一章 第40話 こんな日常ももう終わりかもッ
「なんか、見られていると思うと落ち着かないんですけど。」
玲衣亜がキャベツの酢漬けを口に放りながら言った。
警察に監視されていると気づいた明くる晩、ずっと鎧戸を閉めていようという話もしたけど、それでは僕たちが警官の監視に勘づいたのではと、相手が訝しむかもしれないっていうんで、結局いままでどおり、鎧戸を開け放ち、窓ガラスの向こうに夜景を映すことにしたんだ。
闇の中、遠くで幾つも小さな光が瞬いてる景色?って、見てて落ち着くんだよ。
「気にするこたぁないさ。特別おかしなことをしてるわけじゃないんだから。」
デリカシーの欠片もなさそうな伊左美らしい言葉だ。
「そうはいっても、ねえ?」
玲衣亜が小夜さんに同意を求める。
「まあ、まったく気にならないと言えば、嘘になるかな。でも、ま、警察はすでに確認したいことはしてしまっているんだから、いまさら見られてマズイものはないし。見られてたって、別に構いやしないけど。」
「あらら、そんなもんですか?」
小夜さんの答えに玲衣亜も拍子抜けといった様子。
「相手は他人だし、仕事でやってるだけだろうし。」
「そうだよ。知り合いが興味本位で覗いてんだったら恐ろしいけど、あくまで向こうも仕事だからね。」
小夜さんも伊左美もなかなか達観してるね。
「大体、席の位置からみて、奴らはいま、オレの後頭部を見てんだぜ? オレの後頭部の秘密を解き明かそうと躍起になってんだと思うと、滑稽でさえあるね。」
「誰も伊左美の後頭部になんて興味ないし。」
「そうッ。それと一緒よ。奴らもオレらのプライベートに興味なんてないから、あんま気にすんなよ。」
「なんか判るような、判らないような。」
「オレの後頭部イコールオレらのプライベートってことだよ。」
「うん、まあ、まあ、いいわ。」
伊左美がなんか巧いこと言ったみたいだけど、玲衣亜を得心させるには至らなかったみたい。いや、巧くはないか? なんで僕らのプライベートが伊左美の後頭部なんだよ。
夕食後、僕たちは第三回ベッド争奪戦に興じていた。
種目はババ抜き。
前二回とも伊左美が負けているから、伊左美さん、今回は相当力を入れている。
といっても、鼻息が荒いだけで、勝敗には関係なさそうだけど。
「あ~あ、あいつら本気で殺してやりたいわぁ。」
玲衣亜が僕の手札からババを抜いたタイミングで、そんなことを言った。
「それって、警官らのことだよね?」
「あたりまえじゃないッ。」
そうなんだけど、いまの言葉には僕への殺気も籠ってた気がしたんだよね。
「意外と玲衣亜も物騒な言葉を使うんだな。」
小夜さんが意外そうに言う。
いえいえ、玲衣亜はなにかにつけて物騒ですよ、とは言えない。
「いや、これは私が言ってるんじゃなくて、警察の奴らが私に言わせてるの。」
「なにそれ?」
うん、ホントなにそれ?
「ん、責任転嫁って奴かな?」
「責任転嫁?」
「私は基本、悪いことなんてしない、イイ子なわけ。判るでしょ?」
「判ってるよ?」
疑問形で答える小夜さん。
外野で僕と伊左美は小さく首を振る。
「なのに、警察は聴取だ監視だって言って、無暗に負荷を掛けてくるじゃん。ホントに、精神的に参っちゃうくらいに。」
「そうだな。」
「それって理不尽じゃない? ま、あっちからしたら、こっちが理不尽に映ってるのかもしれないけど。でも、だったら、こっちにだってあっちを理不尽に叩きのめす権利があると思うんだよね。」
「な、なるほど?」
小夜さんも困惑しているみたい。
ま、僕としては玲衣亜の言うことも一つの理屈だとは思うけど。
「ジャンの手紙があろうと、なかろうと、いずれはなにか手を打たなきゃっていうのは、前々から思ってたことだし。」
そんな会話とは裏腹に、ババ抜きは淡々と続けられていて、玲衣亜の目と手もババ抜きに集中しているよう。小夜さんが玲衣亜からカードを引くとき、玲衣亜ったらすっごい小夜さんの目の色を窺ってるからね。手にも余計な力が入っているようだし。
「それにジャンの手紙にもあったけど、魔女狩りの再現だ、って。なにもしなかったら結局、いずれ難癖つけられて誰かが処刑されちゃうんだから。」
「ああ、過去にあったっていうあの茶番劇ね。」
「どうやったって、私たちが“魔術を使えない”ってことは証明できないんだから。ちょうど過去に魔女だと疑われた人たちが魔女でないことを証明できなかったように。」
玲衣亜はそう話すと、コーヒーを一口飲んだ。
「証明するには、術を使わずに死んでみせるしかないってことだよね。」
小夜さんが溜め息交じりに言う。
ふう、おかげさまで僕は一抜けですよ。
「そう。だから、なんとかしたいんだけど。良いやり方とか思いつかないし。」
「ま、そこはいろいろ考えてみるけど。」
伊左美が口を挟む。
「最悪、殺しちゃうことも想定しておかないと。なんの覚悟もなしに、つい殺しちゃったじゃ、あとで罪悪感に囚われちゃうでしょ?」
「ああ、なにごとにも心の準備は必要だな。」
「ね。だから、最初に戻るけど、ぜ~んぶ警察が悪いんだから、罪悪感とかはもう放っちゃったわけね。まったくもって、あいつらが茶々を入れてくるのが悪いの。あいつらが、私に物騒なことを画策させたり、言わせたりしてるってわけよ。」
その間に伊左美が二番目にババ抜きから抜ける。
「へえ。」
余裕の笑みを浮かべて伊左美が玲衣亜の話に感心しているよう。
「へえ、とはなによ?」
それを玲衣亜は不快に思ったみたい。
「いや、玲衣亜も意外といろいろ考えてるんだなぁと思って。」
「少しは見直したかしら?」
「うん、伊達に歳を取ってるわけじゃないなッ。」
おいおい、そうやってまたすぐ変なことを言うッ。
「伊左美には言われたくないしッ。」
「だ、伊達にお歳を召してらっしゃるわけじゃないってことですねッ。」
おほ、溢れ出るサービス精神を抑えることができなかったぁッ。
痛恨のミスじゃない?
