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性別と壁


 悶々とした時間は、意外と過ぎ去るのが早い。もう太陽は遠く空の彼方に沈み、赤と青の月が闇の中に顔を出していた。今日も皆で仲良く夕食を食べ、それぞれが風呂に入った。あとはもうベッドに横たわるだけだ。夜はまだまだ長いが、早寝早起きがすっかり習慣化したオレは、そろそろまぶたが重い。このまま目を閉じれば日が昇るまで夢の中だろう。

 だが、オレにはまだ重要な案件が残っている。それだけのために今日一日準備してきたと言っても過言ではない。眠気こそあるが、オレは鼻息荒くその瞬間を待っていた。

 パトリシアが、オレの部屋にやってくる。それも皆に内緒で。二人っきりだ。夜の帳が下りてからの二人きり。絶世の美少女男の娘と二人きりである。色々矛盾している気がするが、動揺と興奮を有するオレの思考回路はその程度のお粗末さだ。もともとキャパの多い脳みそはしていない。

 そわそわする。とにかくそわそわする。大学受験の時だってここまで緊張しなかった。国王様との謁見の時だってそうだ。ばくんばくんと張り裂けそうな心臓は、脈打つというより、一回一回小爆発を起こしている。そして、その瞬間は訪れる。


「エドガー様? 私です。パトリシアです。よろしいですか?」


 来た! オレの可愛いパトリシアが。オレの部屋に!


「あ、あぁ、良いよ。入ってきてくれ」


 机の前に座りながら、あえて扉の方に背を向けた。どんな顔をすれば良いのかわからなかったからだ。背中越しに、ゆっくりと扉が閉められたことがわかる。部屋の明かりは壁の四隅にある蝋燭と月明かりだけ。雰囲気は完璧である。


「エドガー様? どうされました?」


 いつまでたっても顔を見せようとしないオレに、パトリシアが不審げに話しかけてくる。その声は、徐々にオレの背中へと近づいてきていた。

 どうしよう。事ここにきて、ある考えが頭に生まれる。どうしてオレはこんなに緊張しているのだろう。パトリシアは、相談があると言っていただけだ。それを変に曲解し、いやらしい妄想に耽っているオレは、かなり気持ち悪くないか? そうだよ。別に緊張することも、動揺することもないじゃないか。パトリシアが持ちかけてくる相談に、真摯な気持ちで力になってあげれば良いだけだ。

 そう思うと、一気に視界がクリアになった。オレ如きがどこまでパトリシアの力になれるかわからないが、一生懸命話を聞いてあげよう。そんな気持ちで、椅子ごと振り返る。


「あ……」


「え?」


 一瞬我が目を疑った。オレの目に飛び込んできたのは、綺麗な黄色のドレスだったからだ。きらきらと輝くスパンコールが散りばめられたスカートは、前の部分だけ広げられていて、パトリシアの白い脚が露わになっていた。胸元には黒いリボンが蝶々の形に結われている。ふわふわの肩や袖。そしていつも髪を下ろした状態のパトリシアが、髪をアップにしていた。小さめのポニーテールが出来上がっている。

 金色の髪に、黄色のドレス。向日葵のような少女が、オレの部屋に降臨していた。


「ぱ、パティ……?」


「エドガー様」


 な、なんだ? なんでドレス? よくわからない状況を前に、オレの思考は完全にフリーズしていた。ただぽかんと口を開けてパトリシアの衣装を見つめている。すると、そんなオレにパトリシアから声をかけてくる。


「エドガー様。今宵は、私パトリシアが、お世話をさせていただきます」


「え?」


「えっと、その、す、すみません!!」


 まだついていけないオレの左手を、突然パトリシアが握った。そのままオレの手は、パトリシアの胸元まで持っていかれる。そして、左手が感じとったのは、ふわりとした柔らかな膨らみ。


