魔法 続
頭にかけられたお湯の量は、桶にして三十を超えた。もうかなり頭頂への意識が出来るようになってきたのだが、あともう少しこの行程が必要らしい。
ゆっくりとお湯が頭頂に注がれる。
「ふむ。鍛錬の時間は長くないというのに、随分と身体は引き締まっているな。男だからか?」
オレにお湯をかけたリーリが、オレの僧帽筋のあたりを手で撫でる。パシパシと感触を確かめるような手つきだ。
「う、うむ。リアルで腹筋割れている人初めて見たでござるよ」
リーリの次に桶を持ってきた牧村は、お湯を投げやりにオレの頭にぶっかける。そして、まるでそちらが目的かのように腹回りをさすった。指がへそに引っかかる。
「相変わらず良い身体つきだ。控えめに言って私好みだぞ」
桶にお湯を汲んできた団長。オレの頭、というより後頭部に乱暴にお湯を引っかけると、上腕二頭筋を鷲掴みにする。オレの肘の関節を勝手に動かして、力こぶを作らせてくる。
「ほ、本当に逞しいお身体です。この腕で皆様を守ってらっしゃるのですね」
適当な牧村や団長とは違い、丁寧にお湯をかけてくれるパトリシア。顔にかかったり、耳の中にお湯が入ったりしないように気をつけてくれているのがわかる。お湯をかけ終わると、最後にオレの背筋を上から下へ指でなぞっていった。
「ごほっごほっ!」
リュカは何も言わず、オレの背中にぴとりと張り付き、それだけで帰っていく。
いつからか、オレの魔法うんぬんではなく、オレの身体の鑑賞会になっていた。皆が代わる代わるお湯をかけてくれるのだが、その度に何かしら肉体の一部を触られたり、抱きつかれたりする。途中からはメインがそちらになってしまい、お湯も頭頂ではなく後頭部や、酷い時は首とかにかけられるようになった。
「あのさ。手伝ってくれるのはありがたいんだけど、その、一回一回身体に触るのやめてくれないか? 恥ずかしいしくすぐったいんだけど」
「何を言う。生娘でもあるまいに」
「そりゃ男なんだから生娘なわけないだろ」
どうしてオレに問題があるみたいに言われなくてはならないのか。こちとら、途中からお湯をかけられる位置が適当になってきたから、頭頂部を意識するの大変なんだぞ。協力してもらっている手前、おおっぴらに文句も言えないし。
「そろそろかな。では、誰かがダーリンの脳に魔力を込めようか」
「おお。やっとか」
ついにここまで来たぞ。待ち望んだ瞬間は、もうすぐそこだ。憧れの魔法が、笑顔でオレに手を振っているのがはっきりと見えた。
「では、誰に魔力注入してもらいたい? 相性の問題もあるから、けっこう重要なことなのだぞ」
「じゃあリーリで」
『即答!?』
何故か全員大声で反応した。
「ま、待つでござる! 何故、何故我が輩ではないのだ!?」
「逆に何でお前だと思ったんだよ」
ニートのくせにその自信はどこから来るのか。
「団長はなんか嫌だし、牧村は不安だし、リュカは風邪だし、パトリシアは可愛いし。リーリしかいないだろ」
「なんか嫌とはなんだ!」
「パティちゃんだけ理由が変です!」
察するに、これはきっと大切な役回りなのだ。だとするならば、オレが一番信頼のおける者に頼むのは当たり前のことだ。団長に頼めば、後からこれを理由に結婚を迫ってきそうだし、牧村はポカをやらかしそうで不安だ。リュカは体調が悪い。それに、言ってはなんだが、リュカが魔法を使っているのを見たことがない。パトリシアに関しても同様だ。
その点、リーリならば魔法を使っているのを何度も見ているし、仕事に対する実直さも言うまでもない。オレにとって、一番重要な事柄を任せられる相手がリーリだった。
