、オレには重過ぎるし、どこか遠過ぎる言葉だったが、彼女はどう思っているのか。
パトリシアは苦しげに眉根を寄せながら虚空を見つめる。洗濯物の端を掴んだまま、数瞬停止していた。
「正直、怖いとかは思いません」
「そうなのか」
「はい。戦争はともかく、魔王勢力同士の抗争は日常的に起こってます。アスモディアラ様の領地は比較的安全でしたが、境界での小競り合いなんて当たり前でした。そのままオーガ族の集落に攻め込まれれば、私達なんてひとたまりもありませんし」
パトリシアのオーガ族は闘うための力をほとんど持っていない。強い魔族に寄生して生活をしてはいるが、彼女たちの集落が襲われたからと言って寄生先の魔族が助けてくれるとも限らない。攻め込まれた時点で終わりなのだ。
「ですが、今回は人間との戦争です。どの魔王勢力が戦うことになるかはわかりませんが、負けることは万が一にもありませんので、ちょっと人ごとな気がしてしまって……。いけませんよね。リュカお嬢様が大変な思いをされているのに」
「そんなに、パトリシアの目から見ても戦力差があるのか。今この領地にはアスモディアラはいないわけだが、それでも勝てるものなのか?」
人間の軍と、魔王アスモディアラを欠くアスモディアラ軍が戦う。アヤさんだって参戦してくれるかは微妙だ。そんな言ってしまえば飛車角落ちの状態でも同じことが言えるのか。
「はい。も、もちろん団長さんや勇者さまもいらっしゃいますが、おそらくは……」
「マジかよ」
パトリシアは牧村の実力を知らない。ただ食っちゃ寝するだけが取り柄の堕落した人間だと思っているはずだ。実際はポンコツ女神からあらゆるチートを授けられたスーパー勇者で、魔王相手でも互角以上で闘える。だが。
「あいつ、戦争とか魔王とか興味ないって言ってたからな……」
あれは本気の目だった。それにあいつはメンタルの強い部分と弱い部分の硬度差が激しい。戦争なんていう異次元的な世界に耐性があるとは思えない。王国で貴族がベルゼヴィードに惨殺されていたのを見てしばらく寝込んでいた点を鑑みても、それは間違いない。そもそも、平和な日本の、もっと狭い一部屋に引きこもっていたあいつに何が出来る? 出来たとして、それを期待することが間違いだ。
本当に、何故戦争なんか仕掛けなくちゃいけないんだよ。いや、理屈は分かる。理由も知ってる。だがそれでも、それでも。こんな世界はやっぱりおかしいと思ってしまう。
「どうして、魔族と人間は争うんだろうな」
仲良くしている者達も確かにいたじゃないか。人間の王国で暮らしていたエルフだっていた。
「魔族と人間は、それぞれを害しあっていますから」
「ん?」
パトリシアの声が急に低くなった。
「人間が魔族を家畜として扱っていたことがあります。その逆も。互いが互いの尊厳と意思を奪い合い、その連鎖がいつまでも続いているんです」
「……」
「私達オーガ族は一時期人間の奴隷でした。犯され、嬲られ、虐げられた。そんな人間の惨虐極まりない行為を私達は伝えられて育っています。そんな経験をしたことのない私ですら、彼らは恐ろしい」
そんな経験とやらがどんなものだったかは、わからない。いや、だいたいは想像出来る。奴隷という存在がどんな形で扱われていたかは教科書で学んでいる。だが、彼らがどんな苦しみと怒りを感じたのかまでは、想像出来ない。したくない。そんな猛毒を、自分の身体の中に流し込むことを拒む。
「だから、人間との戦争ならば、コテンパンにやっつけて欲しいとは、少し思います」
「それは……」
「私のひいおじい様を殺し、ひいおばあ様を弄んだ人間たちなんか、みんな死んでしまえば良いって思います」
「パティ」
「友達のユーリンを攫った人間の男達なんか皆殺しにされれば良いんです。ボロボロの雑巾よりも醜くなった彼女を笑って蹴り付けていたあいつらなんて、もっと酷い目に遭えば良いんです」
