第8話 襲撃の魔術師
森に静かな夜がやってきた。
見上げると蒼い月。
「今日は満月か」
夜空に輝く蒼い月面。
黒いインクをぶちまけた空から俺たちを見下ろしていた。
顔を前に戻すと、暗黒の世界の森が夜風にざわめいている。
満月は魔物たちに様々な影響を与える。
月の加護と呼ばれる力で、魔物自体の能力を伸ばす。
月の満ち欠けに比例するので、満月が最も加護が大きい。
つまり魔物たちの中には、今晩が一番力を発揮できる奴もいる。
いつもより森が騒めいているのは、そういった魔物たちが暴れているからだろう。
だから冒険者たちは基本的に満月の夜に魔物狩りを行わない。
もちろん緊急事態や、腕に自信を持っている奴は別だ。
あくまで基本。従った方がいい位の話だ。
「ユーゴさん。ご飯できたよ」
呼ばれた声に反応して振り返る。
そこには白髪の獣人ヘーリンが立っていた。
さっきまで晩御飯の準備を手伝っていたから、用意が完了したらしい。
「分かった。すぐに行くよ」
「みんな待ってるよ!」
無邪気に駆け出すヘーリンの後を追って、教会に入る。
レッドカーペットを抜けて、竜の神獣の銅像の脇にある扉を開けた。
十数人全員が座れる長机にパンと果物が並んでいる。
焼いた獣の肉もあり、夕方森で狩りをした意味もあったらしい。
ルフは奥に居るから俺は手前に座ることにした。
そして俺が座ったことを確認して、一番奥に座るルプス神父が木製のコップを手に取る。
「恵みに感謝を捧げましょう」
ルプス神父がコップを掲げるとみんな同じようにコップを手に取った。
俺の動きに言わせて控えめにコップを掲げた。
中身は果汁を絞ったジュースだ。
ブドウの様な酸味のある香りもする。
僅かに混じる『何か』の匂いが気になるけど、何か考えずにコップを傾けた。
ルフはコップをテーブルに置き、口をつけていない。
祝いの席で楽しめないとは、損な性格だ。
いや、この場合は俺がルーズなのか。
きっと後でルフに怒られるんだろうな。
確信に近い予想を胸に、テーブルの上に置かれた料理へ手を伸ばした。
「まったく」
ルフは目の前で眠る男に向かって呆れた様子で言葉を吐いた。
夕食後、ユーゴはすぐに眠ってしまった。
教会の奥に設けられた個室に運ぶだけでも一苦労だ。
今はソファーで横になっている。
僅かに肩が動いているが、いつもよりも気配が弱い。
ただ眠っているわけではなさそうだ。
無警戒で飲み物に口をつけるから……
呆れてため息しか出なかった。
夕食の席で出された飲み物には、『何か』が混じっていた。
それを匂いから察したルフは、口をつけないことにした。
ユーゴは気づいていたのに迷わず口をつけた。
免疫機能が常人より遥かに優れる神獣の子は、簡単な毒ぐらいでは死なない。
しかもユーゴの着ている赤い外套は、着用者の自然治癒能力を向上させる機能も付加されているらしい。
相変わらず無駄に高性能な外套だった。
「あの……ユーゴさんは大丈夫ですか?」
振り返ると部屋の扉から顔だけ出したエルレイン。
さっきまで子供たちを寝かすために忙しそうにしていたが、ここに居ると言うことは全員寝かし終えたようだ。
「大丈夫ですよ。身体だけは頑丈ですから」
「冒険者の方はタフなのですね」
エルレインが隣に並ぶ。
ユーゴを見下ろす彼女の口角が僅かに上がった。
「不思議な方ですね。気がつけばこの人のペースに巻き込まれている」
「昔から呑気で酒好きなんですよ。最近は働きたくないが口癖です」
エルレインが口元を隠し、クスクスと笑う。
可愛らしいその姿は、可憐な少女そのものだ。
同じ二十歳なのに自分とは全く違う彼女に少しだけ嫉妬。
