閑話休題
夕食の時間になっても、オレの気分は晴れないままだ。今日この日の為に、頑張って沢山の本を読み漁ってきたというのに、何とも虚しい結末になってしまった。転移魔法に関しては、全ての詠唱をそらで言えるが、本当にただ言えるだけだ。
オレが一人意気消沈しているせいか、食堂の雰囲気もどこか暗さが目立つ。今日の夕食は牧村の希望でハンバーグが振舞われているが、その熱々の肉汁もどこか物悲しい。
「その、エドガーさま。元気を出して下さいませ。魔法は、使えると便利ですが、使えないからと言って不便なものではありませんから」
「そ、そうですよ。それに、エドガー様は魔法が使えなくても素敵です!」
すっかり復調したリュカと、その背後に控えるパトリシアが、優しい声で励ましてくれる。彼女たちまで悲しそうなのが申し訳ない。
「心配はいらんでござる。三十歳まで童貞を守れば魔法使いになれるという。あと十年も待てば良いでござるよ」
「そうなのか。良かったなダーリン。もうしばらくの辛抱だ」
「オレがあと十年童貞っていう前提で話を進めるな」
ぱくぱくと美味そうにハンバーグを食べる牧村が、さも当然のことのように言う。そして、団長もそれに乗っかる。なんて失礼な奴らだ。しかし、
「私達魔族からすれば十年は短いですが、エドガーさまにとっては長いですものね……」
「リュカ……?」
「ですが、エドガー様ならきっと大丈夫ですよ!」
「パティ……?」
何がきっと大丈夫なんだ。この二人もオレが三十まで童貞だと思っているのか。ここまで嬉しくない確信もなかなかないぞ。皆はいったいどんな目でオレを見ているんだ。そんなにオレって童貞っぽい?
「ふぅ。やっと仕事が片付いたわい」
そんな他愛ない、オレにとっては重要な会話をしていると、魔王も食堂にやってきた。急に舞い込んだ仕事とやらに励んでいたらしいのだが、どうやらそれも落ち着いたみたいだ。魔王の仕事を手伝っていたリーリも後に続いて入ってくる。
少し疲れた様子の魔王が着席すると、その卓の前にあるグラスにリーリが酒を注ぐ。魔王は酒好きだが、毎晩晩酌をするタイプではない。良いことがあった日や、客人が来ている日、あとは疲れた日に酒を飲む。今日はお疲れのようだ。ちなみに、先に食べていて構わないと言われていたので、オレ達は食事を始めている。決して魔王を除け者にしていたわけではない。
グラスを満たす赤い液体を一息で
飲み干した魔王が、満足そうに息を吐く。そして、オレの方に目を向けてきた。
「ところで婿殿。魔法が使えないそうだな」
「あ、はい……」
リーリから聞いたのかな。改めて言われると凹む。
「実はそれは少々困った事態なのだ。魔女王マミンから連絡があってな。近々この屋敷に来て婿殿を使った魔法実験をしたいそうなのだ。だが、魔法が使えないと実験も出来ない」
「実験って単語は危なすぎるんですけど」
オレを使った魔法実験ってなんだよ。なんでそんな大事が当事者そっちのけで進行してるんだよ。初めて聞かされた事態に寒気がする。
「いや、悪い実験ではない。なにやら対人間用の薬の実験らしいのだが、これを無関係な人間相手にするとまた魔族と人間の争いごとに発展するだろう? だから手近な人間である婿殿を使うのだそうだ」
「おかしい。その理由と結論は色々とおかしい」
悪い要素しかないじゃねぇか。しかも薬の実験って不安しかない。さも誠実な対応をしているみたいな態度を取らないで欲しい。
だが、そんな黒魔女の計画も頓挫するだろう。だってオレ魔法使えないし。ちょっとだけやってやった感があるが、よく考えると別に全然嬉しくない。
「となると、団長殿か勇者殿が実験台になるわけだが……」
「危なっかしいな」
魔王の屋敷で人体実験の被験者にされる勇者と騎士団長。変に話が出回れば、人間勢力が魔王に屈したかのように見えてしまう。
「私は構わないぞ?」
「我が輩も」
しかし、オレのそんな心配をよそに、団長も牧村も平気な顔で了承する。いや、あり得ないだろ。どんな実験かもわからないのに即答出来るって、どんな精神構造してんだ。痛かったり苦しかったりするかもしれないんだぞ。魔王の実験台に進んで手を挙げる女子二人に、素直にドン引きだ。
「そうか。ならマミンにはそう伝えよう。それとリュカ」
「はい」
「私は明日から私用で屋敷を空ける。後のことはリーリに頼んであるから、そのつもりでな」
「わかりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
勇者と騎士団長がいる自宅を空ける魔王か……。最近ほんとにおかしいぞ。皆無警戒というか非常識というか。オレ一人で気負っているのが馬鹿らしくなってくる。
しかし、魔王はどこに行くのだろうか。リュカは特に気にしていないみたいだが、仕事以外で魔王が外出するのは珍しい。仕事ならばリーリを連れていくはずだし、私用とはなんだろう。
「さぁ。今日も美味そうだ」
ナイフとフォークを構えた魔王は、魔王用の特大ハンバーグに舌舐めずりした。すでに他の皆は食べ終わっているが、律儀に魔王が完食するまで席を立たなかった。いや、ただひとえに食堂でかわすおしゃべりが楽しかったからかもしれない。
