9-8(216) 見張り役
坑道へ入る山の斜面に立てば、麓の街まで見下ろせる。
禿げた斜面のすぐ下にオレたちの掘っ立て小屋が並び、そこから下は鬱蒼とした木々が茂っていて、山の形状もよく判らない。坑道の出入り口がある斜面は南向き。炭坑の拠点から延びる道は二本で、西へ行けば麓へ、東へ行けば炭坑町へ出る。炭坑町から先がどうなっているかは、オレは知らない。道など気にせずに逃げるのであれば、拠点から南下して木々の中へ飛び込むルートも考慮すべきだな。
拠点に見張り台はあるが、誰かが台座の上に居る姿を見たことはない。
見張り台から監視しているのなら、見張り台の死角を付くとかやり方も考えられるが、そうでないなら、逃亡計画さえ立てられない。
ずっと前に貰った仙八宝の卵を握って、念じてみる。翼になれ、翼になれ、翼になれ……空を自由に飛べれば、計画なんていらないんだ。ま、念じてみても、なんにも変わらない。せめてジークさんが扱ってたような刀になってくれれば、心強いんだが。はあ。
今晩、オレは勤続十五年の男に相談することにした。
場所は掘っ立て小屋の裏手。小屋の壁を背に、木の角材に座って話した。
「ネルソンさん、オレが逃げようって言ったこと、誰かに話しただろ?」
まずは昨晩、寝落ちしてしまって聞けなかったことを聞いてみる。
「ああ、お前が低賃金で発狂しそうになってるって話をアッガスさんにしといた。」
アッガスってのはここに連れてこられた曰く付きの連中のトップで、事務方と作業員との調整役もしているが、オレはそいつとほとんど話したことはない。
「やっぱりな。でないと、急にグループが変わるわけがないんだ。で、賃金に対して不満があるってことしか言ってないんだな? 逃げるって話は?」
「逃げる云々ってのは誰にも言ってない。まだオレで止めてる。」
逃亡の話はしていない……か。
「ちょっと教えてほしいことがあるんだ。オレはまだここに来て一ヶ月の新入りだから、いろいろと判らないことだらけなんだ。」
最初に聞いたのは、昨日オレが編入されたグループについてだった。誰でも希望すればそのグループに所属できるのか、とか、監督連中に目を付けられた奴らで構成されてるんじゃないか、とか。
答えとしては、希望してもタイミングが悪ければ入れないし、そもそも希望する奴がいないとのこと。仕事がハードで、まさに仕事をするためだけに生きてるような状況に陥るからだ。それはいま一緒に働いてる奴らを見れば判る。起きて、働いて、食って、寝る……毎日その繰り返しだ。でもな、そんな連中を見て、オレたちゃまだ人間らしい生活してるとか思えてんなら、そりゃ大きな勘違いってヤツだぜ? そう思ったが、口には出さない。目の前の男はここで十五年間以上生きてきたんだ。あまりここを否定しては、男の人生を否定してるくらいに受け取られるかもしれない。そもそも、オレが逃げたいとか言ってる時点で、おそらくこの男にとっては面白くないんだから。
あと、監督連中に目を付けられてるってことはないという。じゃあ、なんのために仕事中も監視されてるんだと聞けば、掘った跡を埋める作業ってのは危険が多いから、その指示出しと怪我人が出た場合に備えて監督が常駐してるだけとのこと。監視として配置されてるわけじゃないってことらしい。つまり、オレの思い違い、勘繰り過ぎ。
「いまオレが逃げたら、誰が怒られるんだ?」
「誰も怒られたりはしない。ただ、制裁を喰らうだけさ。」
「誰が?」
「オレとか、いまのグループの班長もやられるかもな。」
連帯責任か……。
「なんで黙ってた? ま、臭わせてはいたと思うけど、制裁なんて過激な言葉は聞いてなかったぜ?」
知ってしまったからちょっと思案してしまうが、知らなければなにも気にせず逃げ出してたんだ。
「いや、単純に言った方がいいのか、言わない方がいいのか、判断しかねただけさ。特にまだ一ヶ月やそこらの付き合いで、こっちのことまで心配してくれるとは思わないしな。」
