9-26(234) 別れた?
案の定、カレンとは大喧嘩になった。
本当の意味でマーレライを護衛する仕事ってのがこれまでになかったもんだから、彼女には、オレはすでに要人の護衛の仕事から離れて危険のない仕事に回されたのだと嘘を吐いていたのも、喧嘩に拍車を掛けた。今回も黙っていれば良かった? 嘘を吐き通すならそれしかなかったんだろうが、オレにはできなかった。
「で、ダニーはマーレライさんを庇って死んでお金を貰って、それからどうするの?」
彼女が皮肉たっぷりに言った。
「知るかッ、死んだらあとは野となれ山となれだッ。」
「じゃあ、私は野になろうかしら、山になろうかしら?」
「馬鹿、お前は幸せになれ。」
「ダニーと一緒にいるいまが幸せなのに、あなたが死んで幸せになれるわけがないじゃない。」
ここに至ってこんなことを言ってのける彼女の気持ちが理解できなかった。
オレを罵倒することに幸せを覚えるというなら、判らない話ではなかったが。だって、彼女はオレのことを“ 人生で出会った中で一番最低な奴 ”だとか、“ 真性の馬鹿 ”だとか、これまでにも散々罵倒してくれてたんだぜ。
オレは彼女の正気とも思えない台詞を頭の中で反芻しながら黙っていた。
もう彼女とは縁を切るつもりだった。いつもいつも些細なことで喧嘩して、上辺と身体だけ仲良くしてさ。そんなことにこれ以上耐えられなかったし、オレも近日中に死ぬ可能性がないとも言い切れなかったから、丁度いい機会じゃないか。最早、ありとあらゆる事象がオレと彼女との別れを推奨しているように思えていた。
「私はいままで本当に人に恵まれてたんだねえ。」
彼女はなにも言わないオレに呆れたのか、やや微笑みながらしみじみとそう言った。彼女の知人、友人たちの彼女の話への登場率を考慮すると、確かに彼女の周りの人たちは彼女にとって素晴らしい存在だったに違いない。
「そうさ。そんなの始めから判ってたことだろ? だからカレンはオレとなんかじゃなく、いつもカレンの話に登場する設計技師とか銀行員とか、鍛冶屋なんかと付き合えばいいじゃん。そいつらは金も持ってて、優しいんだろ? 少なくともオレなんかよりゃあ、マシなはずだ。」
「なんでそういう話になるのッ?」
「これまでのやり取りなんかも総合すると、そういう話にしかならねえだろ? なにしろオレはお前の人生ん中で最悪の男なんだぜ?」
彼女は本当に器用な奴だった。愛することと嫌うことを同時にこなせるんだから。彼女の言葉と彼女の気持ちは必ずしも一致しない……、うむ、よく判らないな。オレの中で彼女は、“ これまでの人生で出会った中で最悪な男と一緒にいるのが私の幸せだ ”と言っているに等しかった。はは、なんの冗談だってんだ。
オレはもう訳が判らなくなって、彼女との口論から解放されたい一心になってしまっていた。だから直接的に別れを告げた。意外にも彼女は泣いた。目に涙を溢れさせて、目の周辺を赤く腫らせてから、オレに別れる理由を尋ねてきた。オレにはそんな彼女の感覚が信じられなかった。これだけ人を弱らせておいて、自覚がないなんてな。理由を尋ねられて、今度はオレが彼女を罵倒する番になった。オレの言葉に彼女は一々反論したが、仕舞いには彼女も怒ったのか、
「もう終わりだねッ。」
と吐き捨てた。その様を見て、いい気味だと思った。これで人に悪態を吐く罪の重さが多少は理解できたろ? オレは荷物をまとめて出て行こうと思った。深夜だったが、別れ話をしたあとに、明朝まで居座らせてくれと頼むのは間抜けに過ぎる。アテはない。とはいえ、今晩はそこまでお酒も入っていなかったし、いつかの晩のような地獄を味わうことはないだろうという最低限の保障はあった。少なくとも、アレ以下がないのだと思うと、あとはどうでもよかった。
