2-15(60)夜の散歩
玲衣亜さん、伊左美さん、靖さんの三人が異世界にやってきたのはおよそ半年前の九月末のこと。
その目的は、玲衣亜さん曰く「ドキドキ、ワクワクを探すこと」らしい。靖さんは成り行きとのこと。なんだかはっきりしない理由だけど、いまは、『牡牛の午睡』の支店的なものを向こうの世界に出店するのが目標なんだって。
異世界を探索する理由の一つには、かつての転移の術師の遺書ともとれる言葉に共感を覚えて、というのもあるみたい。
その遺書は転移の術のカードに同梱されていたもので、そのカードを偶然発見したのが異世界来訪の契機になったとのこと。
爺様の兄の遺書について、爺様はほとんど触れなかった。
そのことが少し気になったけど、あえて私が触れるべき事柄でもないので、沈黙を守る。
あと、虎さんは三人が異世界に来ていることは知っているけど、こっちには居ないみたい。“虎さんが知っている”と聞いて驚きを隠せない爺様。そりゃ、会議のときの虎さんには、異世界について知っている素振りなんて全然見られなかったからね。
それで三人して『牡牛の午睡』で働いて、仲良くがんばってるんだと思うと羨ましいようでもあり、面倒臭そうでもあり、ただ、そういう無邪気な発想で異世界に留まっているのだとしたら、無碍にこの人たちを向こうの世界に連れ戻さなくてもいいような気さえする。三人にもすぐに戻る気はないみたいだし。
爺様は穏やかな表情で、三人の言葉にも極力同意してみせていたが、ときどき表情に陰りが差すことがあった。
異世界と向こうを行き来している人物の正体と目的を掴むのが爺様の目的だったけど、これからの議会の動きを考えると、正体が知り合いだったとなれば気持ちも複雑だろう。おそらく、爺様も本心ではこの三人に向こうの世界に早く戻ってほしいと思っているに違いない。
爺様は向こうで銃が発見されたことをはじめ、議会が招集されたこと、これから犯人探しが始まることを話した。
三人はそれぞれ深い溜め息を吐いた。
「こっちに居場所ができたと思ったら、次は帰る場所がなくなっちまった、ってな。」
伊左美さんが自嘲気味に笑う。
「だが、幸い、現時点で伊左美たちが犯人だと判っているのはオレだけだ。いまなら難なく元の鞘に収まることができるだろうが、どうだ? 帰る気はないか?」
一瞬の沈黙のあと、口火を切ったのは玲衣亜さんだった。
「戻るつもりはない、っていうか、戻れないね。そんなよく判りもしないような理由じゃ、納得できない。」
確かに、「異世界は独自の秩序で成り立っているから、侵害すべきではない」という過去の判決だけでは、説得力に欠ける。現に、異なる秩序で成立している聖・ラルリーグとコマツナ連邦を例に見ても、完全に国交を断っているわけではなく、部分的ながら交流を続けている。異世界の調査が全盛だった当時の聖・ラルリーグがどのような状況だったか知らないけど、いまや当時の判決を妥当とする根拠はなくなっているのでは?
爺様と玲衣亜さんはしばらく話し合ったけど、玲衣亜さんが爺様に説得されるはずもなく。また玲衣亜さんは理屈責めとでもいうように、爺様の話の合点がいかない点を挙げてはその論を否定して、さらに自前の理屈への同意を爺様に促して……。なんだか子供の痴話喧嘩って感じ。
あ~あ、爺様の気も知らずに、ここで爺様を言い負かして一体なんになるんだろう? もう少し爺様の言うことに耳を傾けてくれてもいいのに、と思う。
とはいえ、玲衣亜さんの話し方は厭な感じだけど、言ってることは至極真っ当だ。こちらの世界と向こうの世界を行き来してきた身としては、玲衣亜さんの意見が正で、爺様の意見が誤って感じかなぁ。まあ、爺様の意見には多分に親心的なものが含まれているのだろうから、理屈じゃないんでしょうね。
「まったく、若い者のパワーには敵わんな。」
爺様がとうとう折れてしまった。
酒瓶にわずかに残っているお酒を手酌でグラスに空けて、一口舐める爺様。
そして、ゆっくりと話し始める。
「今回……、オレはこの件に積極的に関わるつもりはないし、玲衣亜たちの言い分も理解している。」
玲衣亜さんの前に置かれた煙草に手を伸ばし、煙草を取り出す。
「だからあえて玲衣亜たちを追い込むようなことをするつもりはないが、議会の動きを止めることもできない。」
そう言って、マッチを擦って煙草に火を点ける。
三人は神妙な顔つきでその様子を見つめている。
「今度、見知った人間と出会ったときはもっと慎重になれ。今回、オレはただの爺としてお前たちに会いに来たが、もし次、また来ることがあれば、そのときは完全に敵方の人間だからな。」
玲衣亜さんと伊左美さんがゆっくりと首肯した。
靖さんは若干青ざめているよう。
爺様は三人の反応を確認すると、灰皿に煙草を押しつけて火を消して席を立つ。
そして、踵を返すと同時に「邪魔したな」と言って玄関へと足を向けた。
私も一礼して爺様のあとを追う。
どこへ向かうという当てもなく夜道を歩きながら、爺様に尋ねた。
「あれでよかったの?」
「ああ。」
「ふーん。」
「伝えるべきことは伝えたし、そのうえでのあいつらの判断だからな。」