「ずっと二人で旅を?」
「はい。もうかれこれ三年くらいは」
「素敵です。大切な人と一緒に世界を旅するなんて」
エルレインの嘘偽りない言葉に少しだけ恥ずかしくなった。
ルフは照れくさそうに頬を掻く。
長いようであっという間の三年間だった。
竜の国の路地裏で出会い、それからずっと一緒に居る。
出会ったばかりの頃は、自分がユーゴのことを好きになるなんて思わなかった。
困っている人を何だかんだで助ける彼の姿に惹かれた。
背中で守ってくれる時は、心の底から安心した。
他の神獣の子と戦う姿を見て、本気で心配したこともある。
死んだんじゃないかと不安になった夜もある。
それでも、その度に彼は笑って帰って来た。
だから……
「悪くないですよ。今の生活も」
本音だった。
二人で居る時はユーゴを独占できるし、彼と居る時間が好きだ。
何気ない日常でのやりとりが、こんなのにもどうしようもなく。
普段の日常を思い浮かべていると、突然現実へと引き戻された。
「シスター!」
振り返るとそこには肩で息をするヘーリンの姿。
額から流れた汗がどれだけ焦っているかを示している。
「ヘーリン! あなたまた寝床を抜け出して……」
エルレインが彼に駆け寄る。
どうやらヘーリンが寝床を抜け出すのは日常茶飯事らしい。
「ご、ごめんなさい! だけどそれどころじゃないんだ!」
「誤魔化さない! ちゃんと寝ないといけないでしょ!」
「怪我した人が居るんだ! 助けてあげて!」
エルレインの言葉も聞かず、ヘーリンが端的に用件だけ言う。
さっきまで怒っていたエルレインが血相を変えて飛び出した。
ルフもその後を追い、教会の外へ。
「大丈夫ですか!?」
エルレインが地面に倒れる男に近づいた。
腕から血を流して、男はグッタリと地面に横たわっている。
「うぅ……魔物だ……近くまで来ている……」
男の掠れた声。
どうやら彼は森の中に現れた魔物にやられたらしい。
ルフはすぐさま瞳に魔力を集めて、地面に落ちた男の血痕を探した。
あった!
森へと続く赤い斑点が瞳にボンヤリと浮かび上がる。
この後を辿って行けば、男を襲った魔物まで辿り着けるはずだ。
「あたしが魔物を仕留めます。エルレインさんたちは、安全な場所に!」
ルフが必要な指示を出して走り出す。
闘術で脚力を強化すれば、後ろから聞こえる「待ってください!」の声もすぐに遠くになった。
まさか、ユーゴと予想していた事態に初日の夜からなるとは……
血痕を追って、夜の森を駆ける。
闘術を使って強化した瞳は、暗闇の中でもよく見える。
ルフは血痕が途絶えた場所で足を止めた。
円形に開けた森の中。
その中央に溜まった血痕があるから、男は四方から襲われたらしい。
つまり、今自分は男と同じ状況に居るのだ。
ルフは素早く腰の後ろに差した短剣を抜いた。
それぞれの手に持った短剣を逆手に持つと同時に、周りの茂みから錆びた短剣や斧が飛んでくる。
動体視力を強化したルフには、その軌道がハッキリと見えた。
丁寧に一つずつ、短剣で確実に叩き落としていく。
無効化された武器たちが、足元に溜まっていった。
攻撃が止んだ。
直後に後ろから殺気。
覚えのある気配を感じながら、身体を反転させる。
暗闇の中に紛れる黒い肌。
夜を保護色にした色に心の中で舌打ち。
正体は昼間に相手した黒いゴブリンたちと同種の個体だった。
正面に二体。棍棒を振り上げる黒色の魔物。
奇襲したつもりだろうが、今の自分には対応可能な範囲だった。
僅かに身体を後退させ、鼻先一枚で振り降ろされた棍棒を躱す。
隙を見せた二体のゴブリンの首にそれぞれ短剣を突き刺した。
「大人しく寝ときなさい」
