第6話 マネージメント科・秋原明菜、始動
「だいぶお疲れじゃなぁ。どうしたん?」
4組球場のベンチで休んでいると、聞き慣れた広島弁で話しかけられる。
「投手陣は扱いが酷くて。新本もバッティングピッチャーやってくれるって言うには言ったけど、「疲れた~」って言って温泉行っちゃったし」
「それはそれは。時に今、広川監督にノックしてもらってるところじゃけぇ、たまにはみんなと一緒にノックでも受けるかのぉ?」
一時休憩にベンチに戻ったのであろう神城は、スポーツドリンクを仕事上がりの一杯のようにがぶ飲みし始める。
「いや。様子見に来ただけ。一休みしたらブルペンに行かないといけないんだよな。輝義がようやく変化球の制球が利き始めたから見てくれって。明らかに大した進化してなかったけど。その後には前園、大森、友田」
「シャレにならんなぁ。ほんとうに大丈夫なん?」
「大丈夫、大丈夫。そんな事より、野手陣の様子はどう?」
「どうと言っても見ての通りじゃけん。言いようがない」
グラウンドでは広川によって内野外野合同でノック中。褒め言葉や、時には強い口調での指摘も飛ぶ。
「今のはもっと積極的に守備すれば追いつけた。もっと思い切っていけ。ただ、回り込んでもアウトにできる時は回り込め」
「レフトぉぉぉ。内野がもっと積極的に守備できるようにカバーに走れぇぇぇ」
「おっ。今の守備はよかったぞ。今の感覚を忘れるなぁぁぁ」
「いいカバーだぞセンター。すぐにボールサード――ナイスボール」
「じゃろ?」
「だな」
久しいような気もするが日常的な光景であった。
「全体的に守備が上手くなってきた気がする」
「じゃろぉ。特に二遊間なんて固かろう。上手いと思うで?」
「あ、落とした」
「……猿も木から落ちるって言うけぇ」
ファーストミットを手につけながらベンチから出る神城。宮島を見ながらグラウンドを指さす。
「で、宮島はいかんのじゃろ?」
「ブルペンだからな」
「ほいじゃったら頑張ってきんさい。うちの勝利は投手陣と、それをリードする宮島にかかっとるって言うても過言じゃないけぇ」
「う、うん」
なんとなく言いたいことは分かるものの、あまり標準語訳に自信がない宮島。適当な返事をしておいて彼を見送る。
「っしゃあ。広川監督。復帰するけぇ、お願いします」
「よし。いくぞ、神城。はい、ファースト」
広川の打球は一二塁間。逆シングルで捕球の神城は2塁へ送球。2塁ベース上で受けたショートは、1塁ベースカバーのセカンドへと送球。
「神城も、いや、野手陣は頑張ってるな。あいつに勝利は投手陣と僕が握ってるって言ってたし、こっちも頑張らないとな」
強く両手を握った宮島は左手を開いて見つめる。14人の投手のボールを受け続けた左手は既に真っ赤で手の皮も破けている。だがここでめげるわけにはいかなかった。投手陣を支えるべく土でユニフォームを黒くしながら練習しているみんなのために、扇の要であるキャッチャーがへこたれることはできないのだ。
「あいつの変化球を見てやらないと。もしかしたらちょっとフォームを直すだけで今度の試合で使えるかもしれないし……競馬で万馬券当てるくらい運が良かったらな」
「あぁぁ、体が怠いぃぃ」
4組大改革3日目。1組との2連戦を明後日に控えた木曜日の昼過ぎ。ついに宮島の体に限界が近づきつつあった。なんせ練習では14人の投手陣を一手に引き受け、自分の練習も欠かせない。試合になれば唯一のキャッチャーとして全試合フルイニング出場中。体だけではなく、投手陣のリードや、いかに選手を成長させるかと言った考えによって、頭の方にも疲労がたまっていた。
さすがにギブアップ。今日は午後から休もうと先生に伝えシャワーを浴びて着替えたまではよかったが、それで中途半端にスッキリしたせいで、ロッカールームのベンチで横になったまま動きたくなくなってしまった。
「このまま寝たいけど寝たら風邪引きそうだもんなぁ」
寝たいけど寝るわけにはいかない。
「てか明後日の試合大丈夫かな?」
永遠と独り言をしていると、唐突にロッカールームのドアが開かれた。別に自分1人専用のロッカールームでないためあれこれ言う気はないが、急に開けられると驚くものは驚く。ゆっくりとドアの方を振り向くと、そこにいたのは自称・マッサージが得意な秋原明菜であった。
「かんちゃん。だいじょうぶ?」
「なんとか」
「怪我とかじゃないよね?」
「明菜は少々心配性」