「……え? え? え?」


「わ、私。今から二日間は、女の子なんです!」


「ちょ、あ、え、え……うおっ!?」


 感触をようやく脳が理解した。これは、初めて触れるが、明らかに女の子が柔らかな胸だ。

 そのことに勘付いたオレは、途端に左手を引っ込める。


「な、なんで!? どうして!?」


「……アヤさんからいただいた、性別変換のお薬です。今日のお昼頃に飲んだので、その効果が出ているんです」


「……」


 あえて沈黙を選んだ。理解は現実に追いついた。なるほど。確かに、以前オレがアヤさんの実験台にされた時、あの不吉な丸薬は二つあった。そして、オレが飲んだのはそのうちの一つだけ。残った方の行方なんて考えてもいなかったから、突然話に絡んでして驚くことしか出来ない。

 ここに来て、アヤさんの蒔いた種が芽を出してきている。水晶も、丸薬も。いや、種なんて生易しいものではない。地雷だ。あの人が地中に埋めたいくつもの地雷が、次々と連鎖爆発を起こしているのだ。なんて恐ろしい。居たら居たで厄介だが、いなくても厄介だったとは。あのお姉さんがこの屋敷に及ぼす影響力が大き過ぎる。ここ最近物語から途中退場していたが、そんな状態でも掻き回してくるか。恐るべし。恐るべしアヤさん。

 アヤさんに対する恐怖を再確認していると、目の前のパトリシアがそわそわし出したのが目に入った。指をスカートの前で遊ばせながら、身体を少し揺らしている。オレがいつまで経ってもパトリシアの現状に何も言わないから焦れているのだ。


「あ、ああ。ごめんよパティ。それで、女の子に、なっちゃったのか……」


 左手に残る感触を確かめるために何度もにぎにぎする。パトリシアへ意識を向けるか、左手に意識を向けるか、オレの脳内は見事に錯乱していた。


「は、はい。ですので、私はエドガー様の夜のお世話を、胸を張って出来ます。では、こちらへ……」


 パトリシアがそっと手でベッドを示す。その仕草で、何故かオレは一気に冷静になれた。パトリシアの手が震えていたからだ。


「良く分からないけど、その必要はないよ」


「え?」


「うーん、色々言いたいこととか聞きたいことがあるな。どうしてパティは、こんなことをしようと思ったんだ?」


「そ、それは。その、エドガー様とリュカお嬢様が初夜でお困りにならないようにするのがメイドのお役目で……」


「ふむ」


 これは散々言われてきたからなぁ。アヤさんがパトリシアに吹き込んだのか?


「それは、パティがしたいことなのか?」


「も、もちろんでございます! 私の大切な主人様のために、この身を捧げる覚悟でございます!」


「そうか。でも、悪いけど、その必要はないよ」


「え……。で、ですが……」


「だってさ、パティが泣いてるんだ。まずはそっちが優先だ」


 オレの言葉に、パトリシアは初めて自分がどんな表情をしているか気づいたようだった。片手を目尻にあて、流れる涙をすくう。目は赤く、何度も瞬きを繰り返すことで苦しさを堪えているように見えた。手や脚だっていつまでも震えているままだ。こんな、明らかに平静とは思えない女の子に、何かしようと思うほどオレは屑ではない。