夕食の後は、めいめいに自室に帰っていった。オレもひとしきり落ち込んだので、だいぶ気持ちが浮上してきた。魔法は使えないが、そうだとしても、オレの生活には何の支障もない。むしろ、未知の力を手に入れるという混乱がないぶん心は和やかだ。人間は多くを求め過ぎるのも良くない。こんなにも素敵な仲間たちに囲まれて生活しているオレが、これ以上何かを期待するのは野暮というものだ。
そんな風に思い直しながら、自室の椅子に座った。机の上には、ここ最近読みふけった魔法の本が並んでいる。全部で十六冊。読書が趣味なわけでもないオレにしては、なかなか頑張った。それに、これは無意味な努力ではない。いくつか魔法の悪用や、攻撃への応用を知ることが出来た。今後、また誰かと闘わなくてはならなくなった時、そういう知識があるのとないのとでは大きな違いがある。これからもこつこつ読書は続けよう。
机の上の本達をきちんと並べ直していると、ノックの音が聞こえてきた。
「はい」
返事をすると、
「おい。風呂の用意が出来たぞ。早く入れ」
リーリが入ってきた。
「随分早いな」
「リュカはまだ体調が万全ではないからな。今日は身体を拭くだけだ。さぁ。人数が増えているんだ。早く入れ愚か者め」
今日でふりふりメイド服卒業のリーリは、どこか強気だ。罵倒の切れ味が戻ってきている。今だって可愛らしい格好をしているのに、それに似つかわしくない踏ん反り返った腕組みポーズだ。それでは、せっかくのふりふりが台無しだと言うのに、こいつはまるでわかっていない。
「あーあ」
「どうした。風呂に入りたくないのか? それなら勇者を先に入らせるぞ」
「いや違くて。お前は明日から執事服なんだよなぁ。一つ楽しみがなくなるなと思ってさ」
可愛いメイドさんが一人減ることは、つまりは世界平和が一歩遠退くということだ。大げさではない。メイドさんにはそれだけの力がある。批判は受け付けない。
しかしそんなオレの言い分など、リーリに取っては不快でしかないらしく、片眉をピクリと上げる。
「なんの話をしているのだ。全く。勇者と言い、団長と言い、たるんでいるぞ」
「二人ともお前より強いけどな」
「ぐっ……!」
このカウンターは強烈だったようで、リーリは苦しげに心臓を抑える。団長はともかく、毎日頑張っているリーリが、怠惰を絵に描いたような牧村より弱いというのは、哀れみの涙を禁じ得ない。不条理ここに極まれりだ。世界の残酷さがよくわかる力関係と言える。
「ふ、ふん! 今はそうかもしれないが、いつかは私が勝ってみせる。もちろん貴様にもだ!」
「そうか。まあ頑張れ」
オレの投げやりな受け答えに、リーリはぷうっと頬を膨らませる。内出血するんじゃないかと心配になる程拳を強く握っていた。普段つんけんした態度ばかりのリーリ相手に、上から目線で物が言えるのは非常に優越感に浸れて良い。やはりメイドと主人とはこういう関係であるべきだ。オレはリーリの主人じゃないけど。
「しかし、リーリとパトリシアも大変だな。二人しかいないのに、凄いたくさんのやつらの面倒みなくちゃいけないし」
皆自分のことは自分でやる者ばかりだが、にしたって使用人二人の仕事量は半端じゃない。それに加えて、牧村という不良債権が屋敷に加わった。あいつを今朝起こしに行ったあとのパトリシアは、疲れた顔をして戻ってきた。仕事に対して真面目で、良く気が利いて、頑張り屋のパトリシアにしてはとても珍しい。あれ、そう考えると腹立ってきた。オレの可愛いパトリシアを困らせやがって。牧村の更生プログラムを少し過激にしてやろう。
「あぁ。その件なんだが、私に考えがあってな」
「考え?」
「うむ。少し高度だが、分身の魔法というのがあるのだ。これを使えば、私が二人になれる。単純に仕事効率二倍だ」
「へぇ。そりゃ凄いな」
リーリが二人になれば、屋敷の仕事も捗るだろう。だが、オレにはある心配ごとも浮かんでくる。
「でも大丈夫か? お前の小言とか嫌味も二倍になるってことだろ?」
テーブルマナーから日常生活まで、リーリはとっても厳しい。オレに対しては特にだ。事あるごとに、やれフォークの持ち方が汚いだの、やれ夜更かししすぎだのと注文をつけてくる。ずっと一人暮らしをしてきたんだ。そりゃ、色々なことが自己流なのは目をつむって欲しい。
「べ、別にそんなに口やかましくしているつもりはない。ただ、ちょっと目に入りやすいだけだ」
「はぁ? なんでだよ。オレなんかより団長とか牧村の行動を警戒した方が良いだろ」
一応はこの二人は敵対勢力なのだから、要注意人物は彼女たちだ。
「う、うるさい! 横顔とか視線とかが気になってしまうだけだ! だいたい、私が何を見ていようと私の勝手だ!」
何故か突然逆ギレされた。焦ったように顔を赤くしたリーリが、大声で怒鳴る。
「とにかく! 貴様はさっさと風呂に入れ! あとがつかえているんだ!」
そして、捨て台詞のように締めくくると、扉を強く閉めて出て行ってしまった。なんだあいつ。何をそんなにピリピリしているのか。女心ってのは本当によくわからない。二十年近く一人で生きてきたオレには、女性の繊細な心象など、とうてい計り知ることは出来かった。




