9-25(233) 呼び出し
カレンは無職になると、新たな職を求めて町のあちこちを出歩いているようだった。懐かしい友達に出会っては食事を一緒にしたりすることも多いらしく、とても楽しそうだった。オレが夜遅くに帰宅しても、彼女の姿が部屋にないこともしばしば。そんな調子だったから、幸いにもオレと彼女との喧嘩の頻度も減少していった。ただ、彼女が酔っ払って帰ってくると、オレが寝てるのも構わず上に覆い被さってきて起こされるのには閉口させられた。
「ねえええ、なんで寝てるのぉ? 寂しいでしょぉ?」
とか言いながら、眉をへの字に曲げてオレに抱き付いてくるんだ。ま、それでも彼女がご機嫌なら、無理に起こされても怒りは湧かなかった。それに、せっかくのご機嫌を損なうようなことをして、せっかくの平穏を修羅場と化す必要こそないしな。
そんなある日、マーレライさんに呼ばれた。
「ダニーは確か、ケルン市の出身だったな。ケルンの街の地理や情勢には明るいか?」
雑居ビル五階のマーレライ商会のボスの部屋。重厚な机の奥、椅子に座ったマーレライが唐突にそう尋ねてきたが、オレはマビ町出身でケルンの街自体にはそれほど詳しくはなかったし、ケルン市にいたのも約一年前のことなので、彼の質問には首を振った。
「じゃあ、マロンって名前は聞いたことあるかい?」
リヴィエ一家の人間の口から出てくるマロンってのは、十中八九マロン一家のことだろう。
「ケルン市のマロン一家のことですか?」
「そう、そのマロンだ。栗の方じゃない。」
そんなことを言いながらも、彼の表情は真面目なまま。
彼によれば、約1年前からケルン市において地元に古くからいるマフィアであるマロン一家と新参のリヴィエ一家との抗争が勃発したのだが、現況はマロンが優勢。そして先日、ついにケルン市に拠点を置くリヴィエ一家から泣きが入ったのだという。そこでマーレライはケルン市に乗り込み、リヴィエ一家の面々とともにいまの劣勢を一気に覆そうと考えているらしい。ケルン市までの道程およびケルン市内滞在中はほぼ敵陣にいるのと変わりないから、フロア市内とは比較にならないほど狙われる可能性は高い。
「そこでも、ダニーはオレの盾になれるかい?」
葉巻きの灰をトントンと灰皿に落としながら、彼。
「なれます。」
特になにを臆することなく答えた。なれるかどうかじゃなく、いまの場合、“ なれない ”と回答する選択肢が元々ないだけだった。ところが、この即答が意外だったのか、彼は面喰ったような表情を見せてから改めて葉巻を加え一息吐くと、
「ん、ああ、いい返事だ。」
そう言って彼は札束を机の上に並べ始めた。
「もし、マロンの件が良いように片付いたら、お前には特別報酬を考えている。その報酬に関してはタケシさんを通さず、直にお前に渡そう。ま、それだけお前に期待してるってことだ。もちろん、お前が死んだとしても、無事に役目を全うしたときには、お前にやるはずだった特別報酬をお前の望むほかの誰かにくれてやってもいい。」
机上に積まれた札束……あれだけで何十万クランあるのか判らんが、とんだ茶番だ。
「ありがとうございます。」
札束に目が眩むとでも思ったか?
「詳細は後日また伝える。」
「はい。」
そういうことは正直な堅気相手にやってろってんだ。用件を聞き終え、オレが部屋の出入り口に向かおうとしたところ……。
「ダニー。」
彼に呼び掛けられて、振り返る。威圧的な低い声に、意味ありげな数拍の間。
「ケルン市ではオレに命を預けてくれ。」
「はい。」
馬の鼻先にぶら下げた人参よろしく、生涯働き続けても手に入れられないようなお金の山をチラつかせて人にやる気を起こさせるやり口は、オレがまだ大工をしていた当時、建設現場でまの当りにしたことがあった。
マフィアのおじさんがなぜか建設現場にいて、そいつはなぜか現場で一等偉いはずの組の総合指揮者の席の隣にさらに豪華な席を拵えて座っていて、総合指揮者が現場全体に対して怒っているときでもそいつだけはなぜかニコニコしていて、そいつは働くわけでもないのになぜだか総合指揮者から毎日お金を受け取っていた。そいつの家は偶然にも現場の隣にあった。
工事の進捗が芳しくなかったとき、そいつが職人に発破をかけるために札束で築いた山を見せて、
「みなさん、ぜひここはがんばってほしい。みなさんのがんばり次第では、この金を出さんでもない。」
と言ったことがあった。その言葉にみんな奮起したが、結局、誰かがそいつからお金を受け取ったという話を聞くことはなかった。
本当、馬鹿みたいな話だ。
そんな馬鹿みたいな話と同じことが、いま、オレの眼前で繰り返されたわけだ。
どこの馬の骨とも知れないオレのことが信用できない?
確かに、オレはマーレライの護衛だが、マーレライのことを守りたいと思ったことは一度もないぜ。仕事だから、くっ付いてるだけだ。じゃあ、仕事だから、マーレライの心臓の代わりにオレの心臓を敵対勢力の前に差し出せるか? オレにそれを強要できるとする根拠は、オレの背後にタケシがいるから? タケシの脅し、もしくはオレのタケシへの恩義が、オレをして真面目に働かせしむるとでも? いや、そう考えていないからこそ、こうしてお金でオレを釣ろうとしてんだ。オレが身を呈してお前を庇うという確信がほしいんだろう?
いずれにせよ、オレはそんなマーレライの一連の行動が気に入らなかった。だが、なにも言わない。ただ、仕事を全うするだけだった。
そんな中、オレが部屋を出る前に一人、マーレライの言葉に異を唱える男が現われた。
「マーレライさん、お言葉ですが、最前から申しておりますように、ダニーを盾として使うのは勿体ありません。ダニーは盾としてではなく、剣として使った方が力を発揮するはずです。」
そいつは商会で二等目に偉いニコラという男だった。
「ああ、またその話か。」
詰め寄るニコラにマーレライが苦い顔をした。
オレについての話だったが、オレが口出しできることもないので、オレはそのまま部屋を出て詰所に戻った。詰所ではいつもつるんでいる仲間が待っていた。
「どういう話だったんだ?」
オレの面倒を見てくれている“インテリ”がオレを見るなり尋ねた。
「いや、やっぱりケルン市行きの打診だったけど、ちゃんと護衛しろとさ。」
「いまのケルン市はおっかねえからな。」
“名無し”が葉巻きの煙を吐きながら、ニヤリとする。
「マーレライさんは基本的にみんなのことを信用しているが、殊、護衛に関しちゃあ、お前みたいに生粋の構成員じゃない奴が多いから、出発前に釘を刺したんだろうさ。」
“インテリ”がマーレライを擁護する。
「釘ならいつも刺されてる。敵の弾から逃げれば、味方の弾を喰らう羽目になるんだから。」
裏切るような真似はこの世界じゃ許されない。なにをするにも筋が通ってなければならないんだ。世間に対しちゃ、筋が通らないことばかりしてんのにな。こいつらの頭の中には一体どういう理屈が詰まってるのかが本当に謎だった。この世で一番恰好を大事にする恰好付け馬鹿集団……という感じ?
ケルン市へ行くのが憂鬱だった。
カレンにこのことを伝えるのも憂鬱だった。
タケシにも挨拶に行かなければならないだろう。
それにしても、よりによってケルン市内のいざこざに首を突っ込むことになるなんて、オレも神様に見放されてるよな。




