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プロ野球への天道  作者: 日下田 弘谷
第1章 逆境からのスタートダッシュ
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第1話 入学

 春。プロ野球が開幕し、日本中の野球ファンが今年のペナントレース、各球団のスタートダッシュに沸くなか、プロ野球キャンプが終わって人が去った高知県では、ある学校が入学式を迎えていた。

 土佐野球専門学校とさやきゅうせんもんがっこう

 去年、あくまでも高校の部活である高校野球と一線を画し、プロ野球選手養成を目的とする専門学校が開かれた。今日が第2期生の入学式となっていたのである。

「今日からプロ入りへの2年間が始まるんだな」

 紺色ブレザーの真新しい基準服を着こなして鏡の前に立つ。

 目の前に移るやや筋肉質の男はさすが本気でプロ野球入りを目指している自分だ。などと自分にうぬぼれそうになりつつも、こっちの世界になんとか戻ってくる。

「まだ少し早い、かな?」

 部屋の中の時計を見てみると、まだ学校に行くのは早い時間帯。暇を持て余した彼は、感慨深く鏡の横に掛けられたユニフォームに触れてみる。白地のメッシュに青色の縦ライン。所属学年・クラスによって色は違うのだが、縦縞であることと、胸元に書かれている『Tosa Baseball School』の文字は一緒。彼にとっては今着ているブレザーよりも、むしろこっちの方が学生服だ。

 背番号は原則本人の希望。同クラス内で被った場合は抽選なのだが、彼は無競合で第1希望としていた27を与えられることとなった。27の由来は東京ヤクルトスワローズの誇る名捕手である。

「なんにせよ、この背番号が2年間の相方になるんだよな」

 ちょうど昨日のプロ野球の結果が終わったところでテレビの電源を切り、待ち遠しくなった彼は早めに学校に行くことにした。硬式用にと新調したキャッチャーミット、さらに学校で安く買った木製バット、そして打撃用マイヘルメットを眺めつつ、電気を消してドアを開けた。

 暖かくも、肌寒さを感じる風が部屋に吹きこむ。

「さてと、行くかぁぁぁぁぁ。絶対にプロになってやらぁぁぁぁ」

 元気よく声を上げて学校へ――

「あ、やべっ。鍵閉め忘れてた」

 行こうとしてすぐに戻る。なんとも鍵も心も閉まらない(締まらない)人間である。



 合格発表と同時に知らされた所属クラス。彼は合格通知を片手に、自らの教室を目指す。

「ここか」

『1年4組』

 扉を開けて教室の中に入ると、多くの新入生たちが担任の到着を待ちわびていた。みんな落ち着かずに学校へと早めの登校をしたようである。既にグループができあがり盛り上がっている人たちもいれば、うまくその中に入れずにあたふたしている人、緊張感を紛らわすために読書にいそしむ者など多数。

「なぁなぁ、なぁなぁ」

「ナ、ナンデスカ?」

「ガチガチ過ぎ。緊張しているのかもしれないけどガチガチ過ぎ」

 早めに学校に来た宮島健一(みやじまけんいち)は適当な席に腰かけると、前に座っていた同じく新入生の男子生徒の背中を叩いた。

 これといって用事があるわけではなく、ただただ担任が来るまで暇だったのだ。もっともその相手は、アニメにおける典型的外国人のようなカタコトになるほど緊張気味である。

「だって、だってよぉ。緊張するって、マジで」

「まぁまぁ、落ち着こうよ。えっと……名前は……」

「ま、マイネームイズ、チョーソカベテルヨシ。じゃなくて、テルヨシ、チョーソカベ」

 高校1年生相当の年齢とは思えないほど体格のいい彼は、あからさまなカタコト英語で返答を示す。彼がわざとらしく浮かべる笑みは、ひきつっていることでかえって怖さを与え、さらに彼特有のつりあがった目がその怖さを増幅させる。

「落ち着けって。僕は宮島健一。右投げ右打ち。ポジションはキャッチャー」

「えっと、アイアムピッチャー」

「ダメだこりゃ」

 滑舌壊滅で何を言っているのかいまいち分からなかった宮島だが、机の上に置かれたノートの記名を見る限り、『長曽我部輝義(ちょうそかべてるよし)』と言う名前であること、そして先ほどの『アイアムピッチャー』で守備位置も特定できる。