「何があったんだ? ごめんな。随分思い詰めるまで気づいてあげられなくて。話してくれないか?」


 とうとう泣きじゃくり始めたパトリシアの頬を撫でる。きめ細やかな肌はさらさらで、汚れを知らぬ乙女そのものだ。


「わた、しが……男の子、だから。皆様に、ご迷惑、を……」


「かかってないよ。そんなことない。どうしてそんな風に思っちゃうのかな?」


「屋敷オーガ、の集落でも……私はつまはじきにされて、やっと見つけ、た働き先もすぐに……追い払われて……」


「そうか。辛かったね」


「私が、女の子じゃ、ないから……。男の子なん、かに生まれたから……」


 傷になってしまうんじゃないかと思うほど目をこするパトリシア。それでも涙は際限なく溢れてくる。


「だか、ら、少しの間、だけでも、女の子に……なって、皆様のお役に立ちたくて……!」


「うん。ありがとう。嬉しいよ」


 オレも日本で同じような立場だったから、パトリシアの苦しみがよくわかった。誰にも認めてもらえないって悲しいよな。話も出来ない。挨拶も出来ない。起きる時も飯を食う時も、寝る時も、ずっと一人。例えそうじゃなくたって、そんな風に感じてしまうだけで辛いよな。

 肩を震わせて涙するパトリシアの、過去の澱みが見えた気がした。辛い過去や気持ちを押し殺して、毎日元気そうに振る舞っていたのだろう。明るく明るく。屋敷の皆に心配をかけないように、パトリシアは努力していたのだろう。だが、それだってたまに緩むことはある。一生懸命な分、スイッチが入ってしまうことがある。それが今日だったのだ。

オレにはわかる。そんなオレだからこそ。


「あのなパティ」


「はい……?」


「オレはこの屋敷に来る前は、パティと同じように、ずっと一人で、周りから危険物みたいに扱われて生きてきたんだ」


「……」


「でもね。この屋敷の皆はさ、オレのことを認めてくれたんだよ。叱ってくれる人も、励ましくれる人も、笑ってくれる人も、怒ってくれる人もいる。こんなオレを好きだって言ってくれる人もいるんだぜ」


 パトリシアがそっとオレから目をそらした。


「屋敷の皆は、最高に優しいんだ。だからパティも安心して良い。パティが男の子だと言うことを、ちゃんと認めて、分かってくれる。許すとか許さないとかじゃない。パティを、パティ自身を好きになってくれる。いや、もう大好きなんだ。だから、そんなに自分を追い詰めちゃいけない。パティがパティ自身を嫌いになっちゃいけない」


 ほら見て。今のパティは知ってる。その丸薬は、飲んだ者の理想の姿になれる薬だ。君は、今の自分の姿が、幸せの形だとちゃんと、心の奥底で理解しているんだ。


「だいたいさ。迷惑だなんて思うわけがないじゃないか。こんなに可愛くて、頑張り屋で、素直で優しいパティを、嫌いになるわけないじゃないか。自信を持って。そして、皆をもっと信じて。パティが思うよりも、皆はパティのことが大好きだよ」


 もちろんオレもだ。臭い言葉をいくつも並べたてた。それも、絶対にパトリシアが聞き漏らさないように、頬を包んで、顔と顔が数センチの距離で話した。パトリシアの碧眼に、オレが写っているのが見えた。

 

「私、私は……」


「うん?」


「男の子でも、良いんでしょうか……」


「もちろんだ。それにね、可愛い男の娘は、それだけで世界の宝なんだぞ」


 さらさらな金髪を、そっと撫でた。我ながら、良いことを言った。そうだ。パトリシアは宝物なんだ。どこに出しても恥ずかしくない、魔王の屋敷のメイドさんなんだぞ。


「少しは助けになれたかな」


「はい。はい……! 力が、何か、温かいものが胸から溶け出してきます!」


「よし。なら今日はもう寝よう。もちろん別々の部屋でだ」


 この時のオレの我慢がどれほど苦しいものだったかは、最早口にするまでもない。最高に可愛い女の子の泣き顔を前にして、その子に一切手を出さない。武士だ。ジャパニーズサムライを地で行く男、それが江戸川竜士だ。

 しかし、


「あ、あの、エドガー様……」


「ん? どうした?」


「そ、その、その……。なんだか身体が火照ってしまって……。鎮めて下さいませんか……?」


 まだ濡れた瞳で上目遣いをされたオレの我慢が、どれほど苦しいものだったかは、最早口に出すまでもない。

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