火蓋
結果から言うと、マミンの薬水の効果は本物だった。二度目の身体能力測定では、竜士の記録は三倍近くにまで跳ね上がった。単純に体力が三倍になるということは、かなり衝撃的だ。ただ、一つ弊害として、薬水の効果が切れると、身体に大きなリバウンドがくることが発見された。竜士は鍛えている若者だったから全身の筋肉痛と気だるさくらいで済んだが、これが老人や子供だと最悪死に至る可能性もある。現状この薬水はハイリスクハイリターンだと言えた。騎士への投入は充分考えられるが、一般市民へとなるとかなり不安が生じる。人間全体の身体能力向上は難しいというのが、マミンと団長が話し合って出た結論だった。
「まだ改良の余地がかなりあるわね。量産化はもう少し先になりそう」
「だが、かなり期待出来る薬であることは変わりない。必要とあらば、我が王国の魔法使いや医師を派遣するが?」
「結構よ。それで実験成果持ち逃げされたくないしね」
「おや、バレていたか」
マミンと団長は楽しそうに雑談している。その様子を、竜士は恨めしげな視線で見やっていた。
「エドガーさま、こちらお疲れの身体によく効くお茶です。どうぞ」
「あ、ありがとう。痛っ」
ベッドに倒れている竜士に、リュカが甲斐甲斐しく世話を焼く。実験のリバウンドで全身筋肉痛になってしまって、立つことすらままならないのだ。実験終了から一夜明けたが、まだ身体が楽にならない。
「普段からちゃんと鍛えていないからそうなるのだ。ほら、突撃豚の肉詰めピーマンだ。精がつくぞ」
「お風呂の際は私をお呼び下さいね。お世話させていただきます」
リーリが運んできた肉料理を竜士の口元にフォークで持っていき、パトリシアがもじもじしながら笑顔になる。竜士は、周りから見れば胸焼けしそうなほど女性陣から甘やかされていた。
「ずるいでござる! 江戸川殿ばっかり! 我が輩も甘やかして欲しい!」
勇者がハンカチを噛んで悔しがる。だが、自分に対して甘々な勇者を甘やかしてくれる者などそういない。ニートが加速するだけだからだ。勇者がこの屋敷にやって来た当初は、もう少し皆から畏敬のこもった扱いを受けていたが、今はすっかり非生産者として適当に扱われている。パトリシアでさえ、もう勇者を朝起こしに行かなくなった。時間の無駄だとわかったからだ。
竜士の部屋では、いつものような騒がしい日常が繰り広げられている。本来なら非日常だが、当たり前になってしまった。立場が異なり、力関係も様々な面々が、楽しく和気藹々と暮らしている。世界の情勢から見ればあり得ない光景が、そこには確かに存在した。
だが、その部屋とは別の、魔王の執務室では、少し雰囲気が違っていた。昼間だと言うのに、カーテンは閉め切り、明かり一つ灯していない。部屋の中は真っ暗だ。
そこの中央にある魔王専用の巨大な机を前にする魔王と、その机に腰掛けるアヤさん。二人は、むっつりと黙りこくったままちびりちびりと酒を飲んでいた。これは、二人の思い出の酒だった。
「行くん?」
「あぁ。頃合いだろう」
アヤさんは、魔王へ視線はむけず、グラスの水面に映る自分を見つめていた。
「もう、大丈夫だろう。若者の時代が来たのだ」
グラスの酒を回す魔王は、少し寂しそうで、そして嬉しそうだった。
「ま。うちは止めんよ。けど、ほんまに誰にも言わんで良えの?」
「良い。全部終わったら、アヤから皆に伝えてくれ」
「そこは帰ってきて自分で伝えや」
アヤさんは、困ったように笑う。いつも余裕たっぷりの彼女には珍しい表情だった。魔王は顔を上げ、アヤさんの横顔を真っ直ぐに見つめた。
「後のことは全てルシアルに任せてある。だが、気が向いたらで構わない。屋敷の者たちを気にかけてやってくれ」
「やから。帰ってきたら良えやん。そんなん頼むことやないよ」
「いや。お前にしか頼めんのだ」
アヤさんは、魔王の目を見ようとしない。何度も何度も、魔王が帰ってくるべきだと主張する。しかし、魔王からは確かな返事が返ってこない。彼がいなくなること前提に、話が続いていく。そして、アヤさん自身も、それを当然のことだと思ってしまうことが嫌だった。魔王が帰ってくることを望んでいるが、それは、非常に難しい。不可能とさえ思えてしまう。
「あぁ。美味い。本当に良い酒だ」
「うちにはちょっと苦いけどな」
魔王は、酒樽からまた酒を注いだ。濁った酒には、何も映ってはいないが、魔王にはそれが美しく見える。心は高揚していたが、不思議と冷静でもあった。為すべきことは全て終わったかどうか、頭の隅で考える。この屋敷のこと、魔界のこと、友のこと、そして、娘のこと。
先日、妻の墓前に添えた花束の色を思い出す。朱と蒼の花。名前は知らないが、彼女ならきっと知っていただろう。
「では、行ってくる」
最後に酒を飲みきると、魔王はゆっくりと立ち上がった。部屋の中心へと向かう。そこは、床に描かれた魔法陣の中央だった。魔王が手を広げると、部屋の四隅の燭台に火が灯る。ぼんやりとオレンジ色に染まることで浮かび上がってくるのは、竜士と最も馴染み深い魔法陣。転移魔法の陣だった。暗い魔王の背中を、アヤさんは黙って見つめる。古くからの酒飲み仲間が人生最後に見せる、魔王としての背中だった。何と声をかけたら良いものかわからなくて、黙って見ていることしか出来ない。お喋りで悪戯好きのアヤさんと言えども、寂しい気持ちになるのだ。そして、