「ピッチャーってことは、これから僕の相方……なのかな?」

 視線を上の方にずらして深呼吸。宮島に話しかけられた長曽我部はゆっくりと顔を元に戻す。

「そ、そうですね」

 緊張はほぐれてきたようだが、まだ完全には緊張感が抜け出せていないようす。まさかの敬語である。

「しかし長曽我部って名前は呼ぶにしては長いな……輝義って呼んでもいいかな?」

「お、OK。じゃ、じゃあ、宮島……宮島……よし、神主で」

 ほんのり落ち着きが足りないが、まともに会話が成立してきた。緊張感には弱いが、立ち直りはなかなかに早いようにも思える。

「ってなんで神主?」

 問いかけると、彼は咳払いをして小さく息を吸い込んだ。そして、

「宮島さんの神主が~おみくじ引いて申すには~きょ~うもカ~プは、勝~ち勝ち勝っち勝ち。つーわけで宮島さんの神主で」

「急に流暢に歌い始めてびっくりしたぞ。て、カープファン?」

「広島出身の阪神ファン」

「そいつは大変だ。2度にわたる主力のFAでボッコボコに叩かれた予感が」

「うん。その予感は間違ってない。けど、なんとか保障の選手がなかなかと説明して事なきを得たな。あの時は。ところで神主はどこ出身?」

「東京」

「本当は?」

「東京寄りの埼玉」

 野球という共通点を持った2人組。野球の話をし始めた途端に仲良くなり、緊張感も完全になくなりつつあった。

「そういえばピッチャーって言ってたよね」

「言った」

「と言う事は野球科、だよな?」

「当然」

 確認後、反応に迷って安堵とも落胆とも違う、相槌感覚でため息を漏らす宮島。

 土佐野球専門学校はプロ野球選手養成機関であるが、入学者全員がプロ野球選手を志望するわけではない。

 1学年は40人クラス×4組の160人。そのうち最大の96人を有する科がプロ野球選手養成コースの『野球科』である。しかしそれ以外に、プロアマ問わず野球の審判員を目指す『審判養成科』が16人。球団経営や野球ビジネスに携わる仕事を目指す『スポーツ経営科』が24人。マネージャーやトレーナー、メディカルスタッフとして、もしくはスコアラーとして情報収集管理を生かして選手を補佐する立場を目指す『スポーツマネージメント科』が24人。メインの野球科の他にも、野球・スポーツ関連の3つの学科が存在するのである。

 そのため体育系専門学校の割にむさ苦しい男達ばかりではなく、女子生徒も少数派であるものの在籍している。女子が在籍する理由の1つとして野球科が『女子枠』を持っていることも挙げられるが、こちらは取るに足らないほど少数派中の少数派である。

「あの子結構好みかも」

「ふ~ん。僕は正直あまりなぁ……」

 話しのネタが早くも尽きた宮島と長曽我部が当たりを見回すと、ガタイのいい男子に混じって、あきらかにスポーツのできなさそうな小柄な女子も席に座っている。『スポーツ経営学概論』なんて本を読んでいるメガネの女子は明らかに野球科ではない。それ以外にも女子は少数ながらいる。

 そうして異性に飢えて野球に恋した男子2人がクラスの女子にうつつを浮かしていると、教室の前のドアからは、生徒以上に体格のいい大人が入ってきた。顔の見た目は40歳前後。だが未だに生気に満ち溢れているというか、どことなく若々しさがある。

「よ~し。全員揃っているな。遅刻者はいないな。遅刻者は手を上げろ~……はい、誰もツッコまないよね。そうだよね」

 残念そうにしながら男性が教室を見渡して人数を適当に数える。そしてそれが終わると、彼はフェルトペンを手にホワイトボードへと向かう。

「俺が1年4組の担任、そして野球科4組の監督をすることとなっている。広川博(ひろかわひろし)だ。間違えて1年4組の教室に来たやつはいないか。間違えていたらただちに正しい教室に動け。今数えたら1人多いぞ」

 彼がそう言うと、1人の体格のいい女子があわてて教室を出て行く。新入生らしい、ある種の風物詩である。しかし残った正しい4組の生徒はそんな事を気にも掛けなかった。むしろ気になったのは『広川博』と言う名前。それを聞いて教室の一部がざわめく。その一部には長曽我部も含まれていた。