宮島は寝転んだままで秋原に言い返す。週の始めはお互いに少々壁があり、宮島は秋原をさん付けで呼び、秋原は宮島を君付けであったが、今となっては宮島が秋原を明菜と下の名前で呼び捨て、秋原は宮島を神主が由来の『かんちゃん』と呼んでいる。お互いに打ちとけるのが早かったのは、宮島の人の事を知ろうとするキャッチャーとしての職業柄、そして秋原の明るく誰とでも仲良くなれる性格ゆえである。
「しかし、明菜。前までロッカールームに入る時は慎重だったのに、気付いたら普通に入って来てるなぁ」
「慣れたからね」
練習2日目。男子が着替え中のロッカールームに秋原が間違えて入室したときは、お互いに免疫がなかったせいで、赤壁の戦いのおける曹操軍並みの混乱状態に陥ったのは懐かしい記憶である。もっとも今はお互いに慣れてしまい、男子は女子に裸を見られても気にせず、女子も男子の裸を見ても気にしない。ただしその逆――男子が女子の着替えを見た場合がどうであるかは言うまでもないだろう。
「それでどうかした? 忘れ物とか?」
「ううん。広川先生から『1人ギブアップ。至急応援(対応)を要求されたし』って4組のマネージメント学科生にメールが来たから、私が立候補して来ましたぁ。私の得意なマッサージ技術、お見せいたします」
「何、そのメール」
あまりにも大げさな文面である。
「それはそうと、背中?」
「背中だけど……」
答えては見るものの女子にやってもらうのは抵抗がないわけではない。しかしそんな事とはいざ知らず、秋原はベンチごと宮島の体をまたぐと彼の尻の上に座り込んだ。彼女の女の子らしい暖かく柔らかい感覚が伝わってきて宮島は焦る気持ちもあるが、直後にそういった邪念は消え去る。
「背中ってこのあたりかなぁ?」
「背中って言うより気持ち腰かな。キャッチャーになると中腰が多くて、あぁそこ」
場所を指示すると、彼女は体重を掛けながら「んしょ、んしょ」と幼い高めの声を出しながらマッサージを始める。自己紹介の時に妄想をしていた男子諸君にとっては、ちょっとしたデジャヴである。もっとも宮島はその時、新本がどんなピッチャーだったかを思い出すのに必死で妄想はしていない。
「うあぁ、すげぇ気持ちいぃ」
「でしょ? だてに、球児のお兄ちゃんに、こき使われてなかったよ?」
力を掛けながらであるため言葉も途切れ途切れになるが、律儀に言葉を返してくる秋原。
「へぇ兄貴、高校球児なんだ」
「弱小校、だけどね。地方の1回戦で、負けるくらいの」
「じゃあ明菜も野球に詳しいんだよな」
「一応、私も野球の専門学校生なんだけど?」
「悪かったよ」
「分かればいいよ。許してあげる。それで他に痛い所とかない?」
「左腕かな。ずっとボール受けてたから」
「分かったぁ」
秋原はその場に座ったままで宮島の左腕を手に取ると、ゆっくりとマッサージを始める。
「うわぁ、凄い。ガチガチ。張りすぎ。どんな練習したらこうなるの?」
「うちの投手陣がワガママ連中で。朝から晩まで投球練習。長宗我部の変化球を受け続けたり、寂しがり屋の新本の相手をしたり。それに野手陣の練習時もキャッチャーで」
「ご、ご愁傷様です。でも、怪我は無かったんだよね?」
「昨日、広川監督に言われて医務室で診断を受けたけど、体に異常は無し。少々疲れすぎなだけで」
「あはは……疲れ過ぎって言われたんだ……」
本当に気の毒そうな顔をして話をやめる。そうなると彼はこの場をもたせるのが難しくなってくるわけで、意味もない適当な話をひねり出す。
「時に明菜」
「なぁに?」
「僕の事どう思う?」
それを聞いた瞬間、宮島自身「しまった」と感じてしまった。
「え? え? え? な、何、こ、このタイミングで何を」
案の定、戸惑いを隠せない秋原。宮島はあたふたしていて可愛らしい顔を横目に眺めつつ、謝ってから訂正。
「今度は言葉足らずで悪かったよ。『野球選手としての』僕の事、どう思う?」
「そ、そう言う事かぁ。そう言う事なら……そうだねぇ。言うなれば」
「言うなれば?」
「肩弱い。キャッチング下手。バッティング下手。足もそこまで速くない」
「正直に言うなぁ」
否定はしない。同年代の野球部と比べればまだしも、ここではリード力以外がほぼ壊滅的なのは自覚している事である。
「でも、私はかんちゃんみたいな人、好きだよ?」
「へ? な、お前、いきなり何を言って」
「ふふふ。さっきの仕返し~。かんちゃんみたいに他人を引っ張る力を持っている人って好きだよって意味。リード力って言わば他人を引っ張る力だからね」
面白おかしそうに笑いながら秋原は腕のマッサージを終えると、手のマッサージも始める。