「って、伊左美が言ってたよ。」
ナイスフォロー?、僕ッ。
自分の過ちは自分で正すッ。
「ちょっと二人とも、デコ出しなよ。」
ね。
「小夜には興味のないことかもしれないけど、これって大事なことなんだよ。目的のために手段を選ばないのは結構だけど、そこに正当性がないと、すぐに参っちゃうんだから。」
僕と伊左美にデコピンを喰らわせたのち、玲衣亜は悶々としていたものを吐き出すようにまくしたてた。
その間に小夜さんがババを引いたみたい。
お互い、残る手札は各一枚とババって感じ。
「なんとなく判るよ。人はなにかをするときに理由が必要だからな。それが悪事となると、より一層強力な理由を欲しがるんだ。そんな奴、何百と見てきたし、そいつらが自分らの行動を正当化するための後押しもしてきた。」
小夜さんは言いながら、グラスを手の中で回し、琥珀色の液体の回る様子を見つめている。玲衣亜は真面目な面持ちで小夜さんの言葉に耳を傾けつつも、小夜さんがテーブルに伏せた二枚のカードを凝視している。
「うん、といっても、私たち別に悪事を働こうってわけじゃないし。ただ、私たちはあっちの世界での小夜の行ないを悪いことだって決めつけていたけれど、いまなら、少しは小夜にすがりたい人の気持ちも理解できるし、小夜の行ないが悪いばかりじゃなかったんだとも思えるようになったよ。」
玲衣亜は小夜さんが向こうの世界でどんなことをしていたか知ってるみたいね。
「ふふ、そりゃ結構なことだ。あっちの世界に戻ったらもっと声を大きくして言ってほしいものだね。」
小夜さん、グラスから顔を上げて言う。
「言わないけどね。ゴメン、いまのは忘れて。」
玲衣亜がそう言いながら一方のカードに手を置き、小夜さんの顔色を窺う。
「あいにく、そういうのって忘れたフリをするのは容易いけど、実際に忘れてしまうのは難しいんだよね。」
「いまのはそんなでもないでしょう?」
「いや。」
そう言って、また視線をグラスに落とす小夜さん。
「ちょっと嬉しかったし。」
「ね、ちょっとじゃん?」
「まあね。」
「じゃあ、そのちょっとのアレで、どっちがババか教えてよ。」
おおっと、ここで玲衣亜が小夜さんに揺さぶりをかけるッ。
「教えてもいいけど、それを玲衣亜は信じてくれるのかい?」
なかなか上手い切り返しだね。
「いや、難しいね。」
「じゃ、意味ないじゃん。」
「んねッ。」
玲衣亜が勢いよくめくったカードはおそらくババだったのだろう。
地団太を踏んで、椅子を大きく前後させて悶絶してるもんだから、判り易いや。
「うぅ~。」
唸りながら、テーブルの下でカードを切る玲衣亜。
小夜さんはそんな玲衣亜を涼しげな笑みを浮かべて眺めている。
「で、どっちがババなんだ?」
カードを構えた玲衣亜に小夜さんが尋ねた。
「あら? 小夜は私の言うことを信じる気があるわけ?」
「ああ、私は信じるよ。」
「ほう、ほう、ほう。」
小夜さんの言葉に感心してみせつつ、玲衣亜が手札に視線を落とす。
「じゃ、こっちがババね。」
そう言って玲衣亜は片方のカードを少し持ち上げた。
小夜さん、どっちを選ぶんだ?
信じると言った割には、迷ってるみたい。
手が左に伸びたり、右に伸びたり、手札の前を彷徨っている。
そうして迷った末に選ばれたのは、玲衣亜がババだと宣言した方のカードだったけど、ババじゃなかったみたい。小夜さんすぐにペアになった手札をテーブルに放ったし、一方の玲衣亜はババを持ったままアホ面浮かべて固まってるし。大方、ババだと宣言した方を取られた挙句に負けたのが悔しいやら間抜けやらで、複雑な気分なんだろう。
その晩、リビングで男二人、伊左美の帰還を喜び、祝杯を挙げた。
テーブル脇を寝床にした玲衣亜はご機嫌斜めのようだったけどね。