「どうした、輝義?」

「どうしたもこうしたも、神主は知らないのかよ。お前、どこファン?」

「東京ヤクルト」

「じゃあ仕方ない、わけあるかぁぁぁ。広川さんって言ったら、去年阪神を引退した名外野手だろ」

「同姓同名じゃないの?」

 『小鳥遊(たかなし)』や『我孫子(あびこ)』のように珍しい苗字で一致したならともかく、『広川』なんて苗字は珍しいものではなく、『博』と言う名に至ってはありすぎて困るほどではなかろうか。

 もっとも、

 ありがちな姓+ありがちな名=かえって珍しい名前

 のようになることもあったりするわけだが。

「はいはいは~い。広川さん、じゃなくて広川先生」

「はい。そこの君。なにかな?」

 宮島に疑われた長曽我部は手を上げて広川へと質問する。

「先生って、去年までプロにいた広川選手ですか?」

「はいかいいえかで言えばYESです。はい、やっぱり誰もツッコまないよね。はいかいいえじゃないじゃん。って」

 本当の事のようである。

「さて時間もないし、俺の紹介もほどほどにしてみんなの自己紹介といこうか。それじゃあ、窓際前列の生徒から順番に」

「はい。俺は――」

 広川がその生徒を指さすと、指された生徒は元気よく立ち上がる。そして大きな声で名前と学科、そして投打や守備位置も紹介し、それだけでは少なく感じたのか、さらに目標のプロ野球選手も告げた。それ以降の生徒は最初の生徒が行った自己紹介を基準とし、投打や守備位置の無い野球科以外の生徒は戸惑いつつもなんとか自己紹介は和やかに進んでいった。

 その生徒に若い人が多いのはこの学校のひとつの特徴。プロになり損ねた高校球児や大学球児、自由契約になったプロ選手の逃げ場にされないように、『高校野球・大学野球経験および、NPBや独立リーグなど各種プロリーグ所属経験のない、義務教育修了をしている15~17歳』と入学条件にあるのだ。4組の場合は9割が去年度に中学校を卒業したメンバーである。

「――です。特技は……って長い?そんなにしゃべった?」

 ちょっと話しただけで「よろしくお願いします」と言って紹介を打ち切る生徒もいれば、既にクラスの雰囲気になじんで饒舌な生徒もいる。しゃべりたらなさそうに彼が不満げに椅子へと座り、次の明らかに気弱そうで小柄な女子生徒が立ち上がる。見た目からして野球科の生徒とは思えず、大方、野球経営科かスポーツマネージメントあたりだろうと全員が推測する。

「あの……えっと……」

 ほんのり涙声に近い。するとその弱弱しい声を聞いて宮島がふと思い出す。

「あれってたしか……」

「神主? 知り合いだった?」

「知り合いってわけじゃないけど。僕の記憶が正しければ、入学試験で野球科を受けてた?」

「野球科を? 入学試験って言ったら実技だよな?」

「うん。たしかポジションはピッチャーで、名前は忘れたけど性格は……」

 彼女は緊張しすぎてついに一線を越えてしまったのだろう。机の上に置いていたメモ用のノートにシミを作り始める。

「凄い泣き虫」

「泣き虫って」

「長打食らって、2連続フォアボールの後に大泣き。僕がなんとか慰めてダブルプレーとセンターフライで無失点だたけど」

「バッテリー組んだのかぁ」

「キャッチャー志望が7人って少なかったみたいだからな。だから入学試験の時は十人くらいのボールを受けたよ」

「ふ~ん」

 自己紹介で泣き出す生徒がいた事は広川にとっても不測の事態であっただろうが、そこはさすが大人である。優しい声で落ち着かせて座らせ、名簿を手に自己紹介を代理する。

新本(にいもと)ひかりさんだね?」

 一応確認を取り、彼女の頷きに頷き返すと、適当に情報を抜出して話し始める。

「新本ひかりさん。野球科で、ポジションはピッチャー。右投げ右打ち。これ以外、趣味とか特技といったあたりはやめとこうかな。個人情報とかプライバシーもあるし」

 ほぼ最低限。自己紹介が淡々と進んでいい空気だったものもあっという間に乱され、まるで死のロードに突入した途端に順位を落とす阪神タイガースのごとし。

 だがそのような空気を、本物の死のロードを20回以上経験した元阪神の担任はものともしない。不死鳥のごとくよみがえらせにかかる。

「さぁさぁ、次行ってみよぉ。時間無いぞ。次、レッツGO。時間はあるから十分に語ってね~って、どっちやね~ん。とか誰かツッコんでほしかったけどなぁ。はい、紹介どうぞ」

