そんなに見たいのなら
どういうことだろう。パトリシアが、今晩オレの部屋にやってくるらしい。いや、それ自体は別に何の問題もない。今までだって、夜に二人で少し話をしたことはあった。そこに一切のいかがわしさや下心は存在していなかった。いたって健全な、プレーンな関係である。
今回だって、それと同じに過ぎない。だが、一つ異なるのは、パトリシアから事前の告知があったことだ。それも、まるで他の皆に隠すかのように言われた。これを不思議に思わないのは難しい。普段素直なパトリシアだからこそ、その考えが読めないことは、少し不安だった。
だが、オレ一人が不安がったところで何か問題が解決するはずもない。誰かに相談するべきだろう。しかし、一体誰にどう相談すれば良いのだろうか。今晩パトリシアがオレの部屋に来るらしいのだが、どうしたら良いのか。なんともアバウトな質問である。知るか、の一言で片付けられてしまいそうだ。また、問題にするかどうかも悩ましい些事でもある。部屋に男の娘がやってくる、そんな事態におろおろしていては、また皆にいらぬ疑いをかけられてしまう。
結論、オレは誰に相談するでもなく、一人もんもんと頭をひねっているだけだった。あまり皆のいるところでうなっていたら怪しまれるので、自室で考える。パトリシアが、今晩、オレの部屋にやってくる。それも一人で。皆に内緒で……。
「いや、ヤバくない?」
色々ヤバくないっすか? オレの理性とか本能とか今後の屋敷での立場とか。オレもいい大人だ。夜に密室で二人っきりというシチュエーションに、何も期待するなという方が無理だ。それも、パトリシアみたいに可愛い娘とだ。オレは今晩一線を越えるのか。そしてその一線は、越えてはならぬ線でもある。高まるのは不安と期待。オレの心臓は、かつてない不協和音を奏でていた。
「いや、待て」
落ち着け。このまま一人で考えこんでいたら、思考のドツボにはまりそうだ。気分転換が必要だった。外に出よう。今日も変わらずの雨模様だが、外の空気を吸えば頭も冴えてくるはずだ。そう思って部屋から出る。するとそこでいきなり、リーリと出くわした。
「お」
「む。なんだ貴様か。全く。どこにでもいるな。ダイダイオオゴギヴェリみたいな奴だ」
「やめろ。その何かを見たことはないが、そいつでオレを例えるな。なんか背筋がゾワっとする」
出会い頭にとんでもない罵倒を受けた気がする。ここ数日でオレの立場がどんどん苦しくなってきている。団長や牧村よりも扱いが雑ってどういうことだよ。
「暇なら掃除を手伝え。こう毎日雨続きだとカビが心配なのだ」
「良いけど。どこをやれば良い?」
「風呂と調理場だ。私は今から勇者の部屋を掃除してくるから、しばらく戻らん」
何か決戦に向かう戦士の面持ちだな。まぁ、リーリやパトリシアからしてみれば、牧村の部屋はどこよりも過酷な戦場だろう。あいつ秒単位で部屋汚すから。
執事も大変だなぁと他人事感マックスな表情でリーリを見送る。招かれざる客の面倒も見なくてはいけないなんて、オレならすぐにねを上げそうだ。調理場はいつもリュカが丁寧に掃除している。それなら、広くて大変そうな風呂を掃除しよう。身体を動かせばこのなんとも言えない気持ちを拭えるかと思った。
だが、そんな考えは甘かった。掃除道具を持って風呂場に行くと、中ではパトリシアが一人せっせと掃除をしていた。ミュールや白いニーソックスを脱いだ裸足で、鏡を拭いている。少しかがんだその姿勢を背後から見ると、スカートの中が見えそうで見えない。この絶妙な角度は神のいたずらか。オレとしてはパトリシアのスカートをずっと観察しているのもやぶさかではないが、頑張っているパトリシアをお手伝いしたいという想いが勝利した。
