9-30(238) リンゴ
夜道を歩いてると、とある一軒家から見知った男が、おそらく家主に挨拶しているのであろう、玄関ドアの方に向かって手を振り笑いながら出てきた。
“名無し”だった。
彼もオレに気付いて、
「おう、“超人”、生きてたか。」
とオレに? 声を掛けてきた。ってか、“超人”ってなんだ?
「まあね。ところで、“超人”ってのは?」
「なに惚けてやがる。お前のニックネームに決まってるじゃないか。」
「おお、ついに渾名が付きましたか。いや、いいんですけどね?」
「いやあ、ホント凄かったぜオレぁつい見惚れちまったよ。あんなふうにビルの屋上に駆け上がる奴をオレぁ初めて見たぜ。」
彼がハッハッハッと笑いながらオレの肩を叩く。なんだかいまの彼はご機嫌らしい。だが、よく見れば彼は左目の周りに青タンを作っていた。さては、誰かと喧嘩したな?
「ちなみにナナっさんはこんな時間までなにしてたんスか?」
“名無し”さんと呼ぶときは“し”と“さ”を続けて言うのがいたしいので、“ナナっさん”と発音している。
「ああ、実はあれから酒場でこの街のことについて色々聞いてたんだけどな、そこでリヴィエ一家の奴と喧嘩になっちまったんだが、話すと意外と気が合ってな……、家に招待されてさっきまで飲んでたのさ。」
「じゃあ、その青タンは……。」
「ああ、リヴィエの奴にやられたんだ。ま、こっちも殴ってやったがな。」
「うはあ、よくやるねえ。オレはどちらかといえば、殴り合いは苦手ッスわ。」
「ある種の奴らは、ときとして拳で語り合うんだ。」
「オレは口だけでいいス。」
「こんな言葉を知ってるかい? 殴り合いってのは、会話の形を変えた、延長に過ぎない。」
「いえいえ、会話と殴り合いは別物ですよ。」
「ふん。」
そう鼻で笑ってから、“名無し”が煙草を取り出した。小脇に重たそうな紙袋を抱えていて、ちょっと火を点けにくそうだったから、横合いから袋を取り上げた。袋はずっしりとしていて意外と重く、中身を尋ねてみると、リンゴだって言うんだ。リヴィエの奴にお土産にと持たされたんだとさ。
帰りながら、“名無し”に追跡の結果報告をした。
二人がマロン一家と関わりがあることと、すでにオレたちの動きが連中から注目されていること。ケルンから出ていけと言われたこと、そして、件の連続事故事件の話と、リヴィエを助けるならマーレライ商会からも事故による死者が出るだろうという忠告について、話して聞かせた。二人がオレの知り合いであることなど、オレの立場を危うくすると思われる点については伏せておいた。
宿に戻り、マーレライとマルコにも“名無し”にしたのと同様の報告をした。
賢明なマーレライはケルン市からの撤退の意志を固めるものだと思っていた。ところが、オレの報告と、加えて“名無し”も酒場でこの件についての聞き込みをしていたので、これまで半信半疑だった連続事故事件が実際の出来事だったということが証明されたわけだが、オレの期待とは裏腹に、マーレライの奴はケルン市に留まる方針を固めてしまったんだ。もちろん、オレは仲間が謎の事故の犠牲になる可能性についても伝えたが、彼ときたら、だからこそマロンの凶行を喰い止めなければならないのだと言い放ちやがった。ご立派な考えだったが、そんなの建て前に決まっていた。本音はマロンをやっつけたときのリヴィエからの様々な利権の譲渡だろ?
話し合いののち、ボディガードの面々はやれやれといった感じに一つの部屋に集まり、そこでマーレライとマルコへの愚痴を零し合った。
ケルン市に入った商会の人数は五〇人近いと噂されていた。膠着状態のいま、ケルン市でドンパチできるわけでもないから長期滞在が予想され、その期間で五〇人がフロア市で働いたときに出る利益と、ここでやっつけられるかどうかも分からないマロンを相手にするのを比べると、大きな利権を得られる可能性があるにしたって、マーレライが下した決定はアホ臭いとみんなが口を揃えて言った。
「マーレライは馬鹿だな。」
“名無し”が手の平の上でリンゴを弄びながら言った。
「オレらの動きがもう捕捉されてるってのに、なんでわざわざ危ない橋を渡るかねえ?」
ガッとリンゴを齧る“名無し”。
「賭けに出てんのさ。ここでリヴィエに恩を売っときゃあ、目の前の金だけじゃなく、リヴィエの中でも顔が利くようになると踏んでるんだろうさ。ケルン市といやあ、まあそれなりに大きな都市さ。それがマーレライのおかげでリヴィエの手中に丸く収まったとなりゃあ、その後の展望が全然変わってくんだろ?」
“酒樽”が忌々し気に吐き捨てる。なるほど、リヴィエの中の序列ってのも頭にあるわけか。
「それにオレたちがいるから、自分の命の心配自体、あまりしてねえのかもしれねえな。」
“金髪”が弱々しく零す。
「オレがマロンだったら、マーレライなんか一発で仕留められるぜ。ボディガードなんか無意味だな。」
それに対し、“名無し”が返す。
「ナナッさんみたいな奴はそうはいねえからな。ま、逆にいまはそれが問題なんだが。」
聞けば、“名無し”の拳銃の腕前はかなり凄いとのことだった。大抵の奴は相当近寄らなければ的に弾を当てることすらできないんだってさ。それを“名無し”はかなり離れたところからでも命中させるし、拳銃を抜くのも撃つのも速いらしい。なるほど、だから彼にとっては殴り合ってるうちは遊びなのかもしれない……と、先の言葉に妙に納得してしまった。
え、でもちょっと待ってよ?