「そうだな。誰がするかよってんだ。」
「な?」
ちっとも心配しないってわけじゃないが、ここで否定しても却って男に期待させてしまうだけだ。男が連帯責任だと言えばオレが追い詰められ、オレが逃げると言えば男が追い詰められ……やれやれ、おかしな話だ。
「嘘だよ。くそッ、聞かなきゃよかったぜ。」
オレは心底参ったというようにガックリと項垂れてみせた。
「そんなふうに言ってるが、実のところお前、オレを恨んでるだろ?」
「え?」
それは本当に意外な言葉だった。
「オレがチクったせいで、あんな厳しいグループに編入されたんだ。」
ああ、そういうことか。
「ん? でもお前、あそこで働いてる割にゃあ、なんかそんな堪えてねえみてえだな。」
「い、いや? 凄い疲れてるよ。ほら、昨晩だって食堂で寝入っちまったくらいだし。」
「ああ、そうだな。」
こういうのは本人があまり意識できないのが問題だな。
「だけど、別に恨みに思っちゃいない。」
「そうか。」
男がどこまでオレを警戒してるか判らないから、あまり刺激するような真似はしない方がいいだろう。
「一つ気になったんだけど、もし、仮に誰かが逃げる気のない奴の名前を挙げて、そいつに逃亡の意志があるってアッガスさんに言ったらどうなるんだ? 要は、虚偽の申告をしたらってことなんだけど。」
「昔、そういう嘘を申告した奴がいて大問題になったからな。それ以来、そんな話は聞いたことがないが、もし嘘の申告をすれば、間違いなく借金とか関係なくやられるだろうよ。」
「大問題っていうと?」
「嘘を吐かれて監督たちにやっつけられた奴が嘘を吐いた奴をやっつけたのさ。その事件のせいで作業所内は荒れたし、あのときばかりはみんな監督連中に反抗的になったな。」
「結局、監督たちはよく確かめもせずに、逃亡の意志ありって告げられた人間に制裁を喰らわしたわけだな?」
「そうだ。ま、いまなら調査はされるんだろうが、もし嘘がバレたらそいつは監督からだけじゃなく、仲間からも吊るし上げられるな。」
「あんまり迂闊なことを言わない方がいいみたいだな。」
「当たり前よ。誰かのつまらん一言で大惨事になるんだ。偉い奴ばかりじゃないからな。なにがどう作用してなにが起こるか判ったもんじゃないんだ。」
「どうやらここはオレが考えてる以上にヤバいとこなようだな。」
「ふつうにしてりゃ、なにもヤバくはない。なにか仕出かそうとしてるから、ヤバいとこだと思っちまうんだ。」
しまった。“ ここがヤバい ”ってのは不用意な言葉だった。
「そうだな。悪さをしようとするから、いけないんだ。」
「そういうことよ。」
そういうことではないんだがな。悪さをしてるのはオレたちから金を抜いてる奴らの方だぜ。目の前の男は、なんだか考え方があべこべになってるようだった。労働者のくせに、まるで資本家側のような物言いじゃないか。
それから見張りの話にも少し触れてみたが、見張りについての情報は皆無だった。姿さえ見えないんじゃ、それも仕方ない。でも、今晩ではっきりしたことがある。
「ネルソンさんは知らんかもしらんが、オレは見張り役の一人を知ってるぜ。」
男はオレの言葉に少し面喰ってるようだった。よく判らないってとこか? 当人が判らないなら、別に教えようとも思わないけど……お前が十五年間、こうやって新入りを見張ってきたんだろ?
「オレは明日、ここを出る。」
男はさらに面喰ったような顔をした。「本気か?」と男が言う。
「ああ、本気だ。今日は酔ってもないし。」
オレは角材から腰を上げて、ケツに付いた木屑と砂を払った。
「オレは明日の晩には出る。これはアッガスさんに言っても嘘にはならんぜ?」
これ以上、情報を得ようとしても警戒されて動きづらくなるってのが目に見えてるからな。
男が小屋に戻ったら、その足でオレはここから逃げる。




