毒味
人間を強化する薬水。団長と勇者は、それの実験台だった。マミンが言うことが正しければ、副作用も悪影響もない。そしてそれは、人間側から見れば、メリットしかない提案でもあった。
「我々にとっても有益な提案だな。本当に断る理由がない」
団長が腕を組む。だが、それはマミンを信用出来ることが大前提だ。いくらマミンが穏健派と言えども、その本質は結局のところ魔王に過ぎない。ここで暁の騎士団団長と勇者に毒を盛り、殺害することにも充分利益がある。そして、当然団長もそのことがわかっている。なので、保険が必要だった。
「よしわかった。まずは私がその薬水を飲もう。それで本当に悪影響がないならば、勇者殿にも飲んでもらおうではないか」
「それで良いわ。飲んでもらえるだけでこちらにとっては収穫よ」
団長とマミンが同意した。目を合わせて頷き合い、団長の手がカップへと伸びる。しかし、その途中で、竜士が団長の手を掴んで止めた。
「どうしたダーリン?」
「先にオレが飲む」
その言葉は、食堂内に響いた。それほど大きな声ではなかったが、しっかりと全員の耳に届く強さを有していた。竜士の手に視線が集中する。
「なに?」
「もともとはオレが頼まれてた実験だ。なら、最初に飲むのはオレであるべきだ」
「そんな断定をされてもな。私にもメリットがあるから協力しているのだぞ」
二人の手は小刻みに震えていた。お互いが譲り合うことなく、拮抗した力を込めあっているのだ。
マミンや魔王は何も言わない。二人の話し合いが決着するのを静かに待っている。そして、
「女性に毒味なんかさせられない。目の前ならなおさらだ」
竜士は再び強い口調で宣言した。団長と睨み合う。その時間は三秒。時が止まったかのように静止した二人が次に動き出したのは、団長が息を吐いたからだ。彼女は少し口元を緩めて、試すように竜士を見上げる。
「毒味、と言ったな? 何が起こるかはわからんぞ?」
「そのつもりだよ」
竜士はどうしても、マミンが信用出来ないでいた。いや、信用はしている。短い間だったが、彼女の性格を大まかには確認してきた。しかし、それとこれとは話が別だった。魔王という立場と、騎士団長という立場の二人の間には、誰かが入り込む必要があると思ったのだ。
「オレが飲む。良いよな?」
「良いわよ。最初はそのつもりだったし」
団長の手からカップを受け取った竜士が、一度マミンに確認を取る。その真剣な姿を、リュカもリーリもパトリシアも、頬を染めて凝視している。そして、竜士はまるで酒でも飲み干すかのように、一気にカップの中の薬水を口に含んだ。
味は特にない。だが、ねっとりとした草の匂いと、苦い薬の匂いが鼻の奥を漂う。喉を通るときは、その匂いがより強くなって、少し気分が悪くなる感覚だった。車酔いした時と似たような感覚を味わう。
「飲んだわね。それの効果が出るには少し時間がかかるわ。その前に、今のあなたの身体能力を測っておきましょう。そうしないと実験の意味がないもの」
「わかった」
そう言って、マミンに連れられて竜士は食堂を出た。おそらくは中庭で軽い運動を行うのだろう。
残された者たちは、黙って座っている。そして、
「っ!」
「リュカ!?」
「リュカお嬢様!?」
リュカが突然胸を押さえて椅子から崩れ落ちた。苦しそうに心臓の位置に両手を当て、はぁはぁと息を切らしている。
「どうされました!?」
背後にいたパトリシアが慌ててリュカの肩を叩く。リーリも駆け寄る。二人は真剣そのものにリュカを心配しているが、リュカの斜め前に座るアヤさんと団長は、苦いものを見る目をしていた。
「いえっ、その、ちょっと……」
リュカの呼吸は荒い。椅子の脚にしなだれかかっている。メイドと執事が主人を抱き抱えようとして、止めた。リュカの口からこぼれた言葉があまりにも恥ずかしいものだったからだ。
「じょ、女性に毒味はさせられない、なんて……。なんて男らしい。やはり、エドガーさまは素晴らしいお方です!」
「そっちでござるか」
勇者も呆れた表情で顔を背ける。見ていられなかったのだ。団長とアヤさんに至っては、完全に蚊帳の外にいたいらしく、二人で魔界新聞の記事について話し合っている。
「も、もう。なんて素敵なんでしょうか……。言葉の端々に優しさが感じられて、私は胸が潰れそうです」
リーリもパトリシアも、正直に言って、似たような想いはあった。普段はヘタレで頼りにならない竜士だが、ああして時折男の意地のようなものを表に出してくる。そのギャップについ見惚れてしまうことがある。しかしだ。それもリュカほどではない。動悸で座ってもいられなくなるほどではない。ここまで来ると、ちょっと病的だとまで思えてしまう。そして、これが実の父親である魔王の目の前であることも問題だ。意中の相手にめろめろになっている姿を、ここまで堂々と見せつける。そのことに思考がめぐると、本人でない彼女たちが逆に恥ずかしい。出来れば今すぐ別の部屋に行きたいくらいだった。