「はい。スポーツマネージメント科の秋原明菜(あきはらあきな)です。好きなプロ球団は、昔は近鉄、今は楽天です。特技はマッサージです、よろしくお願いします」

 はっきり聞き取りやすく明るい声で自己紹介をした秋原明菜。

 身長160センチ前後。太っているわけでも痩せているわけでもなく、極度のグラマーと言うわけでもなくペッタンコというわけでもなく、中の上~上の下を絵に描いたような体型。茶髪の髪型が肩上で切られているのはこの学校の性質ゆえ特出すべき点ではない。むしろそんな普通の学校ならば埋もれてしまうような平凡要素はさておき、彼女の特徴と言えばその顔立ちだろう。目が大きく、大きく高い声を発する口は小さめ。美しいというよりは可愛いが似合い、男子に人気が出そうなタイプである。

 そんな可愛らしい見た目や声以上に男子の気を引いたのは……

『(((マッサージだとぉぉぉぉ)))』

 心の中で精一杯叫ぶ男子陣。


 練習後の休憩時間。

「はぁ、疲れたぁ。いてて、腰が」

「大丈夫? マッサージしてあげようか?」

「本当に頼んでいいかな?」

「任せて」

 男子生徒がベンチにうつ伏せになると、ちょうど尻のあたりに座り込む秋原。暖かい体温がほんのり伝わってきて、さらには小柄な体型ゆえの、絶妙な体重がマッサージの気持ちよさも助長させる。

「どうですかぁ? 気持ちいですか?」

「うん。凄く気持ちいよぉ。あっ、もっと上。うぅぅ」

「んっしょ、んっしょ」

 背後から一生懸命な声と、振動が伝わる。


「お~い。そこと、そこ。鼻血出てるぞ~」

「え、マジで?」

「うわっ。かなり出てる。ちょっと誰かティッシュ貸してぇぇぇ」

 2名、出血。

 エロい事を考えて鼻血が出ることは医学的に根拠が無いのだが、絶対にありえないという事も無いようである。

「それじゃあ、約2名鼻血が出たところで次行こう」

 泣き出す者、スケベな事を考えて鼻血を出した者、十人十色、もとい四十人四十色の紹介や反応を含みつつ自己紹介は続いた。



 基本的に入学初日は授業と言う名の練習は無く、設備の利用方法や学校案内がメインとなっている。

 まず1クラスに1つずつ与えられた野球場。両翼100メートル、センターまでは120メートルとプロ並みであり、基本的に観客扱いはないため客席はせいぜい2000人分程度だが、外野芝生スタンドを解放すればそれ以上の収容も可能。バックスクリーンにはLED式の電光掲示板、さらに外野は選手寿命を考え天然芝。ベンチ裏には男女別ロッカールーム、ミーティングルーム、リリーフピッチャーのためのブルペン、ちょっとした室内練習場まである。

 それだけかと思いきや、1階が芝生の張られた多目的スペース、2階にブルペンの『室内練習棟』までもが4棟も存在するのだ。それに加えトレーニング機器の揃ったトレーニング場、医師が常駐の医務室、プールに温泉、食堂もあるのだから驚きである。

「それでこれらの設備はこの学生証をこのようにカードリーダーにかざせば、例え休みの日でも使えるようになっています。もちろん使用料はいりません」

 1年4組の新入生の前で説明する広川。彼がカードリーダーに自分の教員証をかざすと、ドアからロックの外れる音がした。

「ふっふっふ。つまり学生証1枚で食いたい放題……」

「ただし食堂は有料ですよ?」

「くっ、手を打たれていたか」

 食い意地の張った男子生徒にもしっかり警告。周りから笑い声が起こる。

「もっとも奨学金として君たちの口座には生活に困らない程度にはお金が振り込まれているので、無理にバイトしたり、ひもじい生活を送るようなことは無いと思います。野球に集中できる環境はしっかり学園が作っています。ただし、お金の扱いには気を付けてくださいね? 使いきっちゃったら次の月まで水とモヤシで過ごすことになっちゃいますよ?」

