9-7(215) 酔った
男にオレの逃亡の意志を仄めかすような話をした翌日から、オレはこれまでとは違うグループに編入された。オレにそれを伝えた男に編入の理由を尋ねると、「これから入るグループの方がいまより稼ぎがいい」からだそうだ。「そのぶん借金の返済も早くなるだろう」と男がニヤリと笑った。もう返済の意志がなくなったオレは当然編入の話を断ったのだが、もちろん聞き入れられることはなかった。
やることはこれまでと同じつるはし役だったが、そのグループには監視員が付いていて、グループの尻を叩くもんだから、休憩も満足に取れず、一日の仕事が終わるころにはみんなヘトヘトになっていた。僕も特別な身体でなければ、疲れでグッタリしちまってたことだろう。
オレの周りの奴らは、話す元気もないといった感じで山を下りると、水を浴びて身体をサッパリとさせて、それから用意された晩飯を搔っ込むと部屋へ戻るなりベッドに入って寝てしまった。
「お前は今朝からだから知らねえだろうが、オレたちの朝は早い。お前も早く寝な? そうしないと身体がもたんぜ。」
親切な男がオレにそう声を掛けてくれた。
なるほど、賃金が高い分、やることもたくさんあるわけか。
まだ夜八時前だというのに、明かりは消され、真っ暗になった部屋の中、男五人の寝息が響く。オレは暗闇を見つめながら考えた。なぜ、逃げる話をチクられたのに高給取りグループに編入されたのか?
監視付きになるから動きにくくなると考えた?
それとも、稼ぎが良くなるのだから逃げるなってことか?
もしくは、ヘトヘトに疲れさせてなにも考えさせず、行動を起こさせないようにするため?
勤続十五年の男は誰になんて言ったんだ?それによって、オレがいまここの連中からどれくらい警戒されてるかが変わってくるはずだ。逃げるつもりだと伝えられていれば結構な度合いで警戒されてるだろうし、もしも賃金が低いことに不満を持ってる程度に伝えられていればまるっきり警戒されていないと考えられる。
むむ……。
ギシ、ギシ、ミシミシ……。
木建ての梯子の軋みを気にしながら、オレは三段ベッドから下りて昨日まで寝起きしていた部屋に向かった。時刻は八時少し過ぎ。この時間ならまだみんな起きてるはずだ。
部屋には男が一人いるだけだった。
「すいません、ネルソンさんは?」
勤続十五年の男の名はネルソンといった。
「ああ、ダニーか……ネルソンなら、まだ食堂にいるんじゃねえか?」
「ありがとうございます。」
食堂か。どうせまた安酒を煽ってるんだ。そのくらいしか、ここでの楽しみなんてないんだから。
一階に下りて、食堂の扉を開ける。
大広間。
食堂にはまだ多くの労働者が居残り、カードをしたり酒を飲んだり、楽しそうに過ごしていた。きちんとした食事に酒……この二つを与えられて、みんな当初の不満を忘れさせられちまってるんだ。
広間を見回せば、酒を飲みながらカードに興じてる男の姿をすぐに見つけることができた。
「ネルソンさん。」
オレが横合いから呼び掛けると、男は露骨に厭な目を向けて「なんだ?」と尋ねた。
「ちょっといいかい?」
オレは暗に男と二人で話がしたいと伝えた。この場には昨日までの仲間もいるし、周りも含めればもっとたくさんの人間の目と耳がある。ここではあまりでかい声で話もできない。
「おい、いまはカードやってんだ。用があるならあとにしろや。」
同じテーブルでカードをやってる者が口を出した。その言葉を聞いて男はオレを見ながら肩を竦めてみせた。ふう、まったく。
「判ったよ。カードが終わるの待ってる。」
そう告げて、オレは別のテーブルから椅子を持ってきて男の傍らに腰を掛けた。
「おいダニー。まだ寝なくていいのか? あそこは朝が早いだろ?」
またお節介の声。
その声の主の方を見て、ニヤっとだけ笑ってみせると、そいつは面白くなさそうに舌打ちした。
昨日まで一緒に動いて働いてた仲なのに、逃亡の話をして一夜明けてみればこのザマか。これまではそれなりにオレのことを兄ちゃんだ坊主だなどと可愛がってくれてたのに。
なんだか虚しくなっちまったから、オレは男が飲んでた安酒のボトルを手に取った。
「ちょっともらうぜ?」
そう断ってからボトルを咥えて熱い酒を喉に流し込んだ。喉に胃にジーンときやがる。久しく忘れていた感覚。オレはこいつのせいで道を踏み外したんだ。
「おい、てめえ。酒瓶からそのまま飲んでんじゃねえよ。」
男が珍しく凄みを利かせた声で叱責する。そう、この男は大抵のことは容赦するが、こういうことや危険を伴う馬鹿をしたときにはちゃんと怒るんだ。ホントに、炭坑に埋もれさせるにはもったいないくらいまともな奴なんだ。
「悪かったよ。」
オレは素直に謝った。ボトルを煽ったのは、男の周りの小うるさい連中をからかってやりたくなったからってだけなんだ。
「これで新しいのをまた買ってよ。」
これまで働いた分の手取りの給金全額である十五クーをポケットから取り出して、テーブルに置いた。
「これだけあれば、これよりイイ酒が飲めるぜ? それに、これはオレがここに来てからいままで稼いだ手取りの金全部だ。ホント、素晴らしいよ。一ヶ月以上休みなく働いてポケットの中に十五クーしかないんだぜ? なあ、笑えるだろ?」
オレはまたボトルを煽った。もうこのボトルはオレんだ。このボトルの中の琥珀色の液体のせいで、ここまで流れて来ちまったんだ。オレはこの安酒に復讐するつもりでグイッとやった。
ぷはぁッ。
ういぃぃ。
安酒のクソったれには勝ったぜ。
酒が回って気分がイイ。もうボトルに酒が残ってないってのが悲しい。周りの連中もイイ飲みっぷりだとオレを囃し立てた。ふ、こういう雰囲気は大好きだ。ところがどっこい、もう酒がないんだ。いくら盛り上げられたって、しようがない。
あとは椅子に座って大人しくカードが終わるのを待つとするさ。
周りの喧噪が次第に遠くから響くような感覚。みんなの笑い声がオレの中で幸せの音色に変化して響くよう。じわじわと頭が麻痺してくる。
ふう、やっぱりなんだかんだ疲れてたのかな?
このまどろむ感じ……目を閉じて、オレはそのなにか幸せなものに包まれた感覚に身を任せた。
う~ん、むにゃむにゃ。




