第10話 シスターエルレイン
エルレインは竜の国のとある山奥で生まれた。
自然に囲まれ、物心がついたある日、両親を失った。
突然襲ってきた魔物に両親は惨殺された。
今でも忘れられない。家の中で肉塊に成り果てた両親の姿を……
返る場所を失ったエルレインは、盗賊に奴隷として買われた。
男のたちの玩具にされて、身体を穢される毎日。
いつ死ねるのか、そればかり考える日々だったが、奴隷契約により自殺すら許されない。
心が壊れていくのがハッキリと分かった。
次に盗賊たちが自分にしたことは、殺しの技術を教えることだった。
対人を想定した暗殺や身のこなし。
必要のないモノだと分かっていたが、壊れた心は既に拒むことを忘れていた。
沢山の人を殺し、多くのモノを奪った。
盗賊たちを殺して逃げることも考えたが、逃げた所で行くあてもない。
返るべき場所はとうの昔に失ったのだから。
凄惨な日々を十五歳まで過ごした。
普通の女の子が送るような日常は、何処かに置いて来てしまった。
そんなある日、竜聖騎士団により盗賊団が壊滅する。
エルレインは奴隷だからと言う理由で保護された。
契約は解除。
晴れて自由の身になったが、自分のしたことの過去は変えられない。
罪人として独房へと入った。
脱獄しようにも生き方が分からない。
行く場所もない。
毎日が暗くて、奴隷になったばかりの頃の感情が蘇る。
――早く死のう
そう思った自分を引き取りたいと名乗る人物が現れた。
それがルプス神父だ。
言われるがまま盲目的について行った自分を待っていたのは、教会でシスターの役割を果たすことだった。
こんな穢れた自分が神に祈っていいのかどうか。
それすら分からない。それでも過去とは違う日常の中で、エルレインは次第に感情取り戻していった。
ルプス神父は親の居ない子供たちを次々と引き取った。
面倒を見ていく中で子供たちは自分をシスターと慕ってくれる。
嬉しく思う反面、複雑な感情を持ったのも事実だ。
自分はそんな高貴な人間ではない。
身体は既に穢され、手は血で赤く塗りつぶされている。
それでも子供たちの前では笑顔で居ると誓った。
自分はどうなってもいい。子供たちが無事なら……
彼らが元気でいてくれるのなら……
「シスター! シスター!」
誰……? その名で呼ぶのは……
「死んだらダメだ! 目を覚まして!」
声に反応して瞼を開けた。
霞む視界の中に見えるのは、白髪と碧眼の獣人。
「ヘーリン……怪我はない?」
「オレは大丈夫。ユーゴさんが買ってくれた外套のおかげで」
彼がそう言って茶色の外套に視線を移す。
確か土属性が付加されているから、かなり耐久値の高い品だと言っていた。
ルプスに殴られたはずなのに、彼が軽傷なのはそのせいらしい。
最初に聞いた時はそんな高価な品をどうする気だと思った。
戦闘に巻き込まれることなんて滅多にないと言うのに。
ユーゴさんはこの事態を予見していた?
頭が回らない。
血が足りていないらしい。
エルレインは腹部に魔力を回した。
肉体を活性化させて、さらに治癒魔法を発動させた。
刺された腹部の傷を塞ぐ。
「大した法術だ。やはり才に恵まれておるな……貴様は」
震える足で立ち上がり、顔を上げた。
目線の先にはルプスと雇われた傭兵たち。
才に恵まれていると言ったルプスは、殺気を放っている。
――殺す気か……
傷口を塞いだが、失った血がすぐに回復するわけではない。
気を抜けば意識が飛びそうだ。
さらに全身の関節から痛みが送られてくる。
まるで身体が突き刺さる苦痛に顔を歪めた。
「ヘーリン。皆を連れて逃げなさい」
「嫌だ! ここから逃げても行くあてなんてない! ここがオレたちの家だ!」
「言うことを聞きなさい! 状況が分からない貴方じゃないでしょ!」
「でも……でも……」
背中越しに聞こえる若人の声。
これから未来へと伸びる若葉の命を繋がなければならない。
一人でも多く……
「ヘーリン。貴様はその女の事実を知っているのか?」
ルプスの低い声。
細い眼の奥で茶色の瞳が鈍く輝いていた。
全てを暴露する気らしい。
事実を知れば子供たちは自分をどう思うだろうか?
