二人だけの場所
気がつくとアスモディアラは、深い森の中に立っていた。生い茂る大木は太陽の光を全て遮り、辺りは夜かと思うほど薄暗い。だが、しんと静まった気配と空気から、今が昼だと言うことを肌で感じ取れた。
不思議と、違和感はなかった。自分がここにいることが、当然のような気がしている。奇跡だとは思わない。だからと言って、当たり前のことではないとも理解していた。
目の前に、一本の道があった。何度も踏み固められた草木は綺麗に跡を残しており、行くべき場所への導となってくれている。
「……」
何も言わずに歩き出した。実際のところ、こんな道しるべは必要ない。幾度となく歩いた道だ。いったい何歩歩けば辿り着けるかすら覚えている。
歩いたのは約十二分。歩数にして二千五百四十八歩。目的地に、いや、終着点に到着した。
そこは、草木の生えていないスペースになっていた。そして、正面に生えている樹は、他の大木とも比べ物にもならないほどの大きさだった。幹は全てコケやツタで覆われ、翠色に輝いている。そして、その巨樹の足元に、小さな石版が立っていた。薄い青色に輝く石版は、煌めく陽光に照らされており、ダイヤモンドダストのような美しさを放っている。そう。この場所、この石版の位置にだけ、暗闇から抜け出して光を浴びていた。
「ふぅ」
アスモディアラは、石版の前に胡座をかいて座った。少しばかり腰が痛む。ここ数年で鈍い腰痛を発症していた。
「負けたよ。レベッカ」
優しい声で、石版に語りかける。
「情け無いが、私は負けた。沢山の仲間に手を貸してもらったが、結局は私などその程度だった」
石版の前には、白い花束が添えられていた。これは、アスモディアラがベルゼヴィードとの決闘の前日に供えたものだった。花はまだ萎れておらず、花弁は元気良く甘い香りを放っている。すると、
「あらあら」
アスモディアラの背後から、穏やかな声が響いた。
「旦那さま。負けてしまったのですか? ダメなお方」
それは、真っ白なワンピースを着た美しい魔族だった。銀河のような髪に、朱と蒼の瞳。天使と名乗るならば、それはきっとこの魔族にしか許されないだろうと思われるような美貌。
「あぁ、すまない」
「ちっともすまなそうじゃないです。旦那さまはいつもそうです」
振り返らないアスモディアラの隣に、魔族が腰掛けた。
「マナーはなってないし、仕事は遅いし、家事は出来ない。おまけにすぅぐ浮気します」
「待て待て。私は一度だって浮気をしたことはないぞ」
「嘘ばっかり。アヤさんと少し微妙な関係だったのを知ってますよ。私の目は誤魔化せません」
「……」
「あ! 黙りましたね! やっぱりそうなんですか!」
「あ! 汚いぞ! は、嵌めたな!」
魔族はアスモディアラの頭をポカポカと叩く。彼は自分に非があるとわかっているので、されるがままになっていた。しかし、
「く、ふふ」
「はは」
二人は静かに吹き出した。風にくすぐられたような楽しげな笑い声が樹海に響く。
「なぁ」
「はい。どうされました?」
アスモディアラは、魔族の肩をそっと抱いて、引き寄せた。
「私は、なんと幸せだっただろうか」
思い返す。始めは何もかも間違っていた。だが、友と出会い、王と出会い、師と出会い、そして、妻と出会った。幸福を心にいっぱい降り積もらせて貯めて貯めて。荒れた世界に住まう魔族とは思えないほど、幸せな時代を生きてきた。
「はい。私も幸せでしたよ」
「そうか。ならば、私も嬉しい」
「ですが、少しだけ心配なこともあります」
「なんだ?」
魔族は瞳を潤ませて、アスモディアラを見上げる。その手は胸を抑えていて。
「リュカちゃんのことです。アヤさんもマミンもいますし、リーリちゃんもいてくれます。きっと大丈夫だとは思うのですが、やはり側にいてあげられないことがもどかしくて」
「なんだ、そんなことか。気にしなくて良い。あの娘は優しい。皆を大事にすることの大切さをよくわかっている。それはきっとあの娘の幸福を支えてくれる。それに」
「それに?」
「もう嫁に行った娘だ。心配する方がおかしい」
「あら。そんなの聞いてませんよ。お相手はどんな方なのですか?」
アスモディアラは、あの青年の顔を思い出していた。
「弱い青年だよ。平和に染まっていて、刺激に疎くて、この世界のことを何もわかっていない。きっと彼は、この世界を生きることに向いていない」
「全然ダメじゃないですか。困りましたね」
「いいや。それが意外とダメではないのだ。あの青年は弱いが、だからこそ他者の愛を渇望するところがある。きっとよほど孤独に生きてきたのだろう。それが、誰にでも愛を振りまくリュカと、この上なく相性が良い。きっと彼は、リュカをこの世界じゃないどこかに連れて行ってくれるはずだ」
魔族は、黙って聞いていた。その青年とやらに会ったことはないが、アスモディアラの見る目が間違っているはずがない。ならば、いつものように彼を信じていれば良い。それが娘に手渡せる最上の愛だと信じて。
全体重を、アスモディアラに預けた。彼の体温を感じたの一体いつぶりか。湧き上がる心地よさに身を委ねる。手と手をゆっくりと重ねて、安らかに目を瞑った。
「では、そろそろ行きましょうか」
「あぁ」
「向こうに行ったら、浮気は許しませんよ?」
「心する」
アスモディアラは、魔族の顎を持ち上げて、その二色の瞳を見つめた。彼女のおでこには、三つ目族の証である三つ目の瞳はない。いつかの義父との決闘の時から借り受けていたからだ。
それを、今返す。触れるだけのキスを、おでこに落とした。
「ふふ。お髭がくすぐったいです」
「これから何度でもその感覚を味わってもらうぞ」
「ええ。仕方ありません。では」
魔族の腕が、アスモディアラの首に回される。彼らの顔が近づき、互いの唇が触れ合う直前。
彼らは消えた。
残像すら残すことなく。墓標に降り注いでいた陽光が途切れ、空間が、世界が闇に染まった。
誰も知らないこの場所は、誰にも見つからない二人だけの場所。例え闇の中に埋もれてしまっても、駆け抜けた時代と、刻まれた幸福が色褪せることは、ない。