『(うわぁ……明菜の手、凄く暖けぇ。しかも柔らかくて気持ちいぃ)』
両手で持って揉んでいるのだが、それが宮島にとっては手を繋がれているようで少し照れ臭ささもある。それに加えて先ほどの質問で顔が赤くなっているのだが、秋原は気付いていない。
「引っ張る人が好きって、明菜ってむしろ人を引っ張るタイプじゃないかな?」
「よく言われる。でも私だってたまには引っ張ってほしい時くらいあるんだよ?」
「ふ~ん。モテるだろ」
「全然。転勤族であまり長く一か所にとどまることが無かったって言うのもあるかもだけど、ほとんどモテなかったよ?」
「意外だな。明菜って性格良いし、可愛いのに」
「ありがと。でも可愛いって言われたのは初めてかなぁ」
「彼氏は?」
「できたことないよ? 彼氏いない歴15年。そろそろ16年」
宮島はなんとなくその理由が分かった気がしたが、気のせいである気もする。
彼女は話もほどほどにマッサージに集中。
「どう? 気持ちいい? って、さっき気持ちいいって言ってくれたよね」
「うん、すげぇ気持ちいい。本当に上手いよなぁ」
「でも、みんな私のマッサージを受けてくれないんだよね。みんな他の男子のマッサージを受けてて……」
「みんなが言うには、異性にやってもらうのが抵抗あるんだと。だから男子にやってもらってるみたいだな。別に同性愛だの、BLだのなんて考えはないからな」
言い方次第で変な方向に取られかねないと悟った宮島は、間髪置かずに補足する。
詳しくは異性にやってもらう事に加え、秋原にやってもらう事に抵抗があるのだ。秋原自身は可愛いと言われたことはないが、長曽我部を始めとして秋原が可愛いと口にしている男子は多い。つまり秋原とは緊張してしゃべったり、マッサージを頼んだりできないのだ。
「私、腐女子ではないからそこまで釘刺されなくてもいいんだけど」
背中、左腕に続いて今度は右腕も。
「でもかんちゃんは私でいいの?」
「僕は明菜でいい。って言うか明菜の方がいいかな。他の男子勢は力が強くて効くけど痛いのと、背中に乗られると凄く重くて重くて。要は痛い」
「私は痛くない?」
「ほどよく力が弱くて気持ちい。体重も軽そうで背中も重くないし」
「それでも50近くあるけどね。最近、ちょっとふんわりしてきた気がするし」
普通の女子なら隠すであろう体重を平然と告白した秋原。それも、最近大きくなってきたという情報もおまけにだ。
「男子に比べれば、な?」
「そっかぁ。じゃあ、今度からは私がやってあげた方がいい?」
「できればお願いできる?」
「任せて。私が忙しくない時だったらいつでもやってあげるね。どうせみんなほとんど男子にやってもらってるから暇だし」
実質的な専属マネージャー獲得。
「これでピッチャー丸抱えできるね」
「ブラック企業の予感」
徹底的に働かせるつもりらしい。
「それとそれとそれとそれと」
「それとは1回でいいと思うぞ? よく噛まずに言えたな。舌の回転どうなってんだ?」
「東京特許許可局。青巻紙赤巻紙黄巻紙。かえるぴょこぴょこ3ぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこ6ぴょこぴょこ」
早口言葉は得意なようで。
「本職のカウンセラーじゃないから効果を期待されても困るけど、相談事にも乗るから何かあったら気兼ねなく相談してね」
「キャッチャーがもっとほしい」
「それで~」
「無視かよ」
「選手事情は私に言われても困るし。そうじゃなくて、息抜きってことで休みの日に一緒に遊びに行ってもいいよ」
「なんだそりゃ。デートか?」
意地悪そうに聞いてみると、意地悪そうに返される。
「デートがいいならデートだと思ってもいいよ?ただの遊びって事なら遊びでもいいし。どっちにしてもかんちゃんの意識の問題であって、私自身はやることに違いはないし。多分」
「多分?」
「多分。とりあえず~、暇なら遊びに誘ってって事。疲れてるのを無理することは無いけどね」
宮島も疲れているのに遊びに行く気はまったくない。そんな時間があるくらいなら布団にくるまって昼寝していたいくらいだ。
「よく覚えとく。その時が来るかどうかは分からないけど。それはそうと、ひとつ、仕事頼んでいいかな?」
「仕事?」
「今度の試合に備えて、1組の選手のデータ収集。頼める?」
「OKだよ。任せて」
雑談をしながらもマッサージが進み、気付いた時には体が軽くなっていたミステリーに立ち会う事となった宮島。これで練習の疲労を大きく回復させた彼は、2日後の試合に備えて明日の練習に参加できそうであった。