第8話 粉雪の舞う灰色の空へ
「っ……」
テミガーは後頭部に残る痛みで目を覚ました。
身体を動かそうとしたら、手足が壁から伸びる鎖で繋がれている。
どうやら捕まってしまったらしい。
「目を覚ましたか」
部屋に響く男の声。
相手の碧眼がこちらに向けられる。
手に持ったグラスの赤ワイン揺らして、男が口元を歪めた。
「随分と素敵なエスコートですわね。ブラギッハ・ヴォ―ニア会長」
「ほう。この状況でもまだ減らず口をたたけるのか」
椅子から立ち上がったブラギッハが、ゆっくりと歩いて来る。
テミガーの目の前で立ち止まり、ワインに口を付けた。
舌でしばらく風味を楽しんだ後、プッとテミガーに吹きかけた。
顔に赤ワインがついて、テミガーが不快感から眉間に皺をよせた。
「こうしていると、ただの小娘だな。神獣の子も哀れなものだ」
「貴方……どうなっても知らないわよ」
言葉を返した瞬間、テミガーの頬に強い衝撃が走った。
「ぐっ」
殴られたことを理解したあと、口の中で血の味がした。
そして腹部に衝撃。
息ができずに、肺から空気が逆流した。
「女の分際で、生意気なのだよ。貴様は……!!」
ブラギッハは無表情で、振り下ろされる拳には、狂気にも似た怒りが乗せられていた。
何発も殴られるが、闘術で身体の硬度を上げて致命傷を防ぐ。
もしも普通の拳で相手が殴っているのなら、とっくに骨が砕けている。
しかし相手の拳はなんの変化もない。
魔法か、魔具による補助か。
何かしらの強化が施されている。
殺す気でこちらを殴っているのは間違いないらしい。
「少しは身に染みたか? 自分も所詮は『ただ女』だということが」
何発も殴られ、さすがにダメージが蓄積したのか、テミガーはまだ俯いたままだ。
口内を切って溢れた血が、口端から一滴ずつ床に落ちた。
「……『ただの女』なら……どれほど楽だったか……」
俯いたままそう返したテミガーの表情は、誰にも見ることはできない。
心をへし折るにはまだ足りないと判断したのか、ブラギッハは再び拳を振り上げた。
その直後、部屋の扉が開いて奴隷として買った女が入ってくる。
「ブラギッハ様。やはり流星の女神とその従者の行方は分かりません」
その言葉にブラギッハは振り上げた拳を身体の横に戻した。
彼が振り返ると美しい白髪を揺らしたヘイムがいた。
ブラギッハは報告を終えた彼女を手招きで傍に呼び寄せる。
「はい。仰せのままに」
小さな声でそう返して、ヘイムが主の男へと近づいてく。
目の前で立ち止まった美少女の白髪をブラギッハは乱雑につかんだ。
怒りのまま上へと髪を引っ張られ、ヘイムが苦痛に顔を歪めた。
「分からないだと? 殺し損ねたことを寛大にみてやったのに、行方すら追えんのか?」
「も、申し訳ありません。しかし従者の男は私を疑っていました。前日に接触したブラギッハ様にも、疑いの目を向けているかもしれません。」
「だから待っていても奴らは来ると?」
ヘイムが何度も頷く。
呆れたようにため息を漏らして、ブラギッハが髪をつかむ手を放した。
ヘイムの華奢な身体が糸の切れた人形のように折れて膝をつく。
怒りが収まらないのか、ブラギッハは彼女の後頭部に足を置いた。
力を入れると床にヘイム顔面が接する。
鎖につながれているテミガーから見ると、ブラギッハにまるで土下座をしてるようだった。
「その判断をしたからと言って、捜索を打ち切っていいとは言っておらんな?」
「はいっ、おっしゃる通りですっ」
「勝手な判断をしおって、貴様のような馬鹿な奴隷を持つと主人は苦労するのだよ。男を惑わす身体しか取り柄のない、お前のような女を傍に置いている私に恥をかかせる気かね?」
「いえ……決してそのようなつもりは御座いません……」
「いいのか? 今以上に妹の『イア』が壊れてしまっても? 私としても貴重な人材を失うのは心苦しい。だからこうして貴様に機会を恵んでいるのだぞ?」
「はい……寛大なお心には、いくら感謝しても足りません」
