リュカ
魔王がベルゼヴィードの資料を持っているだけならば、そこまで驚くことではない。あれは領民の平和を脅かす凶悪な魔王だ。何かしらの対策を探るためにも、情報を集めているに越したことはない。
だが、この資料の山はあまりに異常だ。遡ると数ヶ月前から集められているが、どれだけの時間と労力を要したか想像すら出来ない量だ。ただの対策だとは思えない。
「……」
そして資料には、他の魔王の領地にベルゼヴィードが出現した際の情報まで記載されている。これはアスモディアラ一人では絶対に不可能なことだ。おそらく、他の魔王達も協力して情報を集めている。
ここで、リーリの中である予感が生まれた。それはほとんど確信と言って良い、予感。持てるだけの資料を抱えて、食堂へと急ぎ駆け出した。
「マミン様!」
乱暴に開けた扉の向こうでは、アヤさんとマミンが優雅に酒を飲んでいる。それはいつもの光景だが、この時ばかりは何故かおかしな空気を漂わせているように思えた。
「あら? どうかしたかしら?」
「こ、これは!」
資料の束を叩きつけるように食卓に広げた。そこにはスライム族に関する考察が書かれている。
「あれ、どこからそれを?」
「隠してるはずだったけど」
「どう言うことですか! もしやこれは!」
マミンとアヤさんは、少し驚いただけで、大きく態度を変えることはしない。やはり、二人は知っている。使用人であるリーリでは、本来魔王を問いただす権利などないが、それでも声を上げずにはいられなかった。
「最後の最後に魔王ちゃん迂闊やわぁ」
「本当にね。まぁ昔から詰めの甘い男だったけど」
「最後の最後って……」
アスモディアラは、今この屋敷にいない。数時間前、転移魔法でどこかへ行ってしまった。その行き先は、一つしか考えられない。
「ま、もうバレとるみたいやし、正直に言うと、魔王ちゃん、今ベルゼヴィードと決闘中やから」
「けっ、とう……」
リーリの頭が真っ白になった。何の気なしに言われたその言葉の重さは、彼女の凝固させるには充分だった。そして、
「な……」
廊下の向こうでは、風呂から上がった竜士が、牧村と二人で立ち尽くしていた。
魔王の屋敷では、終わりが見えない議論が続いていた。彼らの前に並べられた酒は底をつきかけている。
「だから何度も言っているだろう。我ら夫婦の問題に口を出すな!」
「いいえ! 今回ばかりは出させてもらうわ!」
「何が不満なのだ!」
「何もかもよ!」
言い争っているのはマミンとアスモディアラだ。かれこれ五時間、二人は空気が燃えるような舌戦を続けている。
「娘の名前はリュカにする! これはもう決まったことだ!」
「勝手に決めるな! アイシャにするって言ってたでしょ!」
「おーよちよち。大人は怖いねぇ。赤ん坊の前で喧嘩なんかするもんやないよねぇ。はい良い子良い子。一緒にお酒でも飲もか」
「何をやっているのだアヤ!!」
「赤ちゃんに酒を飲まそうとするな!!」
赤ん坊をあやしながら酒杯を傾けるアヤは、それをその子に飲ませようとする。魔界に飲酒の規定などはないが、それでも常識的にあり得ないことだ。だが、酔っ払っているアヤはその辺りがボケてしまっているようだった。
「だってこの子全然泣かんもん。面白ないやん?」
「ええい、リュカを返せ!」
「アイシャでしょ!」
どう考えても子供の教育によろしくないアヤから、アスモディアラが娘をひったくる。マミンと言い争っている間預かってもらっていたのだが、もう二度とアヤに我が子は任せられない。
「何がアイシャか! グレンハルト殿の名付けに不満があるのか!」
「大アリよ! いきなり文だけ寄越すようなハゲジジイに何で名前をつけさせるのよ!」
「グレンハルト殿がつけたのではない! 私が選んだのだ!」
「姉さんはアイシャが良いって言ってたし、あんたもそのつもりだったでしょ!」
名前である。世界に生を受けた者に与えられる最初のプレゼント。親が、兄弟が、祖父母が、その子の幸せを願い、考えに考え抜いて贈るのが名前だ。大事な大事な、もしかすれば、生まれてから死ぬまでで最も重要なプレゼントかもしれない。
だからこそ、アスモディアラとマミンは互いに声を荒げていた。先程、襲撃かと思うような方法で届けられた文には、グレンハルト直筆の孫娘の名前が記されていた。「命名」とあった点から見て、この「リュカ」という名前は彼が考えたものだろう。そして、それを強引に贈ってきたのだ。
「我が師であり義父であるグレンハルト殿からいただいた名前だ! 絶対にこれにする!」
「何処にいるとも知れない放蕩ジジイの言うことに従う必要なんかないでしょ!」
「従っているのではない! 私もこの名前に大いに賛成しているのだ!」
アスモディアラは我が子を庇うようにして胸に抱く。彼の巨体だと、手のひらだけで娘を覆い尽くせた。
その様子が気に入らないのはマミンだ。大事な姉の初めての娘だ。それをこんな馬鹿親と馬鹿爺いに良いようにされるなど我慢出来ない。
「だいたい! 姉さんは何て言ってるのよ!」
「私に任せると言ってくれた!」
「っ!!」
