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9-2(210) 乞食

 警察署で紛失届を出したが、警官からは諦めろと言われた。そんなこと言われなくたって、とっくに諦めてる。ただ、自分に腹が立つだけさ。オレだって夜中に路上に寝転がって鞄を放り出してる奴がいたら、出来心が働かないとはかぎらないんだ。



 警察署を出ると、もうほとんど歩く元気もなかった。

 喉の渇きは本当に耐え難い。すさまじい渇きのなかで飲む冷たい水の味には、どんな美酒もかなうまい。紛れもなく、水は生命の源だ。明日から酒はやめるぞ。少なくとも、深酒はするまい。もう、こんな惨めな思いは真平御免だ。



 フールの街は今日もご機嫌なのに、オレときたら身動きが取れないんでまたトボトボと公園に戻ってきてしまった。雨もすっかり上がり、さっきまでは一っ子一人いなかった公園も賑やかさを取り戻している。時刻は午後三時を過ぎたころだろうか。

 朝、路地裏で起きて、公園に来て、また寝て、雨にやられて、警察署に行って、また公園に来て……。



 くそッ、なにがリリス鉄道だ、なにがケルン軌道だッ。どんなに交通機関が発展したところで、お金がなければ、一キロほども移動できないじゃないか。たったの五クーあればアパートに辿り着けるものを、歩くとなりゃあ、どう見積もっても三時間以上かかる。元気があれば歩けないこともないが、いまはそんな気力ありゃしないんだ。お金が必要で、無闇に使う必要はなくて……ただ、太陽が照りつける日の往来で喉の渇きを潤すための一杯の飲み物を、アパートで本を読みながらコーヒー片手にくつろぐひとときを、芝居や音楽を観るための休日を手に入れるだけで、人生は充実するッ。

 そのほかのイベントは、お金のアレじゃあなく、天の恵みだ。

 みんなお金でしたいことがありすぎて、頭がおかしくなっていやがる!



 乞食だッ。乞食をするぞッ。

 幸か不幸か、ここには知った人はいない。

 それに、さっき警察署からここまで歩いてたときだって、道端には何人かの乞食がずぶ濡れになってだらしなく頭を垂れてたじゃないか。お金を寄越されたって、礼の一つも言わず、ただああして項垂れてるんだ。あいつらはずっとああして暮らしてきて、これからもそうしてくんだろうが、オレは違う。ほんの一瞬、ほんの五クーだ。汽車代だけ手にすればもう足を洗うんだ。そう、ほんのわずかの間だけ、なにもせずにお金を貰うっていう山賊染みた行為に片足を突っ込むだけ。アパートに戻れば、明日のパン代くらいはあるんだ。あとは仕事場の知り合いに拝み倒して、給金が出るまで凌げばいい。

 ふん、どうにかこうにか生きる道筋が見えてきたじゃないか。

 ああッ、それにしても、乞食をするのがこうも難しいだなんて、一体、誰が知ってるってんだ?



 さあッ、まずは立つんだッ。

 いつまでもふつうを装ってたって、誰も見向きもしてくれやしないんだ。この糞まみれのジーンズを見せて、お恵みをッて決まり文句を吐いてやりゃあ、そりゃもうイチコロよ。



「あんちゃん。暇そうだなぁ?」



 意を決して立ち上がろうとしたオレに声を掛けてきたのは、作業着姿の初老の男だった。チッ、誰かと話すにはまだ頭が朦朧としてるってのに、なんなんだ?



「よかったらこれから一緒に仕事をしないか?」



 唐突な話だったが、もしすぐに金になるんだったら飛び付きたい気になった。とはいえ、いまのオレの身体は使い物にならないんだ。



「……いいです。」



 ちょっと思案したが、きっぱり断った。



「身体を動かして働くってのはいいぞぉ。」



 そう言いながらブンブン腕を回す男。



「いや、二日酔いだから無理だよ。」



「なに、いますぐ働こうってんじゃないんだ。仕事は明日から、住むとこも飯も用意してやる。なあ、あんちゃん。あんちゃんみたいな若いのがこんなとこでフラフラしてんのはもったいないぜ?」



 なんだ、ちょっとした小遣い稼ぎじゃなくて、本格的な仕事のお誘いなわけか。



「いえ、明日は自分も仕事ありますから。」



「チッ、なんだよ、仕事してんのかよ。」



 男はそう吐き捨てて去っていった。

 悪いな、爺さん。オレは本来、こんなところでフラフラしてる人間じゃないんだ。仕事の誘いならほかのゴロツキにするがいいさ。



 まもなく、オレは安息の地を背にして、大通りへと飛び出した。



 乞食を始めてしばらくはオレもがんばったんだ。小金を持ってそうな男や女に声を掛けたが、どいつもこいつも汚い物を見るような目をくれるばかりでオレの言うことを無視するもんだから、もう疲れてきちゃってね。声を掛けるより、道端に御座でも敷いてお金を放ってくれるのを待つ方がいいんじゃないかとか、全然上手くいかないから気持ちばかり焦っちゃって。



 また日が落ちる。



 すみれ色の空に浮かぶ赤い雲。大通りをゆく人たちの姿もいまは影が濃くなり、昼間よりはだいぶ暗くなってきていい塩梅だ。後ろめたさは明るさの前に怖気づくが、夜の闇に紛れて消え失せる。



 夏の余韻を残す季節だから夕暮れの時間帯が長くって、すっかり後ろめたさを消し去ることはできないけれど。それでも乞食をがんばったんだ。過ぎゆく人、過ぎゆく人に声を掛けた。もう人を選んじゃいられないってね。金を持ってそうな奴にも、オレと同じで金を持ってなさそうな奴にも。なのに、一向に成果は上がらない。声掛けに夢中になってるときはいいが、ふと我に帰るとやはり惨めな気分になった。

 一体、なにがいけないっていうんだ?

 俄か乞食とプロの乞食はなにかが違うんだろうか?

 回らない頭を使って、オレは乞食の様子を観察してみることにした。

 見れば、昼間よりも御座の上のお金が増えてやがるじゃないか。



 悪魔が囁く。あいつの御座の上の金をかっさらえばいいじゃないか。



 生唾を飲み込む音が耳の裏に響く。

 あの御座の上の金は真っ当な金じゃないんだ。あの金はあいつが稼いだ金じゃない。あの中にはオレの取り分だって含まれてんだ。なんといっても同じ乞食じゃないか。

 五クーだけ。

 五クーだけだ。

 あとの取り分は残しといてやるからさ。

 金を放る素振りでもって金を取れば、周りも乞食本人すら気付きゃしないだろう。

 そして、乞食の前に歩を進める。

 こいつにとって金は天の恵み。天からは雨が降るばかりじゃない。覚えときな、天だって気紛れに逆上することもあるんだ。



「あら、坊や、そんなとこでなにやってんの?」



 ドン!!



 心臓が張り裂けるかと思った。



声のした方を見ると、そこには行きつけの賭場で給仕をしてる中年女のエミリーさんが立っていた。



 オレがもう少し老いてたら、きっといまのエミリーさんの声で心臓をダメにしてしまったに違いない。それくらい、いま、胸が痛い。



「エミリーさん……。」

 聖母を前にした敬虔な信者のように、オレは路上に膝を着いた。

「ちょっと、ダニー? どうしたの?」

 エミリーさんが驚いている。

「お金を……貸してください。」

 そして、頭を下げた。

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