もうシスターと呼んではくれないかもしれない。
かと言って、もう手遅れだ。
ルプスは若き獣人へ言葉を向けた。
「貴様らのシスターはその昔奴隷だった。多くの人を殺し、盗みの限りを尽くした盗賊だ。汚れた女なのだよ」
口端を吊り上げたルプスが再び両手を広げた。
傭兵の男たちが剣や斧の武器を手に取る。
手負いの自分がどれだけ時間を稼げるだろうか。
「シスター……ルプス神父の話ホント……?」
背中から聞こえるヘーリンの声は、ひどく震えていた。
初めて見た人の死と慕っていた者の裏切りの連続。
幼い精神には負荷が大きすぎる。
だから少しでも安心させるために、エルレインは出来るだけいつもと同じ声で言った。
「ええ、事実よ。今まで秘密にしていてごめんなさい。本当な貴方たちに慕われるような女じゃないの。だけど……」
――生きて
子供たちに生きて欲しい。
ただそれだけだった。
エルレインはボロボロの身体に鞭をうち、短剣構える。
血の足りていない頭を強引に回して、目の前の状況を整理する。
目の前にはルプスと傭兵の男たちが十数人。
もしかすると外で待機している者もいるかもしれない。
まともに戦えば一切の勝ち目はない。
ただし流星の女神と呼ばれるルフが戻って来れば、まだ可能性はある。
彼女ならこの絶望的状況を覆せるかもしれない。
巻き込んだくせに他人に頼ることを考えてしまう。
しかしそれ程までに状況は切迫していた。
「ほう……まだ目が生きているな。この状況で助かるとでも?」
「どんな時だって希望はあります」
「クックック。さしずめ、流星の女神が戻って来ればとでも考えているのだろう。確かに彼女が現れた時は焦ったぞ。神獣の子に並ぶ大物が、こんな辺境の地に居るなど想定外だったからな。しかし今頃彼女も我々の仲間に足止めをくらっている。しばらくは戻ってこないだろう」
どうやらルフが外に飛び出したことも計画の内らしい。
全てあの男の掌の上。
「どうしてですか? ルプス神父、貴方ほどの人がどうして!」
エルレインの悲痛な叫びが教会に響く。
本性を見た今だって信じられない。
この教会で五年間、一緒に過ごして来た彼がこんな凶行に出たこと、子供たちを裏で攫っていたこと全てが。
その声を聞いてルプスはニヤリと笑った。
他人を見下すその表情は、エルレインが見たことの無いものだった。
「どうして? 面白いことを聞く」
ルプスが消えた。
いや、ただ前に出ただけだ。
しかし消えたと錯覚するほどの速度、そして気がつくと目の前に彼の顔があった。
「あ……」
「どうした? 近づかれて声も出ないか?」
直後に腹部へ衝撃。
背中まで突き抜ける威力に息が詰まる。
ボキボキとあばらの骨が折れる音もした。
「が!」
「シスター!」
足の力が抜けて身体を支えられない。
膝から崩れ落ちるが、ルプスはそれを許さなかった。
エルレインの白い首を腕一本で鷲掴みにして持ち上げてみた。
いくら小柄な女性とは言え、軽々と持ち上げるその力に戦慄する。
足先が僅かに床から浮き、息が出来ない。
このままじゃ本当に……
「シスターを離せよ!!」
ヘーリンが飛び出して、右拳をルプスへと振る。
生まれつき本能的に闘術が使える彼の拳は簡単に人を殺す。
だから普段は使ってはいけないと言い続けてきた。
凶器となった小さな拳がルプスの腹に直撃した。
しかし相手の表情は何一つ変わらない。
眉一つ動かなかった。
「いい動きだ。生まれつき闘術が使えるとは、素晴らしい。だが……それだけだ」
無意味だと言わんばかりの口調。
ルプスの蹴りがヘーリンの身体に直撃する。
小さな身体が一瞬浮き、顔を歪めた。
「ヘーリン……!!」
「あ……うぁ……」
自分の問いに返事もせず、その場に蹲るヘーリン。
動くことが出来ないのは、間違いなく骨が折られている。
「さぁ! どうする!? まだ抵抗するか!?」
「ぐ……」
ルプスを睨みつけるが、今の自分に何ができる?