女性陣の羨ましげな視線を一身に浴びたリーリが、少し顔を赤くして前に出る。
「ふ、ふん! べ、別に嬉しくなんてないからな!」
「頼むわ。あ、あとさ」
一つ気になることがあった。
「魔法を脳に直接込めるんだろ? それって痛くないのか?」
実は、オレは注射は苦手なのだ。激痛よりも、ああいうちくっとした痛みとかに弱い。健康診断とか血液検査とかが嫌でたまらないタイプの人間だった。しかも、オレに注射する看護婦さんは決まって怯えていたため、針がブレブレで上手く刺さらないことの方が多かった。注射って、若い看護婦さんよりもおばちゃんの看護婦さんの方が妙に安心感があるよね。
「他人の魔力を注ぎこまれる訳だから、多少は痛いぞ。人によるが、破瓜の痛みくらいだ」
「あんた破瓜の痛み知らねぇだろ」
「だ、ダーリン! それはセクハラだぞ!」
「言い出したのはあんただ!」
いちいち下ネタぶっこんでこないと行動に移せないのか。ほら、あんたのせいで他の女の子皆顔赤くしてるじゃないか。皆それぞれ別々の方向を気まずそうに見ていた。
「で、始めて良いのか?」
「お、悪い。頼むよ」
リーリが獣耳をパタパタさせながら、恥ずかしさを隠すように仏頂面で聞いてくる。よし。オレも心の準備が出来た。いつどんな痛みが走っても良いように、固く拳を握る。
「では行くぞ。三、二、一……」
「っ!!」
がつん! と、バッドで殴られたような痛みを頭頂部に感じた。ぐわんぐわんと脳が頭蓋骨の中で揺れる感覚。明らかにオレの身体とは異なる何かが注ぎこまれた。その、筆舌に尽くしがたい、痛みなのか酔いなのか判然としない感覚に耐えるべく、頭を抱えてうずくまる。オレのそんな様子に、皆も心配そうに近づいてきて、肩を撫でたり背中をさすったりしてくれる。いや待て。誰だ今尻触ったの。オレの尻を執拗に愛撫しているのは誰だ。
心配する皆に混じって変態行為を働く狼藉者にしかし、オレを注意を割けない。とにかく痛いし気分悪いしで最悪なのだ。
しかし、五分ほどダンゴムシのような格好をしていると、だんだん痛みが和らいできた。そして、全身をめぐる血管に温かさを感じるようになる。毛細血管が刺激され、身体が内側から熱くなってくるのがわかる。オレの肌がサウナにいるみたいに赤く火照りだした。
「お、おお……」
「どうだ? 魔力が流れているのを感じるか?」
「感じる……。なんていうか、酩酊感に似てるな」
ポカポカとした程よい温かさは、非常に心地よいものだった。
「よしよし。では簡単な魔法を使ってみようか。リーリ。何か教えてやってくれないか?」
「それは構わないが、何故貴様が教えないのだ?」
「ああ。私は特自魔法しか使えない。ダーリンに教えられるようなものがないのだ」
「特自魔法?」
「その人オリジナルの魔法だ。強力な魔法が多い」
ほう。団長って何でも出来るイメージがあったのだが、出来ないこともあるんだな。なんとなく安心した。
「おい。ではこの紙に円と、私が教える記号を描いていけ。炎を喚び出す魔法だ」
「おう!」
リーリから渡された小さな正方形の紙に、リーリの指示どおりに魔法陣を描いていく。描いている最中に炎をイメージすることが大切なのだそうだ。
「出来たぞ!」
「よし。そしたら自身に流れる魔力がその魔法陣から溢れ出すイメージをしろ。そしてそれが固まったら一言、『炎よ』と唱えるんだ」
全員の視線がオレの手にある紙に集中する。オレも全身全霊をかけて、集中力を総動員して炎をイメージし、そして、体内を流れる魔力を魔法陣に送り込む。
ここだ!