彼女はベッドの上で、壁に背を持たせかけて静かに泣いていた。オレが黙って荷物をまとめていると、
「なにしてるの?」
とやや泣き声で聞いてきた。そのとても寂し気な声音がまたオレの胸を抉るんだ。
「見て判ろうが? 出てく準備してんだよ。」
「出てくの?」
彼女のは壁に背を預けたまま、ポコッと出たおなかの前で手を組み、絶望的に打ちひしがれたような視線をオレに向けた。
「たりめえじゃん。もう別れたんだし、この期に及んでこの部屋に泊めてもらおうたぁ思わねえよ。」
「そっか。そうねー。」
そして彼女は少し歯を見せて笑った。オレは彼女の心に触れるのが怖くなった。なぜ彼女が悲しそうにしているのかがまったく理解できなくて。
「そうさ。」
なにも気にならない振りをして、淡々と荷物をまとめる作業に手を動かした。
「家族には手紙出しなね?」
はッとして彼女の方を見た。
「どうせ、ウチにいたことも知らせてないんでしょ?」
彼女のアパートに転がり込んだときに、ケルン市にいる家族に引っ越ししたことを報せる手紙を書けと再三言われていたのだ。そして、彼女の推測どおり、オレはまだ手紙を書いていなかった。それにしたって、どうして縁が切れた男の家族のことまで心配してんだよッ。
「気にしてくれてありがとう。今度はちゃんと書くよ。」
彼女はとても常識的な人だった。そのせいで母親が子供に対して言うような小言を何度も頂戴し、挙句にその小言が日々の喧嘩の原因にまでなっていったものだ。彼女の行動の半分はオレへの愛に基づいてたんだろうが、もう半分は常識ってヤツに基づいていて、オレにはそれが堪らなく苦しかった。
それほど大きくない鞄に詰め込めるだけの荷物を入れてしまうと、オレは忘れ物はないかと改めて部屋を見渡した。ベッドの隅にちょこんと座った彼女の姿が完全に部屋の家具と同化していて、ほとんどいるのかいないのか判らなくなってしまっていた。整理整頓された綺麗な部屋だった。
オレは最後に、俯いている彼女の方を見て、
「じゃあ。」
とだけ言った。彼女が顔を上げて、
「忘れ物はない?」
と言った。
「とりあえず必要な物は入れたから、あとはいいよ。」
オレは早く部屋を出たくて仕方がなかった。
「来て。」
なのに、彼女は両手を広げてオレを呼ぶんだ。オレは彼女に近寄ると、お茶目に両手を広げた彼女の仕草を無視して用件を尋ねた。
「さよならなんだねー。」
微笑みながらそう言う彼女の目から、新しい涙が零れた。オレは、うん、さよならだ、とオウム返しに答えるに留めた。
「これからダニーの彼女になる子は幸せだねー。」
どこまで本心なのか判らなかったが、オレは背筋に怖気が走るのを覚えた。
「馬鹿言えや。誰がオレなんかと付き合って幸せになれるってんだ?」
「いままでありがとうね。ダニーと一緒にいられて、すごく楽しかったよ?」
「オレこそありがと。あと、最低な奴でごめん。……、じゃあ、さよなら。元気でな。」
「ありがとう。」
オレは別れの言葉を告げると、逃げるように彼女の部屋をあとにした。オレはオレが彼女の言うような最低な人間になっちまったような気がして、恐ろしくてならなかった。彼女の言葉をを否定するためにも、オレはいまよりイイ男になる必要があった。ケルン市で死ぬかもしれないのに? 馬鹿、死ねばより一層簡単にイイ男になれんじゃねえか。二階級特進して、屑野郎からふつうの人くらいにはなれるってもんだろ?
星空を眺めつつ、オレはタケシの店をめざして歩いた。