「「「は~い」」」

 1人残らず手を上げての返事。まるで幼稚園の遠足である。

「……あれ? 先生、質問」

 審判養成科の生徒が挙手。

「なんですか?」

「奨学金って返さないとダメなんですか?」

「いいえ。貸与式です。と言うのも実は去年までこの制度はありませんでした。しかし、学費だけは出してやるから生活費くらいは自分で稼げという親が多く、せっかくこの学校に入ったのにバイトに追われて野球ができない生徒がいたのです。そこで学園側は、授業料と生徒の年間生活費をまとめて学費として納入してもらう方法を取りました。奨学金って言ってはいますけど、要はキャッシュバックですね」

 そのため授業料そのものは高くなったが、学園は企業の協賛金や広告料なども同時に集めたため、そこまで大きく跳ね上がることはなかった――と言う話は、スポーツ経営科が後々習う事になる授業内容である。まずその他の科には関係のない話だ。

「それと1週間の日程ですが、原則として火曜日から金曜日が授業。土日が学内リーグ戦で、月曜日が休日となります」

「しゅ、週休1日制!?」

 学生の1人が驚きの声を上げ、周りに動揺が走る。しかしそこで首を振って訂正する広川。

「たしかにそうなりますが、学内リーグ戦の日は試合時以外自由時間となりますので、完全休日が1日。半日の休日が2日で実質週休2日制です」

 言い切った後であたりを見回す。

「えっと、とりあえず初日のチュートリアルは以上ですね。他に質問はありますか? 無い場合はこれで解散となります」

「質問」

 宮島は手を上げる。

「はい、なんでしょう?」

「今日からここの設備は使えますか?」

「もちろんです。今日からでも練習できますよ」

 生徒たちから歓声が上がる。野球に恋する野球好き集団である。野球ができるならすぐにでもやりたい。

「ですが」

 先生は強い口調で全員の視線を集めた。

「怪我はしないように。野球が上手いだけではなく、健康管理もしっかりしたうえでプロですからね。休むべき時はしっかり休んで無茶はしないように。俺も、プロで怪我をした時は本当に辛かったですからね。ファンからの励ましの手紙を受け取った時は、嬉しいやら、情けないやら」

 ただ休むべき時は休め。だけでは無理する人もいただろう。しかしその後に続く元プロ野球選手としての体験談が全員に事の重さを伝える。

「以上です。他に質問は……ありませんね。何かあったら俺の携帯電話なり、学園の事務所に行くなりしてください。もしくは先生や先輩に聞くのも手ですね。それじゃあ解散」

 先生が解散を告げると、クモの子が散るようにみんなどこかに行ってしまう。ことは無かった。むしろ広川元選手の前に集まり、サインをくださいとせがんでいるようだった。

「さて……神主。練習、いかね?」

「その前に寮に行って道具を取ってこないと。まさか今日から練習できるとは思ってなかったから」

「ごもっとも。俺はグローブくらいなら持ってるけど、よくよく考えたら練習着置いてきてるし」

 そう返した長曽我部に視線を移し、すぐに彼の目を見る。

「そういえば長曽我部って右投げか。左投げだったら面白かったんだけど」

 宮島のその言葉を聞いて長曽我部が目を丸くした。

「あれ? 違った?」

「そうだけど……なんで分かった? ペンを右手で使っていたとかなら、矯正された可能性があるから分からないだろ」

 日常生活で使うもの。ペンや箸などは矯正されて右だがスポーツは矯正されず、また有利であるため左。そんな人は珍しくないため、そういった物事で右投げ左投げを確認する事はほぼ不可能である。

「これ。因みに左投げって言ったらぶん殴ってるとこだった」

 宮島が左肩から掛けられたエナメルバックを指さす。

「左投げは左肩から、右利きは右肩から重いカバン掛けたらいかんからなぁ。肩は大事にせにゃいかんぜよ?」

「なぜに土佐弁? ここ高知だからいいけど」

 彼の切り返しにも耳を貸さず、ふとあたりの生徒を見回し数字を数え始める。

「1、2、3、4、5……5人」

「5人?」

「右にカバンを掛けてるやつ。つまり左投げと推測できる奴。軽いカバンだったり手持ちだったり、そもそも何も持って来てない奴もいるからそれ以上いるかもしれないけど。それにマネジメント科とかも混じってるし」

 できれば左投げのほとんどが野手ではなくピッチャーならいいなと希望を持ちながら、道具を持ってくるために一旦帰路に着いた。

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