9-1(209) 厄日
9章になります。
ダニー編です。
これまでの話の流れをぶった切るように思われるかもしれませんが、三人の視点で進めていますので、ご了承ください。
5章よりクズクズしい内容になるかと思います。
下品な言葉や汚い表現、クズ人間が苦手な方はご遠慮ください。
鬱展開などではないです。
よろしくお願いします。
ポポロ市の隣、フロア市でも最大の都市フール。夜も更けてなお客引きの女や老婆がそこかしこに居座る街角を、深夜に酔って徘徊していたのは覚えている。
ポポロ駅へ向かう汽車もとうになくなり、家に帰ろうという発想すらなく、どこへというわけでもなくひたすら歩いた。確か、薄汚い路地裏、なにかの店であろう縞模様の廂の軒下に敷かれたベニヤ板を見て、その上に倒れ込んだ。そうだ、そのときはなぜか、そのベニヤ板が自分のためにしつらえられた寝床だと思ったんだ。
ひんやりと漂う空気が心地良い秋口の夜明け。日が昇るまでに誰かが声をかけ、あるいは揺すって起こそうと試みたのだろう。夢か現か、様々な人が呼ぶ幻影を幾度となく見た。そして、寝返りを打った拍子に、体の節々に感じる痛みのためにようやく目を覚ました。
視界の左右には建物の影、その隙間に小さな四角い空が開けている。身体を起こそうと地面を見ると、見覚えのあるボロのベニヤ板。廂の縞模様は橙と白の縞柄で、どうやら喫茶店であるらしい。
昨晩はずいぶん酒を飲んでしまったからな。固い路上で寝たせいか、肩はこわばり、背中と腰の痛みもひどい。そのまま真っ直ぐ起き上がることもままならず、体勢を変えると、目の前には括約筋が弛緩した痕跡が並んでいるじゃないか。鹿のそれのように丸っこいのや、黒光りする重量のありそうな物が眼前にあることもさることながら、なぜ外に飛び出しているのが判然としない。だが、確実に言えるのはこれらはオレが出した物だということだけだった。
これが酒がもたらす悦楽、高揚の末路。酒の神バッカスに身も心も委ねてしまえば、世の中に怖いものなどなにもなくなってしまう。まったく自己というものを失い、三途の川でさえ鼻歌交じりに渡れようというものだ。
視線を狭い路地から見える大通りの方に転じれば、暁に霞む街を行き交う人々。誰かにこの有様を見咎められれば大変だが、路地裏という場所が幸いし人目もなく、罪悪感も恥らいもわずかにしか感じない。この薄汚れた路地裏と大通りを隔てて、昨日と今日の境界線がある。大通りに一歩踏み出せば、新しい一日の始まりだ。ジーンズは確実に汚れていた。オレの出した物も生地に絡み付き、幾分かは乾いていた。さすがに下着を見る勇気はなかった。
目の焦点は合わないし、頭にも鈍痛が走っている。それに、まだ眠い。だけど、さすがにこのベニヤ板をもう一度ベッドにしようという気にはなれなかった。立ち上がらなければならない。これは指の隙間から零れ落ちようとする人間の尊厳ってヤツを完全に落っことしてしまわないための闘いなんだ。
ジーンズの汚れを気にしながら、オレはフール駅西口公園へ向かった。この公園には朝夕となく、長い一日を途方に暮れて過ごす人たちが必ずいる。だから、社会の底辺にしがみつくように生きているいまのオレにはまるでホームグラウンドのように親しみの持てる場所だった。
今日は日曜日。土方の男衆に加え、清掃員然とした中年の女たちが夜も明けきらぬうちから活動を始めている。公園の植え込みの隅々には残飯やボロ布、新聞紙や雑誌などの塵芥が捨てられていて、それに鳩やカラスが群がり、ベンチには酔いつぶれた人たちが寝転がる。そして、それらを無情にも追い払う女連中。これからお天道様が顔を出すんだ。ここにも朝がくるぞ。日の目を見れない奴らは地下にでも潜ってな、ってね。
最も、公園内でも人目に付き難い場所に居住する宿無しだけは別格で、彼らが占拠する一画にだけは威勢のいい女連中も近寄らない。