回答に満足したのかブラギッハはヘイムの後頭部から足を降ろした。
そして一息ついて、ヘイムの顔面を蹴り上げた。
ヘイムの身体が宙に浮いて、背中から床に落ちて、苦しそうに息を吐いた。
「感謝しているのならば、命に代えても流星の女神とその従者を討ち取れ」
「は、はい……仰せのままに……」
消えそうな声でそう返したヘイム。
ブラギッハは振り返り、拘束されたテミガーと再び向き合う。
「さて、貴様の友人に困っておる。解決は時間の問題だがな」
「このまま姿を現さないかもよ?」
「それでも問題はない。今から一時間おきに貴様の集めた遊女たちを一人ずつ処刑していく。天馬の国のエルフの王子も我らの手中だ。誰が真の支配者か皆が理解することだろう」
狂喜の笑みを浮かべるブラギッハ。
血に飢えた獣のような表情は、完全に人の道を踏み外していた。
「……可哀そうな人……」
「今のうちに言っておけ。いずれ貴様も私の物になるのだ」
ブラギッハはそう吐き捨てて、踵を返した。
痛みでうずくまるヘイムの隣を通り抜けて部屋を出て行った。
テミガーは思わずため息をしてしまった。
随分と情けないことになっている自分に向けてだ。
「ヘイム。身体は大丈夫?」
声をかけられたヘイムの肩がピクッと揺れる。
テミガーに話しかけられるとは思っていなかったらしい。
「敵の女の心配ですか? ずいぶんと余裕ですね」
「知らない顔じゃないしね。目の前で蹴られた子が居たら、心配するでしょ?」
ヘイムが震える足で立ち上がる。
口端から垂れる血を拭い、碧眼を細めた。
「貴女のそういうところが私は嫌いです。平然と他人に手を差し伸べるところが……助けの求め方を知らない、淫魔の国の女に平然と接する貴女が……」
「貴女が特に不器用だからよ。何か抱えているのなら、先に言って欲しかったわ。こんな事態になる前に……」
言葉を聞いたヘイムの眼つきが鋭くなる。
拳を固く握り、放つ殺気は怒りへと変わっていく。
「分かったような口を聞くな! 神獣の子として恵まれた貴女に私たちの何が分かるの!! 心の中では見下して手を差し伸べていたくせに!!」
感情のままに、言葉を吐き出すヘイムは、自身の頬を伝う涙に気がついているだろうか。
テミガーは彼女の怒りを表情一つ変えずに受け止める。
同じ国の出身の自分が何を言っても、ヘイムは聞き入れないと思ったからだ。
「ここであたしが何を言っても無駄でしょうね。ただ……世の中には無償で手を差し伸べるバカも居るのよ」
利害関係でしか人間関係は生まれない。
無償で人助けをするなんてバカのすること。
自分もそう思っていた。
彼に……彼らに会うまでは……
「そんな奴が居たら、本物のバカですね」
ヘイムはそう言って振り返る。
扉へと向かう彼女の背中は、どこか悲しさを帯びていた。
本当は助けてほしい。苦しんでいることに気づいてほしい。
まるでそう語りかけてくるような……
「本物のバカであるあたしの友人によろしくね♪」
聞こえたはず。
けれどもヘイムは何も反応を示さず、扉を閉めて出て行った。
残された部屋でテミガーは深呼吸。
殴られた身体中から痛みが返って来た。
試しに魔力を練ってみるが、鎖を破壊できるほどの魔力は感じられない
どうやら手足を壁とつなぐ鎖が魔力を制限しているらしい。
自力での脱出は止めておこうと思い、魔力を抑えた。
全力を出せば脱出は可能だろうが、今ジタバタしても仕方がないと思ったからだ。
どうせ今頃ユーゴとルフが動いているだろう。
「はぁ……あたしもバカの一人か……」
テミガーは思わず呟いた。
何故ならユーゴとルフが助けに来ることに、なんの疑いも自分が持っていなかったから。
たまには助けを待つ『ただの女』もいいかなとも思い始めている。
テミガーはそうして目を閉じた。
いざという時の為に、体力を温存するために……
「クシュン!」
「大丈夫?」
「誰かが俺の噂をしているな」
鼻をすすり、ルフにそう返した。