「パティ。オレも手伝うよ」
「きゃっ!? エドガー様!?」
オレの声かけに、パトリシアが慌てて振り向く。一瞬スカートの裾を気にする素振りをして、赤くなった。
「あ、あの、お手伝いというのは?」
「いや、リーリに言われてさ。まあゴロゴロしててもつまんないし、屋敷の家事全部を任せきりってのも申し訳ないしな」
おそらくだが、これが普通の人間の考え方だ。だが、あの引きニートと言ったら、家事の一切を手伝うことなく、日がな一日ゲームばかりしている。しまった。あいつも連れくるんだった。
「そ、そうですか。ならお願いしても構いませんか? 私では手が届き辛いところもありますので」
「わかった。遠慮なく言ってくれ」
小柄なパトリシアだと高いところは大変だろう。彼女はオレの胸くらいまでしか身長がない。オレも男性平均より少し背が高いくらいだから、パトリシアの小ささがわかるだろう。ま、リュカはそれより小さいんだけど。
二人で檜の床を掃除する。木が傷まないように専用のブラシを使ってこするのだ。しゃこしゃこという気持ち良い音が浴室に反響する。作業に集中していくうちに、自然と無言になった。オレもパトリシアも、お互い何も喋ることなく掃除に没頭する。と、見せて、実はオレは全然集中していなかった。パトリシアと二人きりだ。今なら、朝食で言われた言葉について聞ける。あれはどう言う意味だったのか。しかし、どう切り出したものかがわからなくて、頭の中でごちゃごちゃと考えていた。
「な、なぁパティ」
「はい?」
良いや。出たとこ勝負だ。
「あのさ、夜にオレの部屋に来るって、どう言う意味?」
背を向けあったままの問いだった。檜風呂はよく反響する。パトリシアは、少しの間沈黙した。そして、
「その、少しだけ相談がありまして……。お忙しかったですか?」
「い、いや! そんなことはないよ! ただ気になっちゃってさ」
パトリシアが悲しそうな声をしたので、急いでフォローする。相談、とはなんだろうか。今ここで聞くのではダメな話なのか?
「お夕食の後、お部屋に行かせていただきます。エドガー様は、普段通り過ごして下さって結構ですから」
「そ、そうか」
どうも、核心は話してくれそうにない。それなりに真剣な相談みたいだ。なら、この場で変に突っ込むものではないだろう。大人しく夜を待つことにする。
それから、パトリシアと二人で風呂場を掃除しきった。目立った変化のないパトリシアだったが、いつもより会話と笑顔が少ない気がした。オレの可愛いパトリシアに何があったのか。今朝の件もある。出来る限り力になってあげたい。
夕食まで時間がある。せっかくパトリシアが来てくれるのだ。少しでも部屋を綺麗にしておこう。そんな思考でオレが一番念入りに掃除したのはベッド周りだった。ダメだ。邪な考えが行動にそのまま直結している。これはいかん。何がいかんって下半身がいかん。目をつむって気を鎮めていると、
「エドガーさま? よろしいですか?」
リュカがオレを呼ぶ声がした。なんだろう。少し前かがみになった状態で扉を開けると、そこには白いモコモコがある。ウール百パーセントだ。そういうときっとリュカは怒るだろうな。
「どうしたんだ? オレは覗きなんてしてないぞ」
「いえ、そういうお話ではなく……。その……」
「ん?」
両手の指を胸の前でつんつんしながら、少し頬を染めるリュカ。瞳が右に左に動き回っている。もごもごとした唇が、少し言い辛そうに言葉を紡ぐ。
「その、さっきまで恋愛小説を読んでまして……」
「はぁ」
読んでまして?