「そんなもんなんだ?」
「それに……。」
「なに?」
「それに、玲衣亜が言ってたように、確かにオレの知っているこの世界と、いまのこの世界は違う世界だ。交流するメリットも多かろうとも思う。とはいえ、交流の末には争いがあり、それは如何ともしがたい問題でな。わざわざこちらから悲劇の種を拾ってくることはないってのが、当時の議会の決定だったわけさ。」
「じゃあ、当時はある程度交流を図っていて、そして異世界の人たちと争いが起こったってわけね?」
「そういうことだ。」
「玲衣亜さんたちにはそんなこと話さなかったじゃない? なんで?」
「せっかくの若者のやる気に水を差すようなことはしたくないからさ。」
「なるほど。」
「時代も変わったし、玲衣亜たちの小さな試みがどういう結果になるか、楽しみでもあるんだ。それを阻止しようとする古めかしい組織。そんな組織に籍を置く異分子。いろいろあり過ぎて、今回の件がどう決着するか、現時点では推し量りようがない。だから実のところオレは、今回の件は高みの見物を決め込みたいんだよ。」
「また争いが起きて、誰かが泣くことになったとしても?」
「それはそれで、いまの時代を生きる者が選択した結果さ。」
「その悲劇を止めることが、爺様の動き次第でできるんだとしても?」
「そう人を責めるなよ。オレはもう歳なんだ。」
「無責任って言葉が、思い浮かんだわ。」
「逆に、異世界と交流することで利益を得られる人も多いかもしれない。特に、さっきのパン屋みたいなのが向こうにオープンしたら、みんな喜ぶと思う。玲衣亜たちがこちらとあちらを行き来していること自体は褒められたことじゃないかもしれないが、やろうとしていることに罪はない。」
「まあね。」
「葵はどうなんだ? もし、異世界との交流が公に認められれば、一人でじゃなく、友達と一緒にこっちに遊びに来れるようになるぜ?」
「ま、それも悪くないかもしれないけれど、私は異世界を独占してたい派だからね。私以外の向こうの人たちにはご退場願いたいところなの。」
「ふん、転移の術者ならではの回答だな。だが、交流が始まって転移の術を大っぴらに使えるようになれば、異世界への転移で大金を得ることだってできるようになる、かもしれない。」
「で、爺様も召喚の術で大儲けできる、かもしれないって寸法ね? 悪くない、かもしれない。」
ふん、と爺様が鼻で笑う。
微妙な反応でちょっと恥ずかしいんですけど。
「冗談はさておき、オレは傍観するが、葵は葵で、今回の件をどうしたいか一度考えてみるといい。オレにとっちゃ他人事だが、異世界を独占したい葵にとっては他人事でもなかろう?」
「へ~、そういうことね。わかったわ。」
ここまで散々人を引っ張り回してきたのは、最終的な決断を私自身に委ねるためだったのね?
うん、私も異世界と無関係ではないもんね。
そう思うと、なんだか爺様に一人前の大人だと認められたようで内心嬉しかったりするわけで。
ふふ、そうだわ。
「ねえ、このまま帰るのもなんだから、どこか気の利いたお店で飲み直さない?」
いまは異世界にいるんだし、特別だからという誘い易さもあって、爺様を初めて誘ってみた。
「お? 葵も一丁前に酒を飲むようになったんか? よし、元々遊びに来たんだ。そこらの居酒屋でも覗いてみるか。」
爺様が声を弾ませたから、前を歩き始めた爺様の腕を取って私も並んで歩き出す。
「おう、どうしたんない?」
腕を組んで、というのが慣れないためか、爺様が慌てている。
「別にぃ、たまにはいいじゃん?」
「チッ、異世界だから大目に見てやるが、向こうで同じことは絶対にするなよ?」
ふふん、ね? 異世界だからね。
夜の街。
一際明るい通りには至る所に女が立っていて、男を物色している。
爺様の視線がそうした女に釘付けになっているものだから、ちょっと腕をつねってやる。
「なに見てんのよ?」
「いいじゃないか。別に本気で事に及ぼうとかしてるわけじゃなし。」
「そういう問題じゃないでしょぉ?」
こっちが気恥ずかしいのに、爺様が私をからかうように話すものだから、とにかく腕をぐいぐい引っ張ってお洒落げな居酒屋をめざす。そうよ、腕を組んだのはこういうときのためだわッ。
お洒落げな居酒屋。
店内に流れるバイオリンの滑らかな音色。
いろんな風体の人たちがテーブルに着いている。
「たまにはこういう所で飲むのもいいでしょ?」
「ああ、やっぱりこういう所に来ると、異世界っていい所だなって思っちまうな。」
「でしょ?」
「まあ、それがトラップなわけよ。危ない危ない。」
「もう、そればっかり。」
給仕にカクテルを注文したんだけど、なぜか爺様、いきなり二杯頼んでいる。
「んん? まとめて注文しなくたって、また欲しくなったら追加で注文すればいいのよ?」
まさかとは思ったけど、一応、言ってみる。
「ん、ああ。これは違うんだ。一杯は、オレんじゃない。」
じゃあ、私の分か……って、そんなわけないよね。
ま、結局爺様、その余分な一杯には一切手をつけなかったから、店を出る前に私が飲んだけども。
やっぱり一人で飲むより、誰かと飲んだ方がお酒が進むわ。