それだとマーレライを狙った弾がボディガード目掛けて飛んでくるじゃないか!?
「ま、この宿にオレらがいるってのもマロンの奴らは知ってんだろうし、明日には場所を換えて、マーレライもしばらく引っ込んどいてくれりゃいいんだけどな。」
そして悲しいかな、誰も本気でマーレライの盾になろうと考えてる奴なんていなかった。みんなただの雇われに過ぎないからな。ただ、裏切れば仲間から追われることになるってのが面倒なだけだった。
みんながリンゴを食べることに集中し始めると、リンゴを齧る音が部屋に響いた。そんな中、オレは手の平に乗ったリンゴをジッと見詰めていた。赤と緑の果物。オレがリンゴに口を付けないのが気になったのか、
「どうした? 食わないのか?」
と、提供者である“名無し”が聞いてきた。
「いや、ちょっとね。」
リンゴをクルっと回しながら、
「リンゴって可哀想な果物なんだよ。」
と意味ありげに言ってみた。リンゴを見ていて、カレンのことを思い出しちゃったんだ。
「可哀想?」
「そうさ。」
怪訝な顔を浮かべる彼に見せるように、オレはリンゴにそこらへんにあったペンをザクっと突き立てた。
「刺さったでしょ?」
「ああ、刺さったけど……。」
それがどうした? という感じに困惑する彼。周りのみんなも怪訝な顔をしている。
「ペンがリンゴに刺さった。そして今度は……。」
オレはとにかく目に留まった尖った物をリンゴに突き立てていった。釘、彫刻刀、ヘアピン、スクリュードライバー、千枚通しなど、ありとあらゆる尖った物を、ザクザクと突き刺して、リンゴはあっという間にプクっと怒った針千本になった。
みんなは息を飲んでその憐れなリンゴを見ていた。
「ある日、ウチに帰るとこれと同じ物がテーブルの上に載っかってたんだ。」
みんな黙ったまま驚きの表情を浮かべている。
「当時付き合ってた女がやったんだけど、凄いよね?」
オレが尋ねると、
「ああ、スゲえ。」
と、みんなが異口同音に口にした。
「なんか、オレが帰ってくるのを待ってたのに、なかなか帰ってこないからってんで、退屈しのぎにリンゴに色々突き刺して遊んでたんだってさ。だって暇だったんだも~んって、そいつは言ったよ。」
みんな新しい文明に接したみたいに驚いてやがる。
「そのリンゴを見たとき、正直、殺されると思ったよ。今度はナイフがオレに突き刺さる番だってね。でも、同時に、オレはそのリンゴを見て、芸術的だと思ったんだ。」
「芸術的?」
「ああ、港の水平線に沈む夕日の色合いが心に響くように、そのリンゴもオレの心になにかしら響いたのね。なんか、たった一つのリンゴん中に、女のいろんな思いが全部上手いこと閉じ込められてるっていうか、表わされてるっていう感じかな。ホント、凄い造形だと思ったよ。思わずリンゴを持ち上げて、ペンの刺さり方とかドライバーの刺さった角度とか、なんの意味もないはずなのに、なんか意味があるんじゃないかとか思って、いろいろ観察しちゃったくらいだからな?」
そこまで話して、オレはリンゴから刺さった物を抜いた。
ちょっと寂しい気分になった。
そのあと、みんなの疑問に答える形でカレンのことについて少し話をすると、なぜかみんながオレのことを心配するに至った。そして、なぜか、今度、街に女遊びしに行こうという話になった。
いや、いまの状況でケルンの街で遊ぶなんて自殺行為だと思うんスけど?
名無しの殴り合い云々の言葉はクラウゼヴィッツの言葉のもじりです