「そしたら、え、エドガーさまに会いたくなってしまったんです……」
ボン! と煙を上げそうなほどリュカが赤くなる。それはオレも同じだった。二人を中心に気温が二度以上上昇した。そして、そそくさと扉を閉めたリュカが、静かにオレの胸に体重を預けてきた。
「えっと……」
突然の甘い空気に少しひるむ。昨日からリュカの態度はつんけんしていたから、急にデレられて頭をがついていっていない。だが、オレの身体は正直なもので、両手でリュカの肩を優しく包んだ。そしてそれを皮切りに、左手はリュカの頭、右手は背中に触れて、オレの方へ抱き寄せる。
リュカの鼻先がオレの心臓の数センチ向こうにある。どくどくと鳴るオレの心音は、きっとリュカに筒抜けだろう。それを紛らわせるかのように、リュカの頭をゆっくりと撫でた。
「まだ怒ってるかと思ってた」
「怒ってますよ。当然です」
「ならなんで? どうしてこんなことしてるのかな?」
「っ! と、ときどきエドガーさまは意地悪ですね」
下らない会話だ。互いの心を探り合うように、息がかかる距離で話す。
「私は怒っています。ですので、その罪滅ぼしに、もっと頭を撫でて下さい」
「わかった。これで良いか?」
「もっと」
「こう?」
「もっと!」
リュカが何度も何度もせがんでくるから、その回数だけ髪をすくった。人差し指で髪をくるくる回すと、パスタのように絡んできて楽しい。すると、腕の中のリュカがムスッとする。
「や、やめて下さい! 髪の毛をいじらないで下さい!」
「えー、良いじゃん。あ、もつれて取れなくなっちゃった……」
「ほらもう! 私の癖っ毛を甘く見てはいけませんよ」
「ごめんごめん」
可笑しくて笑ったが、リュカはまだ不満そうだ。仕方ないので、ご機嫌を取るために両手をリュカの腰に当て、グッと持ち上げた。そのままぐるぐるとリュカを回す。
「う、う、わうわ!」
「はは!」
リュカが怖がって首にしがみついてくるのが楽しい。軽く三回転くらいして、リュカを下ろした。軽い。本当にウールみたいだ。
「今日の昼食はなに?」
「団長さんが作ってくれますよ。なので私は知らないんです」
「そうなのか。なら後で聞きにいくかな」
大して動いているわけでもないのに、どうしてお腹は空くのだろう。
「なぁリュカ」
「はい」
「パティは、どうして泣いたんだろうな」
ポロリと口からこぼれた。やはりどうしても今朝のパトリシアの涙は、オレの心に引っかかっていた。いつも元気いっぱいなパトリシアが泣いている風景というのは、オレにとってそれだけ衝撃的だったのだ。
リュカから手を離し、考える。考えてもわからないから、リュカに尋ねた。
「やっぱり、パティちゃんは、男の子ですから。女の子の方が好ましい屋敷オーガの中では、辛いことをたくさん経験してきたのではないでしょうか」
そうだよな。
「そして、そのデリケートな部分を、エドガーさまにずけずけと土足で踏み込まれたのです!」
「えぇ!? オレ!?」
「そうですよ! パティちゃんのお風呂を覗いたりするからいけないんです!」
「えぇ、でもなぁ」
パトリシアの風呂を覗かない男なんているのか? そいつはダイヤモンドより硬派か、こんにゃくより軟弱者かのどちらかだ。要するにオレには当て嵌まらない。
「とにかく! これに懲りたらもう二度と覗きなんてしてはダメです! そ、そんなに裸が見たいなら、その……」
「ん? どうした?」
リュカが何か小声でぼそぼそ言っている。俯いたリュカは、耳たぶまで赤く染まっていた。
「ぅ! な、何でもありません!」
そして一言黄色い声で叫ぶと、逃げるように部屋から出て行ってしまった。扉が乱暴に閉められ、そして、廊下からリュカが転ける音も聞こえてきた。
オレは一人、リュカの言わんとしたことを考えながら、全身の血液が脈打っているのを何とか抑えていた。




