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9-35(243) 逃げた

「こんばんは~。」


 目が合うと、葵さんが挨拶した。


 オレはなにも言わない。彼女を見ても、間が悪いな、としか思わなかった。


 こんな惨状、あんまジロジロ見られたくもないし、なにしろいまは急いでるんだ!


「うは~、すごいねぇ。」


 そんなオレの思いとは裏腹に、彼女は玄関ドアから勝手に入ってきたかと思うと、部屋を見回しながら暢気に感嘆の声を上げた。


「この町は思ってより、物騒なんだよ。」


 オレは鞄の口を閉めながら、そう吐き捨てた。


「久しぶりだから、話したいことはたくさんあるんだけどさ。まず、手始めにいまのダニーの状況を聞きたいな。」


 そう言ってオレの隣に立つ彼女。


「悪いけど、悠長に話している場合じゃないんだ。早くここを出ないと。」


 鞄を持ち、突っ立っている彼女を邪魔だとばかりに押しのけて外へ出ると、オレは階段を駆け下りた。


 振り返ると、いまのオレの態度に辟易しているのか、階段の上に佇む彼女の黒い影はオレを見下ろしたまま動かない。彼女の背後に広がる藍色の空に、いくつかの星が光っていた。


 チッ、殺し合いを終えてから、結構な時間が経ってんな。


「葵さん、早く来てッ。」


 オレは彼女に向かって声を張り上げた。いつ、誰が口封じに来るか判らなかったから、彼女を放っておくわけにはいかない。警察が来る可能性だってある。だから、少なくともこのアパートからは離れてもらわないと。


 オレの焦り様に気付かないのか、彼女は優雅な足取りで階段を下りてくる。


 クソ苛立ったが、久しぶりに会った彼女に怖い顔を見せるわけにもいかなかったから、こめかみを押さえて怒りの表出するのを抑えた。


 本当、知らないってのは罪だと思う。


 彼女はそんなオレをゆっくりと追い越すと、オレの方に振り返って、


「怒ってんの?」


 って言いやがったから、さすがのオレも呆れて目を丸くした。


「だって久しぶりに会ったっていうのに、邪魔者扱いされると気分が悪いわ。」


 と彼女は唇を尖らせたが、次の瞬間にはオレの尻をはたき、


「ほら、急いでるんでしょ? 走るよッ。」


 と威勢のイイ声を発して、オレの手を取って走り出した。


 ちょ、ちょっと、雰囲気だけで走り出すのやめてもらえませんか?

 どこへ行くのかはオレが決めないと!


「どこへ行くの?」


 走り始めてまもなく、彼女が息を弾ませながら尋ねてきた。いや、聞くの遅いし! それに、先導されてる意味が判らないんですが。


「遠くへ行く。」


 とりあえず、短く答えた。


「遠くってどこらへん?」


「まだ決めてない。ただ、オレのことを知ってる人がいないとこで、遠ければ遠いほどイイ。」


 そう伝えると、彼女は立ち止まり、オレの目を真っすぐに見据えた。ふん、オレの目はさぞ血走ってることだろう。正直、間が悪過ぎたんだ。いまのオレにとって、彼女の存在は邪魔でしかなかった。


「だから、葵さん。悪いけどゆっくりと話してる時間はないんだ。それに、オレと一緒にいると葵さんにも危険が及ぶかもしれないから。」


 本当だったら、久しぶりに訪ねてきてくれて、凄く嬉しいはずなのに……、なのに、いまは遠ざけなければならないなんて。


 さすがにオレ自身、自分の境遇がおかしくなっていると気付いたよ。


 なんでオレが、世を忍ばなければならないんだ!


「じゃあ、ウチに来る?」


 え?


 秘密主義者である彼女の提案とは思えず、一瞬、呆けてしまった。


「葵さんチって……。」


「大丈夫だよ。ウチなら、この町どころか、この国の誰も来ないから。」


 おお、神様!!


 このときばかりは彼女が女神に見えた。どうせこの国で逃げるといっても、所詮、誰も知る者のない場所に流れるしかないのだ。ならば、どんなに遠かろうと彼女のいる町に逃れた方が、まだ救いがあるように思えた。


 さっきまでの自分の態度が、酷く矮小なものに思えて、恥ずかしくなった。


「すいません、では、お言葉に甘えさせていただけますか?」


「了解。」


 そうして彼女に案内されて、やはり前回と同じく目隠しなどを施されたのち、もういいよと言われて目隠しを取ってみれば、そこは先程まで自分が立っていた場所ではないという不思議現象。


 ただ眼前は暗闇に覆われ、なにも見えないんだが。

 え? オレ目隠し二つ巻いたっけ? 目を擦ってみると、やっぱ生身だ。


「ちょっと待ってね。」


 暗闇から聞こえる彼女の声。


 待ってると、暖炉に火が灯った。ランプにも火が点けられ、いまいるのが部屋の中だと判った。


「ここウチなの。ま、とりあえずお茶でもしましょうね~。ちょっと暗いかもしれないけど、電気がないから、しょうがないね。」


 オレは彼女に勧められるまま椅子に座り、


「ありがとうございます。」


 と頭を下げた。


 最後に彼女に会ったのはまだオレが大工をしてたころだったろうか。あれから様々な経験をしたけれど、どんなに粋がってみたところで、オレは彼女には徹底的に頭が上がらなかった。


 熱い紅茶をいただきながら、オレは彼女に事情を話した。


 彼女は久しぶりに顔を見ようと思ってオレを訪ねてきたらしかった。これまでにポポロ市のアパートを何度か訪ねたようだが、オレが売られたことを知らなかったから、最近になってオレが両親に手紙を出すまで行方不明扱いだったのだとか。


 憤慨する彼女にオレは謝った。


 そして、話をしながら、大変なことを思い出した。


 カレンがウチを訪ねてくることをいまのいままですっかり忘れていたのだ。


 いまのウチには誰がいるか判ったもんじゃないし、なにより死体が二つ転がっている。それをカレンが目撃するだと?


「すいません、いま何時ですか?」


「ん、いまは~、八時半だね。」


 お、遅かりし!

 

 陽気な仔熊さんが惨殺現場を目撃する様子が目に浮かんだ。


 彼女はおそらく、悲鳴は上げやしないだろう。その代わりに、声を潜めて泣くんだ。いや、もしかすると、涙は流さないかもしれない。でも、心中でさめざめと泣くんだ。オレがそこにいないってことに失望して! ああ、彼女のことだから、泣く前にまず怒るかもしれない。


 やっちまった……。


 彼女と別れたとき、彼女が部屋の隅で小さくなって静かに泣いている姿を思い出した。


 なぜ、そこまで彼女を苛めるんだ?


 涙を浮かべて、ありがとうと言った彼女の顔が思い浮かんだ。


 おお、神よ。


 今日のお昼、じゃあ、なにして遊ぶ? と事もなげに言った彼女。

 

 なにして遊ぶ? じゃねえよ。


 熱くなった瞼を擦りながら、ふッ、と失笑が漏れた。


 遊ばなきゃよかった……。

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