「アヤよ」
「なんや?」
「最初の闘い。あれは私の勝利だったぞ」
「アホか。あんなんうちの圧勝やったやろ」
それは、魔王とアヤさんが出会った時の話だった。二人の勝負は、結局勝敗がつかず終いだった。
最後の最後に、随分と下らない話を持ってきてくれた。それが、アヤさんには堪らなく嬉しくて、悲しかった。
魔王の強力な魔法が発動する。低い声で呟かれた詠唱により、魔法陣がぼうっと光り、魔王が煌めきだす。
「アヤよ。今まで、ありがとう」
そして、そんな言葉を残して、魔王は部屋から消えた。誰もいなくなった魔法陣の中央に、アヤさんはグラスを掲げる。
「やから、帰ってきてから言いや」
グラスに入った三つの氷が、少し音を立てた。
どたどたと足音がして、誰かがこの部屋に走ってきている。
「魔王様!? 魔王様!?」
「リーリちゃん。そんな慌てんで良えよ」
「いや、いきなり転移魔法の魔力を感じたから……。どう言うことだ? 魔王様はどちらに?」
リーリに続いて、パトリシアやリュカも到着する。皆不思議そうな顔で魔王の部屋を見回している。
「ちょっとな。すぐ帰ってくるよ」
「またお父さまったら……。私やリーリに何も言わずに出かけてしまったのですね」
リュカは少し不満顔だ。このところ、魔王は忙しいのか屋敷を空けることが多い。どんな仕事をしているのかは知らないが、もう少しゆっくりしても良いではないか。親娘の会話も減ってきている。
「帰ってきたら少しお話をしないといけませんね!」
リュカが放った何気ない一言に、アヤさんは笑う。
「そうやな。帰ってきたらな」
森の奥深くにある木で出来た小さな家。そこへ続く、草が踏み固められた細い道を二人の子供が駆けていった。
「お父さーん!」
「お父さん!」
父を呼びながら、木の扉を開ける。中は質素だが優しい匂いのする空間だった。だが、父の姿が見当たらない。両手いっぱいに抱えた茶色い木ノ実をどうしても父に見せたくて、家の中を駆け回る。
「お父さん?」
「お父さーん?」
「はいはい。ここにいますよ」
穏やかな声は裏庭から聞こてきた。二人で顔を見合わせて向かう。裏庭には、こじんまりとした野菜畑と、鶏舎。そして薪をくべる風呂があった。
果たして、父はそこにいた。斧を肩にかついで薪を割っていたらしい。彼の周りにはいくつも薪が散乱していて、その仕事も終わったことがわかる。
「お父さん見て! ポテの実がこんなにとれたよ!」
「それに、シラゲのキノコも!」
今日は森でたくさん食べ物をとってこれた。七人兄弟の一番下の二人は、いつも兄弟たちより成果が少なくて、悔しい思いをしていたのだ。しかし、今日の収穫量なら負けないだろう。それが嬉しくて、どうしても父に見せたかったのだ。
「それは素晴らしい。本当にたくさんだ。これなら、美味しいケーキが焼けますね」
「本当!? やった!」
「ええ。もう少しで昼食ですから、待っていて下さいね。その後に、おやつとしてケーキを作りましょう」
「うわーい!」
兄弟二人で頑張ってきた甲斐があった。これならば、他の兄弟たちに自慢出来る。そして、優しい父が喜んでくれたことが嬉しかった。
「あら、二人とも帰ってきてたのね。森はどうだった?」
するとそこに、一番上の姉がやってきた。浅黒い肌に黒髪が似合う綺麗な娘だ。父と同じ、優しい自慢の姉だ。
「ほら、たくさんとってきたよ!」
「あら本当ね。ピータもマルクルもそろそろ帰ってくるころだから、今日のご飯は豪華になりそうだわ」
「うん!」
姉にも褒められて、二人はご機嫌な笑顔で家の中に入っていった。ケーキが今から待ち遠しい。
「ローゼ。カルランの様子はどうですか?」
「まだ熱があって……。お薬は飲ませたから大丈夫だと思うけど……」
「そうですか。心配ですね。あとでカルランの好きな果物でも買ってきましょう」
「ありがとう。あ。ピータとマルクルも帰ってきたみたい。お昼にしましょ。仕込みは終わってるの」
「それは楽しみだ」
父は王国でも有名な料理人だった。そして、この娘は父に憧れて料理人を目指している。毎日厳しくも優しい教えを受けて、料理人の卵だった彼女は、今では近くの街の定食屋の料理長になっていた。近くの街と言っても、歩きで丸二日かかるので、ほとんどは住み込みで働いている。今日は休暇をもらって、この家に帰ってきているのだ。
「あ! そうだごめんなさい! 外にお客さんを待たせてるの! お父さんに用事があるそうよ」
「お客さんですか? わかりました。ではローゼは中に入っていて下さい」
こんな森の中にお客さんとは珍しい。彼がここに家を建ててからわずか三度目のことだった。手を洗い、薪割りのためにたくし上げていたシャツの袖を戻す。家の中には入らず、外からぐるりと回って玄関へと向かう。そして、そこに立っていたのは、黒いゆったりとしたローブを着た背の高い男だった。不自然なでまでに大きなシルクハットをかぶっている。
「どちら様ですかな?」
「貴様を殺しにきた」
「え?」
「私は魔王アスモディアラ。剣鬼ベルゼヴィードよ、未来のために死んでもらう!」
強烈な魔力の波動が、円となって森に拡散していった。