「外套返そうか?」
「アホか。お前が持っとかないと結界を展開できないだろうが」
白い外套の前を閉め直す。
今俺たちが居るのは商業都市の路地裏。
小さな橋の下なので粉雪が当たらないが、寒さは軽減されない。
ヘイムが魔術で幻影の館を吹き飛ばす直前、ルフが赤い外套に手を添えて魔力を流して結界を展開。
遊女たちを守ったが、自分たちを守る分まで展開が間に合わなかった。
そこで俺が爆風に合わせて火の魔術を放ち、炎熱を防いだ。
しかし二人で遠くまで吹き飛ばされた。
軽傷だが負傷したことには変わりはないので、隠れながら身体を休めている。
特にルフは火傷を負ったため、赤い外套の能力と俺の治癒魔法で短時間での回復を目指していた。
「よし。こんなもんか。まだ痛いところあるか?」
「ううん。もう大丈夫。ありがと」
治癒魔法を解除して、ルフの隣に座った。
近くに落ちていた木製の棒を手に取り、魔術で火をつける。
身体を暖めるには物足りないが、ないよりはマシだろう。
「で、どこに殴り込むをかけるの?」
ルフが身体を寄せてきてそう聞いてきた。
「めんどくさいから、このまま逃げるって選択肢は?」
「そんなつもりないくせに」
心の中をすでに見抜かれていた。
残念ながら攻撃を受けて、何もせずに引き下がってやるほどお人好しではない。
テミガーのことも気になるし、相手に殴り込みをかける気満々だった。
一応いつものやり取りをしてみたが、時間の無駄だと怒られる前に話を前に進めよう。
「ヘイムが裏切り者だったとは、正直予想外だったよ。おかげで昨夜の差し入れを何も考えずに飲んじまった」
「相変わらず無警戒過ぎるでしょ。まぁあたしはちゃんと周りを警戒しながら寝てたけどね」
「人の膝枕でヨダレたらして寝てたやつが何言ってんだ」
ルフに肩を殴られた。
「人の寝顔を見て楽しむなんてさいていっ」
「もう見飽きた顔だったけどな」
もう一発肩を殴られた。
「まぁルフの寝顔は今夜見せてもらうとして……たぶんヘイムたちはブラギッハ・ヴォ―ニアの所だろうな」
「あんたが言ってた禿のおじさん? 昨日は確かヘイムが接客を……まさか」
「そのまさかだよ。ブラギッハがあのタイミングで来たのは偶然じゃない。自然な形でヘイムと接触できる時を狙って来たんだ」
俺とテミガーが魔石を調べている時、ヘイムは差し入れを持ってくるついでに細工を施した。
自分とブラギッハの会話を聞かれないように消したのだ。
ただその事に関しては、引っかかるところが一つある。
「どうやって特定したの? まさか魔石にそのまま会話が残されていたわけじゃないでしょ?」
「魔石の会話が消されてたんだよ。しかも俺たちの目の前でその作業を行った。不信感を持たれることを覚悟の上でな」
「あぁ……なるほど。そりゃあんたが珍しくやる気なわけだ」
ルフがいたずらっぽく笑う。
嬉しそうなのは、俺が珍しくやる気だかららしい。
「失礼な。俺はいつでも全力だぞ」
「はいはい。そう言うことにしときましょうか」
ルフが肩を竦める。
俺の言うことは適当に流しやがって。
彼女に考えが筒抜けなのは、いつからだろう。
思い当たる点がなくて、後頭部をガシガシと掻いた。
「とにかくだ。あのクソ野郎をぶっ飛ばす」
「了解。存分に暴れてやるわ」
テンションの高いルフに思わず苦笑してしまった。
橋の下から出て、粉雪の舞う灰色の空を見つめる。
攫われたテミガーのことや、操られたアレラトのことも心配だ。
多分同じ状況になっても、俺は助けにはいくだろう。
知り合いが危険な目にあっていて、自分に助ける力があるのだから。
だけど……ヘイムは合図を俺たちに送っていた。
まるで小声『助けて』と言うかのように。
だから俺の目の前で魔石の操作だって行った。
本来ならば、裏で操作すればいいことをわざと見える場所で……
「なぁヘイム。お前はどうして俺たちに助けて欲しいんだ?」
灰色の空へと問いかけた言葉は、欲望の街へと消えていった。