身体はボロボロでまともに動くことすらままならない。
ヘーリンもやられて寝ている子供たちだけでも逃がすことは難しそうだ。
もうダメだ。心が黒い影に覆われる。
結局子供たちすら、誰かを守ることなど不可能だったのか。
感情が瞳から溢れる。
「泣くほど悔しいか。だがどうにもならないことが世の中あるのだ。身を持って知るがいい!」
ルプスがエルレインの首を掴む腕を振るった。
身体が浮遊感に包まれ、天井に吊られたシャンデリアと向き合う。
このまま床に背中を打ち付け、倒れればもう立ち上がることは出来ないような気がした。
「大丈夫ですか?」
声がした。
その瞬間、誰かに身体を受け止められた。
眩しい。シャンデリアの光の中で赤い瞳が輝いている。
「ユーゴ……さん?」
「遅くなってすいません」
彼が申し訳なさそうに笑う。
頬を掻いた彼が、床にゆっくりと寝かしてくれた。
「ユーゴさん……お願いが……」
――ヘーリンを助けて
そう言おうとした時には、ユーゴはヘーリンを抱きかかえて傍に居た。
何が起こった? ヘーリンはルプスの近くに居たはず。
いつ動いて、いつ助けた?
ユーゴの動きが全く見えなかった。
何か魔術を使ったとしか思えない。
「エルレインさん。彼をよろしくお願いします。あとこの外套着て大人しくしといて下さいね」
ユーゴが自分の傍にヘーリンを寝かして、赤い外套をかけてくれた。
ただの外套かと思ったが、ジワリ魔力が全身を駆け巡り、痛みを和らげてくれる。
「貴様……どうやって」
ルプスが獣の様な鋭い視線でユーゴを睨む。
赤髪の男はその視線に肩を竦めた。
「お前が盛った毒は、ヘーリンを仮死状態にしたやつと同じだろ? ちょっと量が多かったけど、一度見た毒を体内で解毒するなんてわけないさ」
「なるほど。ただの冒険者だと甘く見ていた。さすがは流星の女神の付き人と言ったところか」
「お褒めの言葉嬉しいねぇ」
ユーゴがクツクツと笑う。
笑いながら男は前に出た。
頼りになるのかどうか分からないその背中。
本当にこの状況を分かっているのだろうか?
「ユーゴさんっ、外でルフさんが戦っています。子供たちを連れて逃げて下さい! ルフさんと合流して……それで……」
「私を置いて逃げてくれってか?」
こちらを振り向かず、ユーゴはそう言った。
肩を鳴らして、その場から動く気配はない。
「逃げるなんて、最初から選択肢にないですよ。後は任せてください」
力強く、自信を持って彼はそう言った。
「逃げても逃げられると思うのか? この状況で……」
ルプスが言葉を言い切る直前、ユーゴの姿が消えた。
そして雇われた数十人の男たちが吹き飛ぶ。
「なに!?」
ルプスが自分の後ろに居た傭兵たちの方を振り向くと、そこにはユーゴが立っていた。
このコンマ数秒で距離を詰めて全員倒したらしい。
「すごい……」
ポツンと呟いた。
あれが人間に可能な動きだろうか。
「貴様っ」
「残念だったな。変態神父」
ユーゴが拳を横に振るった。
ルプスの身体が教会の壁へと飛んでいく。
石造りの壁を破壊して、ルプスの身体が沈んだ。
「いやぁ、静かな夜が来ましたね」
こちらに戻って来たユーゴが笑顔を見せる。
親しみやすい雰囲気は、この一瞬で相手を倒した男と同じ物とは思えなかった。
「ユーゴさん、あなたは一体……」
彼の口が動いた。
しかし出てきた言葉は、教会に響く爆音にかき消された。
ルプスが倒れた場所の瓦礫が吹き飛び、緑色の魔力が可視化されている。
「この私を本気で怒らせたいらしいな!」
ルプスの身体がボコボコと隆起して、変貌を遂げる。
茶色の毛並が身体を包み、縦に長い瞳孔へと瞳が変わった。
その姿は人狼。
知性のある魔物にして、人の肉を好む者。
「ウェアウルフである私を本気にさせたこと、あの世で後悔するがいい!!」