明けの明星が輝く空の向こうから、フール駅を出発する汽車の走る音が聞こえてくる。さらにその彼方には赤く滲んだ光が棚引き、それは次第に明るさを増して、街全体に斜陽が射す。こうして夜明け前の静寂は打ち破られた。
公園に辿り着いたオレは、頼りない足取りで水辺へと向かった。人の目を盗んで汚れたジーンズを脱ぎ、続いて下着を脱ぐと、また汚れたジーンズを履いた。誰にも見咎められないように行動するのは不可能だった。なんの用が公園にあるのか知らないが、いろんな連中が辺りをウロウロしてるんだ。半ば捨て鉢になって下着を洗おうと試みたが、すぐやめた。この下着はもう再起不能だ。オレはみんなに倣って、使えなくなったボロ布を植え込みの下に隠した。
人目を気にしながらだったから、これだけの作業ながら疲労させられたし、それにだいぶ時間も経ってしまった。衣服はボロボロ、身体も頭もボロボロだった。ここまでは一端の人間になるためにがんばっただけ。ボロボロだけど人間になれたオレは、とりあえずベンチで眠ることにした。仰向けになると空が眩しい。いまや街は残酷なまでに明るい日常の顔に化粧され、そこにはもはやオレを慰めてくれる淡く優しい夜の表情はなかった。
二度目に目覚めたのは正午ごろ。
教会の鐘の音が聞こえるから、大方そんなとこだろう。
まだ光が目に染みる。アルコールで焼けた喉も渇いている。公園内の井戸水を汲もうとしたが、運悪くポンプの故障だとかで水にありつけない。自然と視線は公園内を流れる小川に向くが、さすがに汚れた川の水で口を濯ぐ気にはなれなかった。アテにしていた水を口にできず、すこぶる気分は悪い。とはいえ、じっとしていても始まらないので、もう帰っちまおうと思ったときだった。
!!!
昨日まで肩に提げていた鞄がないッ? なんてこったッ。あの中には財布や仕事道具、小説、アパートの鍵やらいろいろ入ってたんだ。鞄がないとたちまち困ったことになっちまうッ。
居酒屋に置いて来ちまったのか、路上に打っ棄ってしまったのか、心当りがありすぎて困る始末。とりあえず、今朝まで寝てた路地でも探そうかと思ったが、そこへ今度は唐突な大粒の雨。
ちくしょうッ。今日はなんだってんだッ。
汚れた恰好でずぶ濡れになってしまっては汽車に乗るのも気が引けるから、公園内にて雨宿りを強いられることに。木陰に突っ立って雨が過ぎるのをじっと待つ。公園から人の気配が消える。ときどき、通りを走る人影が見えた。
しばらくするとみんな傘を持った人たちが通りに見られるようになった。最早誰も傘なしで無様に走ってたりはしない。
惨めな気分が降って湧いてきた。そうさ、一丁前の人間は雨の日には傘を差すもんだ。ところがオレはどうだ? 傘もなければ傘を買う金もないときてやがる。
結局、二時間ほど木陰に佇んだだろうか。雨が止み、路地に行ってみたが鞄は落ちていない。そもそも起きたときに鞄があったかどうかが判らないし、居酒屋から持って出たかも定かでない。それにここに寝っ転がってから何時間過ぎた? もうベニヤ板もなければ、オレが出した物も片付けられていた。誰かが清掃したんだろうが、目の前の喫茶店には悪いことをしたと思う。
「まったく、不細工なやり方だッ。」
寝転がってるときに聞こえた声。誰かが確かにオレに声を掛けたんだ。きっとそいつが、オレが正体不明になってるのをいいことに鞄を取って行きやがったんだ。取ってくなら財布だけにしろよ、いや、その中のお金だけにしろよ。ほかの物に盗人の役に立つ物なんてありはしないんだから。アパートの鍵だって、盗人にとってはただの鉄屑にしかならない。ホントに、不細工なやり方だ。全然スマートじゃないッ。きっといまごろ、お金以外のガラクタはどこかのゴミステーションの奥底に沈んでしまってんだ。
くそ、それでもとりあえず、警察署に行かなきゃな。
くそ、今日は厄日だ。