短剣をそのまま横に振ると、ゴブリンたちの首が宙に舞った。
無くなった首先から真っ直ぐ伸びる黒い血。
活動する術を失った胴体が地面に転がった。
「いやはや……見事な腕前だ」
男の声。
物音のする方を向くと本を片手に一人の男が茂みから出てきた。
白いスータンを身に纏った茶髪の男。
顔のシワから考えると、歳は三十歳くらいだろうか。
中年に差し掛かった男の瞳が闇の中で動く。
「あんたが黒幕?」
「私はただの通りすがりの魔術師です」
魔術師を自称する男は、深く頭を下げた。
長杖の様な魔術媒介があるようには思えない。
普通の魔術師は、補助的な役割を果たす魔術媒介と呼ばれる物を持っている。
長杖なんかはその代表だ。
所持せずに魔術を使っても、ある時ほどの効果は望めない。
もちろん高位の魔術師は媒介なしでも大規模な魔術がつかえる。
もしかして目の前の男もそのタイプなのだろうか。
「『流星の女神』と称されるルフ・イヤーワトルを相手にするとは……人生何が起こるか分かりませんね」
「そうね」
男の言葉に短く返事。
闘術で強化された足で地面を蹴った。
一歩で男との距離を詰めて、短剣で心臓に狙いを定める。
相手の話に付き合う理由も、攻撃を待つ理由もない。
先手必勝。半殺しくらいにして後で話を聞けばいい。
「おやおや。短気な方だ」
男が手に持つ本を開く。
何をする気か知らないが、この距離なら結界を展開する時間も無い。
ルフは迷わず、男の心臓へと短剣の切っ先を伸ばした。
――当たった!
そう直感したと同時に掌を固い感触が襲う。
男へ伸ばした短剣が動かない。
まるで何か見えない壁に短剣が防がれたようだ。
「結界……だけど……」
自分の攻撃を防いだ半透明の壁は結界に間違いない。
しかし展開するまでが早すぎる。
法術に分類される結界は、緻密な魔力制御が要求させる。
魔力を複雑に混ぜ合わせて展開するような時間は無かったはずだ。
まるで魔力を流したと同時に発動したように感じだった。
「残念でしたね。しかし、これが私の力です」
男が指をパチンと鳴らす。
開いた本が輝き、男の周囲に風属性の魔術が発動した。
吹き荒れる鋭い風のカマイタチに身体を引き裂かれてはひとたまりも無い。
ルフは大きくバックステップ。
男から距離をとって短剣を構え直した。
「流石ですね。警戒心というか、勘が鋭い」
「その本、魔導書ね。しかも高速発動型の」
ルフが男の持つ本をジッと見つめた。
魔力を流すと光る本。
魔導書と呼ばれる魔具に間違いない。
色々な用途に使われているが、目の前の男の物は魔力を流すと任意の魔術が発動するタイプらしい。
詠唱も魔力を操作する必要もない。
ただ魔具に魔力を流すだけ。
それで魔術師とはよく言ったものだ。
ルフは鼻で笑うと短剣を男へ向けた。
「覚悟はいい?」
「強がったところで、貴女をここで足止めするのが私の役目。存分にやらせてもらいましょう!」
男が再び指を鳴らす。
警戒心を強めたルフの周りの土が隆起した。
出てきたのは肌の黒いゴブリン。
間違いない。この男は魔物を操れる。
「さぁ行くのです! 可愛い下僕たちよ!」
男の合図でゴブリンたちがルフの周りを囲んだ、
そして距離を徐々に詰めて来る。
数にして数十体。
普通の冒険者なら絶体絶命のピンチも、今のルフにとっては日常だった。
短剣を握り直し、周りのゴブリンたちを睨みつけた。
こいつらを教会に行かせるわけにはいかない。
ここで仕留める。
深呼吸を繰り返し、集中力を高めた。
不要な情報がカットされ、情報処理能力が飛躍的に増大。
そして目の前の敵に向かって腹の底から叫んだ。
「来い!」