「炎よ!!」
「ポンコツレイヤー!!!!」
全身全霊をかけて、集中力を総動員してポンコツ女神との通信を試みる。自室のはしっこで体操座りするオレは、失意の涙を滂沱していた。
「出てこいポンコツが!!」
『もう! うるさいですよ!』
出やがったな!
「おい! オレ魔法使えねぇぞ!!」
『はい?』
「魔法が使えないの!!」
あの時、「炎よ!」とこれでもかと期待をこめて唱えたが、炎が生み出されることはなかったのだ。何度やっても、他の魔法に変更してみても、オレが魔法を使用することは、一度たりともなかった。
炎の魔法はダメだった。水の魔法も、風の魔法も、光の魔法も、全てダメだった。その辺の低級魔族すら使えるような、もう呼吸と同レベルくらいの簡単さの魔法も、その効果を発揮することはなかった。ただただオレの詠唱が虚しく反響する浴室からは、一人また一人と女性陣が気まずそうに去っていった。
『はい? あの、私に言われましても……。そういうのはお客様サポートセンターにお願いします』
「お役所仕事か!」
オレを転移させたのはお前だろ! ならば、このポンコツに問い合わせるのが一番手っ取り早い。
「どうしてオレは魔法が使えないんだよ!?」
たくさん練習して、色んな魔法が使えるようになって、楽しく暮らすつもりだったのに! リュカやパトリシアと景色が綺麗な場所に行く計画が全ておじゃんだ。
『そりゃあ。江戸川さんがチートをもらってないからですよ』
「なに!?」
『落ち着いて下さい。良いですか? 日本に住む江戸川さんと、このレギオンに住む人々は、肉体構造が違います。それは、人間とチンパンジー位の差異ではなく、それこそ無機物と有機物くらいの大きな違いがあるんです』
そこからポンコツにされた説明を、オレはほとんど右から左に聞き流すように聞いていた。
『大気以外の空気中にある力を取り込む、というのは江戸川さんの世界の生物ではあり得ないことです。ですので、それを取り込んだとしても、それは身体構造の外側だけ。身体の中を力が一巡りすると、そのまますぅっと出て行ってしまいます。もちろん、取り込んだものの処理は行われませんので、従って、魔力に置換されることも、力として扱えることもないわけです』
ぼぅっとした頭では、上手く理解出来ない位難解な内容だった。それでも、一縷の希望を託すように、ポンコツに訴えかける。
「で、でも! リーリに魔力を流し込んでもらった時は、たしかに魔力がオレの身体の中にあったんだよ!」
『それは、ただ流し込まれた魔力ですね。流し込まれたものが身体を一周しただけです。その証拠に、今は魔力を感じないでしょう?』
「そ、そう言われてみれば……」
ポンコツの言う通り、オレの身体は今、あのポカポカした感覚はなくなっていた。元の普通の身体だ。異常のない健康体。だが、異常がないことが逆に問題だったのだ。
『異世界転移をした場合、女神がきちんと転移先に適応出来るようにするのが、いわゆるチートです。ですが、最初に申し上げた通り、江戸川さんには一切のチートを授けておりませんので、魔法は使えません』
「そんな……」
『すみません。先に説明しておくべきでしたね』
異世界転移の醍醐味が、完全に失われた瞬間だった。魔法の世界にやってきたのに、魔法が使えない。そんな、そんなのってありかよ。ならオレは、これから何を希望に生きていけば良いんだ。
この日のために温めておいた全てのワクワク感の喪失は、オレの心に巨大な空白を空けた。この大穴を、いったい何で埋めれば良いのか。部屋の明かりをつけていないせいか、沈みゆく夕日がやけに目に沁みて痛かった。ほろほろと目から溢れ落ちる何かは、涙という形になったオレの希望だった。夕焼け色に染まる部屋の隅っこで、オレはひたすら落ち込んでいた。