「そ、その。リュカお嬢様、エドガー様が中庭で何かなさるようですし、見学に行きますか?」
「そ、そうですね。あ、でも、昼食の準備がありました」
「それは私とパトリシアでやっておくから、好きにするといい」
「ありがとうリーリ。では、今日だけ、お言葉に甘えますね」
リーリとパトリシアにとってしてみれば、早くこの恥ずかしい空間から離れたいだけだった。すぐに空気を察知して精神的に離れた団長とアヤさんが羨ましい。二人は、大して興味もなさそうな魔界の新しい鉱山が見つかったという記事について議論していた。
「そこでだ。勇者よ。リュカに付いていてやってくれ」
「え、マジ? あの桃色空間に我が輩にこれ以上居ろと?」
「そうだ。さもないと昼食抜きだ」
「うぅ……。食が握られているというのは厳しいでござるよ」
勇者は家事一切が出来ない。部屋の掃除や洗濯はともかく、食料供給が止められることは死活問題だった。そういう意味では、リュカ、リーリ、パトリシアの三人は、勇者を抑え込める力を有している。
億劫そうに勇者が椅子から立つ。本当に嫌なようで、その動作はいつにも増してのろい。しかし、そんな勇者を待ちきれなくなったのか、彼女の腕を取り、リュカはぐいぐいと引っ張って中庭に向かった。まるで抵抗する子犬を引きずる飼い主のような光景である。
「はぁ……。もうほんまにたまらんわ。ちょっとオタクの娘、頭ん中ふわふわし過ぎやない?」
リュカが食堂から出たと同時に、アヤさんと団長が魔界新聞から目を外した。元より何の興味もなかった代物だ。くるりと丸めた新聞を肘当てに、アヤさんがテーブルに突っ伏して文句を言う。相手は件の保護者、魔王だ。
「そうだな。リュカは本当に母親に似てきた」
「いや、そんなん聞いてないんやけど」
アヤさんの文句もどこか覇気がない。それだけリュカの行動に脱力させられたのだ。
「さて。私も中庭に行かなくてはな」
「良いんですか?」
立ち上がった団長の言葉に、パトリシアが問いかける。小道具を使ってまであの浮ついた空間から距離を置いていたのに、今度は自らそこに行こうとするのは、不思議だったのだ。
「いや、よく考えると、あの薬水の効果は私も見ておかなければならない。勇者殿だと少し信用が足りないのでな」
「なるほどな。その点は同意だ」
勇者の自堕落生活に一番割りを食っているリーリが頷く。勇者という立場でありながら、牧村は一切の社会的、社交的、公式的な信頼を託せない。普段から散々好き勝手生活している団長ですら、勇者にことを任せられなかった。ましてや、今回の実験は人間界の行く末を左右する重要極まりないものだ。観測者が一人だけ、それもニートだと言うのは、あまりにずさんだと言えた。
「ほなうちも行こ。暇やし。せいぜいリューシちゃん横から弄ったろ」
「ほどほどに頼むぞ」
アヤさんも団長の後に続いた。こういう時、ただの客人は気ままで良い。屋敷の面倒ごとの一切を従者たちに押し付けて、自らのしたいことだけをする。マミンたちに出した茶菓子を片付けているリーリとパトリシアも、中庭で行われることに興味があった。竜士が身体能力を測るというなら、もしかしたら彼のカッコいい姿が拝めるかもしれない。それこそリュカの黄色い声援が飛びそうだが、その気恥ずかしさを差し引いても見てみたかった。
しかし、彼女たちには残念ながら仕事がある。昼食まであまり時間がない。いらん客も増えたせいで、手間もかかるし量も多い。かと言って、それを理由に手を抜くなど、従者としてのプライドが許さない。わかりやすいジレンマだった。
「よしパトリシア。皆に喜んでもらえるように頑張るぞ」
「はい。それこそが私達の勤めですから」
少し残念そうな二人だったが、それでも自分達を励ますように声をかけあって、テーブルの上の食器を全て調理場へと運んでいった。
こうして、食堂に最後に残されたのは、魔王となった。リーリとパトリシアが閉じていった扉の方を、優しい眼差しで見つめている。リーリは幼い頃から我が子のように育ててきたし、パトリシアも、屋敷オーガの長老家系の娘なので、よく知っている。二人とも、愛すべき子供達だった。
先程のこの食堂の中では、いくつもの人間関係や、信頼関係が繋がっていた。友人、主従、家族。全てが温かく柔らかいものだった。そして、その中にある敵対関係すら同様だ。彼女達は、輝くような世界を手に生きている。それは、魔王が求める世界の形そのものだった。
すでに、娘であるリュカは、幸せに包まれている。幸せを創り上げることはもうしなくて良い。あと出来ることと言えば、その幸せを守ることだけだ。彼女達が、長い年月をかけ、やっとの想いと偶然で胸に抱えた幸福を、守る。それこそが、魔王であり父である彼の最後の贈り物だった。
「ふぅ」
魔王は大きく息を吐いて、背もたれに体重を預けた。