「パティ」
「そうです。人間なんて、どいつもこいつも不埒で汚濁で醜悪で、だからみんなみんな……!」
「パトリシア!!」
無理矢理抱き締めていた。目を見開いて、瞬き一つせずに涙を流すパトリシアを、何とか身体の中に引き込んでいた。
「ごめん……ごめんな……!」
「う……」
軽くて軽くて、オレの胸の中に収まるパトリシアの心音が、どうしようもなく息苦しかった。パトリシアの心の内を何一つ知らなかった自分が、痛い。
「もう。大丈夫だから。大丈夫だから」
パトリシアは、団長や牧村がこの屋敷で暮らしていたあの時間をどう思っていたのか。考えもしなかった。リーリも、アヤさんも、どんな思いで暮らしていたのか。みんなみんな、オレの幼稚な平和主義に付き合ってくれて、心の奥に闇を押し込めて、それでも笑ってくれていた。そんなことを何一つ気づいていなかった。
「もう、言わなくて良い」
苦しい心を吐露することで、落ち着けることもあるだろう。抱えこむことで膝をついてしまうこともあるだろう。だが、今のパトリシアは、一つ言葉を口にする毎に、自らを傷つけている気がした。
「エドガー様は、人間ですよね」
「あぁ」
「でも私は最初、その右腕を見て、エドガー様も魔族なのだと思っていました。後から人間だとリーリさんに聞かされて驚いてしまったんですよ」
「そうなのか」
知らなかった。だとしたら、オレの右腕は少しだけ役に立ったことになる。
「エドガー様のおかげで、人間にも素敵な人がいるってわかりました。だから、団長さんや勇者さまとも普通に接することが出来ました」
「そう、か」
「はい。だからきっと」
オレの腕の中。パトリシアはその顔を上げてオレの目を見てくれる。その碧眼があまりにも美しく、全身に鳥肌が立った。次の言葉が聞きたくて待ち侘びる。
「だからきっと、いつか……」
「どりぁあ!!」
「ぐぉ!?!?」
尾骶骨がバリ、という嫌な音を立てて軋む。背後からの突然過ぎる強襲に、オレの脊椎が悲鳴をあげた。
「な、に、を!! やっているんですかぁ!!」
「り、リュカ!? ま、待て! 落ち着け!!」
「落ち着いていますとも! さぁそれが遺言ですね!?」
「全っ然落ち着いてねぇ!! 冷静って単語を辞書で調べてくれよ!」
「私の辞書に冷静なんて言葉はありません!! また浮気なんて言葉は以ての外です!!」
次々と繰り出されるリュカパンチは一撃一撃が必殺の威力だ。まぁその小さな身体のどこにそんな重さがあるのかと感心するほどの重量感。
「ち、違うんだ! ちょっとパティを抱き締めていただけなんだ! 腰の細さに興奮してりしてにゃい!」
「噛み噛みですよ! 永島キャスターですかあなたは!」
「な、永島キャスターとかメタいこと言うな!!」
リュカにマウントを取られた状態で弁明をするが、何を言っても聞き入れてもらえない。ダメた。ここ何日かでめちゃくちゃストレス溜まってるから、怒り方がいつも以上にヒステリックだ。ダメだ。この様子だとあと一時間はボコられないと止まらない。
「ぱ、パティ、助けてくれ!」
即座に避難したパトリシアに助けを求める。しかし、
「ふふ。はは。あはは!」
「パティ!?」
パトリシアは腹を抱えて笑っている。いつも人好きのする笑顔で笑っている彼女だが、声を出して笑っているのを初めて見た。目尻に涙をためて、必死で笑いを抑えている。
「ははは! お二人とも元気そうで良かったです!」
「いや、リュカ元気過ぎるから! 助けて!」
「も、もう! パティちゃんばっかり! 話をしているのは私ですよ!」
その後も、怒っているのか拗ねているのかわからないリュカのパンチを食らい続けることになった。パトリシアの笑顔が真実のものだとはわかったから、ひとまずは良かったと思う。




