9-36(244) 山の中
9章終わり!
夜が明ける前に着の身着のまま、そっと外へ出た。
虚ろな頭。
ジンジン痺れっ放しな身体。
本来なら寝てなければならないんだろうが、身体が睡眠を欲していても、頭が焼け付いて眠ることができなかったんだ。
まったく知らない土地だったから、彷徨うには好都合だった。それに、夜明け前だから猫一匹いやしない。
人のいない場所を求めて、山を背にした森の中に足を踏み入れる。
しばらく歩き続けたが、夜が明けると焦燥感に駆られてさらに歩かされた。
人跡未踏という表現がふさわしい深い森の中。周囲には木々があるばかりで、空さえほとんど見えなかった。
ここらでいいかと思い、土の上に腰を下ろし、木の幹に背中を預けて目を閉じた。
ここで朽ち果てたいと思った。
もう生きてゆくのが厭になったんだ。
オレはオレのことが恐ろしくなったし、人のことも怖くなっちまってさ。
なにをやっても人を不幸にしかできない気がして。
ベッドとは違って、湿り気のある土がお尻に吸い付いてくる。そこら中に小さな羽虫が飛んでいるかと思えば、足元にも虫がウジャウジャいて、あまりイイ気はしない。緑の葉の屋根からは鳥の鳴き声。地面からは土の香りが立ち昇ってくるが、空気は澄んでいる。
ああ……と嗚咽を漏らすと、それが雑音のように耳に響く。
オレには場違いな場所だった。
生きるのが厭になったといっても、本気で死んでしまおうって気にはなれなかった。だから拳銃が入った鞄を置いてきたんだ。ま、それ以外にも、もしも衝動的あるいはなにかの事故でオレが死んでしまっても、オレが葵さんから譲り受けていた仙八宝が彼女の手元に残るように配慮したわけ。
正直、自分でもなぜこんなところに迷い込んでいるのか、その目的は本人にもあまり判っていない。
死に場所を求めて? ただ、頭を冷やしたかっただけ? それとも、演出? 儀式の一環? 敢えて苦行を己に課すことで、カレンに対する罪を償ったつもりになるっていう、自分のための自分によるパフォーマンス? それとも、人里から逃げたくなっただけ?
思考のド壺に嵌ると、自分自身に対しても意地悪な考え方をしてしまうのは、本当に悪い癖だと思う。
酒を用意しておくべきだった。
酒さえあれば、どんな気味悪い場所であっても楽園になることをオレは知っていたはずなのに、避けることばかり学んで、有効に使えることもあるってことに頭が回らなかったんだな。
肝心なときになにもないんだから。
そのうち、瞼が落ちた。
誰かがオレを起こした。
オレに声を掛けてきたのは善人面のおばさんだった。
「なにしてんだい? こんなとこで。道に迷ったのかい?」
その恰好から、山菜や薪を取りに来たのだと察せられた。こんな森の深くまで人が来るのかと、さすがにウンザリした。
「ちょっと休んでただけです。ありがとうございます。」
おばさんにそう言って、オレは立ち上がり、さらに森の奥をめざして歩き始めた。寝てしまったせいか、葵さんの家を出るときよりも元気になっていた。腹は空いていたが、睡眠不足による倦怠感や目眩、痺れといった感覚は消えていた。
柔らかな土を踏みしめて歩きながら思う。
オレはずっと逃げてばかりだ。
故郷であるケルン市から逃げて、炭坑から逃げて、フロア市ではリヴィエ一家から逃げて……、そして、いまは葵さんから逃げてんだな。
炭坑とリヴィエ一家から逃げた分はオレのせいじゃない、と思えば、ニコラのことが憎たらしくなった。そもそもアイツがオレに変な話を持ちかけてこなければ、問題なくフロア市で暮らしてゆけたし、哀れなマフィアの兄さんたちを殺さなくても済んだんだ。炭坑の系列ってのと一緒で、ニコラは下の連中の命を安く買い叩きやがったわけさ。
そうして、なぜこんなことになったのかとその経緯を省みれば、この不幸の運命の起点が博打であるという事実に突き当って、オレはまた悶え苦しんだ。
結局、すべてオレのせいだ。
それからも過去を検証する作業は続いた。
ケルン市を出た理由。
恰好の良い大人になりたかった。
病状が回復して、久しぶりに出会った友人たちの成長っぷりが印象的で、オレはその姿に憧れてしまってたんだ。
でも、あいつら、そんなに恰好良かったか?
ああ、恰好良かったさ。
少なくとも当時はそう見えた。一人ひとりが青春の危うい輝きを全身に宿していた。
酒も覚えて、煙草もたまに吸うし、女も知って、裏社会にも片足突っ込んだ挙句に殺されかけて……、危ない橋も渡ったから懐には五〇クランもの大金が入っていてさ。じゃあ、いまのオレはマビ町の友人に誇れるような男になれたかとなると、全然なれてない。精々、悪としての格は海坊主よりは上だぜって、なんの自慢話にもなりやしないな。
オレはまたどことも知れない場所で休んだ。
休みながら、いろいろ考えていた。
ここに来るまで、カレンに申し訳ないことをしたとばかり考えていたが、いろいろと思い出すにつけ、付き合ってた当時の彼女の勝手極まりない言動のアレコレが思い出され、腹が立ったりもした。最低な男だと罵られたのも思い出すと、オレが彼女になにをしたところで問題ないような気がした。彼女ならあの惨殺現場を目撃しても、≪これは予想できた約束の反故の仕方の一つでしかない≫とか思いそう。いや、さすがにそれはないな。
しばらく山中の森の中で過ごした。
本当にもうどうでもいいと、死ねるのならこのまま息絶えても構わないとまで思っていたのに、一週間、飲まず食わずでいるのに身体にそれほどのダメージがない。三日目までは空腹や喉の渇きもやや実感したものの、それ以降はそういった感覚さえなくなってしまった。
さすがにこれはおかしいと思ったが、そういえばと、オレはある事実に思い至った。
仙道になってるから、もしかすると霞を食べて生きてゆけるようになってるのかもしれないってな。
もう人ですらなくなっていたんだ。
であれば、人の道をいくら外れていようが、ま、いっか……、と思ったわけ。
「もう悩むのや~めた!」
おそらくカレンならこう言って悩みなんて吹き飛ばすんだろうな、と思いながら、大きな声で言ってみた。
悶々としていたものが晴れ渡ってゆく感覚。
山を下りようという気になった。
そして、無事に下山した暁には、生き方を改めようと思った。
無事に……、なにしろどちらから来たのかもう覚えていないからな。登り始めたのが夜明け前だったから、太陽の位置から推測することもできないし。
飢え死にはしないけど、もうオレ、このまま誰とも会うことなく人生を終えるんじゃない? はは、まさかな。