姉であるレベッカが状況を静観するに留めているならば、妹のマミンが出しゃばることではない。しかし、それは平時においての話だ。レベッカは今、産後すぐで心身が弱っている。娘をお披露目には来たが、あとのことをアスモディアラに任せて自室に戻って行った。こんな状態で勝手に話を進められたら、後々遺恨が残るに決まっている。それを防ぐためにマミンは意見しているのだ。
「レベッカ寝たわよ……ってまだ喧嘩してんの?」
「せや」
「子供の前で大人気ないわね。にしても、あの子全然泣かないのね」
「そうなんよ。大人しいにして良え子やね」
「それじゃ魔界は渡っていけないけど。まあ良いわ。私の知ったことじゃないし。にしても、あれじゃいくらんでもみっともないわ。いい加減にさせないと」
親類が激しく口論しているというのは、小さな子供にとって悪影響しか及ぼさない。まだまだ弱々しい子供のストレスになってしまうし、何を置いてもまず見苦しい。
しかし、そんな状況でもいつもと変わらず酒を飲んでいるだけのアヤは、どう考えても役には立たない。仕方なくレヴィアは、口論をやめない二人の間に入る。
「ちょっと。あなた達。興奮し過ぎよ。子供が怖がっちゃうわよ」
「しかしレヴィア!」
「このあんぽんたんが!」
「はいはい。ほら、あんぽんたん。とりあえずその子を私に預けなさい。あんたが抱えてたら不安だわ」
「むぅ」
アスモディアラも不満そうではあるが、レヴィアに理があると判断した。素直に娘を手渡した。
「それで? 名前をリュカにするかアイシャにするかってことよね?」
「リュカだ!」
「アイシャよ!」
「あーはいはい。えっと、始めはアイシャにする予定だったんでしょ?」
「そうだ」
レベッカとアスモディアラが二月以上頭を悩ませて決めた名前がアイシャだ。まだ公表はしていないかったが、一部の親しい魔族にはもう伝わっていた。
「でも、さっき剣聖がいきなり名付け親に立候補してきた、と」
「立候補なんてものじゃないわよ!」
普段は知性的なマミンからは考えられない激怒っぷりだ。この状態の彼女を納得させられる材料となると、そう簡単には思いつかない。しかし、加熱していく二人とは対照的に、レヴィアは冷静だった。実は彼女は六人姉妹の長女で、こういう興奮だけで展開されている喧嘩は慣れっこだった。当然対処法も心得ている。
「ま、言い分をちゃんと聞いてから反対しなさいな。それじゃあアスモディアラ。あんたは何で急に名前を変えようと思ったの? アイシャってのは一生懸命考えた名前なんでしょ?」
娘の顎を自身の肩にのせ、その背中を規則的に叩いているレヴィアは、かなり堂に入っている。幼い妹達の面倒を見てきた彼女は、すでに娘の呼吸のタイミングを掴んでいた。
「もちろんちゃんと理由はある。グレンハルト殿が名付け親になってくださると言うことは、私とレベッカの結婚を認めてくれたと言うことだ」
「そんなあんたの都合なんて……!」
またマミンが沸騰しかけるが、
「まぁ聞いてやってや」
アヤがおさめる。二人のやりとりを横目で見ていたアスモディアラは、また話し始める。
「そして、リュカという名前の持つ効果だ。この名前ならば、魔界人間界のどちらにおいても、一瞬で『剣聖』の影が見えてくる。グレンハルト殿が健在の限り、娘に手を出そうとする輩は極端に減る」
アスモディアラの言い分に、アヤとレヴィアは素直に感心した。勢いだけで主張しているのかと思いきや、意外と考えている。
「私も当然全力で娘を守る。だが、新興魔王と剣聖のどちらが抑止力となるかなど語るべくもない」
その通りだ。事実、昼間の一瞬の攻防では、マミン、レヴィア、アヤの三人でさえ対処し切れなかった。それだけの力を、まだグレンハルトは残している。彼ほど頼りになる男は、サタニキアをおいて他にないだろう。
ゆっくりと語るアスモディアラが、健やかに眠る我が子を見守る。
「何より、その子の瞳。苛烈な朱と、奥ゆかしき蒼。神剣リュカそのものだ。きっとその子は、神代より伝わるリュカ石のように、大切に大切に、皆に愛されて育ってくれる。いや、育って欲しい。だからリュカと名付けたいのだ」
瞳の色は、生まれてこなければわからない。アイシャと言う名前だって、悩みに悩んで見つけた。だが、娘を一目見た時から、何かを感じていたのだ。その何かは、グレンハルトによって気づかされた。
アスモディアラの言葉は、娘を想う愛に溢れていた。奪い合い殺し合う魔界の中で、たくさんの者に愛されながら育って欲しい。それこそが、アスモディアラが娘に託したいことだったのだ。
「……って言ってるけど、マミンはどうなの?」
「私は、そいつがハゲの威光に目が眩んでいるのかと思ってた。どうやらそうじゃない見たいだし……」
すると、食堂の扉が弱々しく開かれた。
「だから言ったでしょう? 旦那さまにお任せするって」
嬉しげに涙するレベッカは、崩れ落ちそうになる身体を必死に扉によりかけていた。それでも懸命に歩き、レヴィアから娘を、いや、
「生まれてきてくれて、ありがとう。私の可愛い可愛いリュカちゃん」
リュカを抱きしめた。




