1‐6(19) いい友? 悪い友?
年の瀬も近づいたある日、玲衣亜の部屋のドアが少しだけ開いていた。おや、珍しい。玲衣亜の部屋は基本、立ち入り禁止。もちろん覗くのも禁止。ふだんは隙をまったく見せていないのに、今日はどうしたのかしらんとドアの隙間から覗いてみると、玲衣亜さん、鏡台の前に座っておめかししていらっしゃる。
玲衣亜も女の子らしく化粧に興味をもってんだね。いままで化粧っ気なんてまったくなかったのにッ。
娘の成長を見守る父親のような心境で玲衣亜の様子を観察していると、第六感でも刺激しちゃったのか、玲衣亜がサッと振り向いた。目がギンギンに見開いてるんですけど。
あわわ。僕はドアを閉めて玄関へ走ると、そのまま階段を駆け下りた。
アパートの外に出て、三階の玲衣亜の部屋を見上げてみると、ゆっくりと鎧戸が開いて窓から玲衣亜の顔が出てきた。僕に向けられた感情のない視線が怖い。なんだか離れていても殺気が届いてきてるんだけどッ? 特に悪いことをするつもりはなかったんだけど、罪状としては覗きに相当するわけ?
む~、僕はきついお灸を据えられることを覚悟して階段を上った。足が超重いんだけど。
玄関のドアを開けると、玲衣亜が仁王立ちで立っていた。
「ああーッ。」
バタンッ。
思わず叫び、乱暴にドアを閉めた。それからドアの前で深呼吸をして、再びドアを開ける。
ああッ、まだ仁王立ちの玲衣亜がいるッ。心臓が跳ねたが、僕は咄嗟に口元を押さえて悲鳴を飲み込んだ。次の瞬間、僕は玲衣亜に襟首を掴まれ、捻り上げられた。ぼ、暴力反対ッ。
「ちょっと、なに大声出してんのよ? ビックリしたじゃない。」
ちょ、近い、近い。そして睨んでる顔もよく見ると可愛いッ。け、化粧マジックだッ。唇が濡れて艶々でとってもセクシーなんだもんッ。キスしていい? いや、命を粗末にするもんじゃないッ。すいません、とにかく謝ります。
意外にも玲衣亜はそれだけ言うと、踵を返してリビングに戻っていった。もう終わりかな? と思いながら、ドキドキしている胸を押さえる。これは恐怖のドキドキと恋愛のドキドキを完全に履き違えてるね。僕の胸も案外ポンコツなんだからッ。
いそいそと玲衣亜のあとを追ってリビングに入る。リビングでは、ストーブの上に置かれた鍋がクツクツと音を立てている。その傍らでは、僕と玲衣亜のやりとりなどまったく見えない聞こえないといった風情で、伊左美がのんびりとコーヒーを飲んでいた。まるで春の木漏れ日の中での昼寝のような、平穏な時間を満喫しているんだろう。そして、玲衣亜がその平穏を破る雷を落とすんだ。伊左美、ごめんよ。
「ところで、二人は三日後にダンスパーチーがあることは知ってる?」
「ん、ダンスパーチー?」
知らないと首を振る僕と伊左美を見て、やっぱりかと、玲衣亜は軽く溜め息を漏らした。どうやら雷を落としたいわけじゃなかったらしい。玲衣亜、どんどん大人になってゆくね。
でも、ダンスパーチーは初耳だ。三日後ってすぐじゃん?
「でも、オレらには関係ないだろ?」
伊左美が当然とばかりに言う。
確かに、まったく話聞いてないしね。
「それが関係なくないんだよね? だって、三人で参加するって支配人に伝えてあるんだもの。」
「ええ? それいつの話だよ? 聞いてないんだけど。」
「一ヶ月前くらいかな? ごめん、言うの忘れてた。っていうか、厨房の方にはパーチーの話っていってないの?」
「さあ、もしかするとなんか通達みたいなのとかあったのかもしんないけど、オレらそんなの見ないしな。」
「うん、誰かが話してるのも聞いたことないし。」
玲衣亜がさも呆れたように天井を仰ぎ見る。
「それに、ダンスなんかしたことないんだけど。」
伊左美が心配そうに尋ねる。そりゃそうだ、だって、ダンスパーチーなのに踊れないなんて、あんたらなにしに来たの? って言われそうじゃん。
「まあ、踊らなくてもいいんじゃない? その場に顔を出すことに意義があるんだから。」
ふ~ん、そんなもんなんだ? いや、玲衣亜の言葉を鵜呑みにするのはマズイ気がしないでもないな。
「面白いの?」
「面白いに決まってるじゃないッ。それこそ飲めや歌えの大騒ぎだってのにッ。」
「だったら行くッ。」
「でしょ?」
おお、伊左美って案外単純なのかな?
でも、これで点と点が繋がった。いまのおめかしといい、先日の居酒屋での妙にお高くとまった言葉遣いといい、どれもダンスパーチーへの仕込みッ。そして、背後には強力なブレーンの存在が垣間見える。これまで化粧っ気のなかった玲衣亜が、急に上手い具合に化けられるはずがないッ。誰だ? 玲衣亜に化粧と余計な言葉遣いを教えたのはッ。化粧のレクチャーは今後もお願いしたいが、言葉遣いについては教えるのを止めてもらわなければッ。
玲衣亜の話によれば、彼女にいろいろとレクチャーしているのはルーシーさんという店舗の女性らしい。店舗の店員の中でも特に仲が良いようで、一緒にお昼に出かけたり、帰りに一緒に買い物に行ったりと職場の外でも付き合いがあるみたい。
いままで職場の話題で盛り上がっても、玲衣亜がルーシーさんとの仲について一切話さなかったのは、ある日突然洗練されたニュー玲衣亜を見せて、僕と伊左美を驚かせたかったから、だってさ。といっても、驚かせることへの執着は強くなくて、バレたらバレたでいいやくらいに考えていたとか。ま、これはバレてしまったことに対する言い訳かもしれないけど。
翌日、仕事を終えた僕と伊左美は、店舗の勝手口がよく見える場所に隠れて、玲衣亜が出てくるのを待ち伏せした。玲衣亜と仲の良いルーシーさんがどんな人物か確かめるためだ。先日の初任給の祝いの席にはいなかったし、昼間も店舗に行ってみたけど、誰がルーシーさんだか判らなかったからね。
「でも、マジで尾行なんてするの?」
待ち伏せしている間に、伊左美が待ち伏せにとどまらずに尾行もしようと提案してきたんだ。僕としては疾しいことをしているみたいで気が引けるんだけど。
「ま、ルーシーさんを特定するのがメインだけど、ついでついで。玲衣亜をどこに引っ張り回してるのかも、知っておきたいし。」
「要は心配ってことね? お父さんみたい。」
「誰がだよッ。つっても、玲衣亜はなんだかんだで世間知らずだし、割かし素直だから、心配っちゃ心配なんだけど。」
「素直?」
「人が好いっていうか、無暗に他人の言うことを信じちゃうとこがあるんだよ。」
「なるほど。」
「あの変な言葉遣いとか、もしかしたら玲衣亜がからかわれてるだけかもしれないじゃん?」
「ああ、それはちょっと思うわ。」
「だから、尾行して、チャンスがあれば偶然を装って玲衣亜たちと遭遇して、ルーシーさんの真意を探るとこまでやりたいな。」
「それはちょっとやりすぎじゃないですかね?」
「ま、そこはケースバイケースだな。」
この世界にきたころは飽きるまで続いた薄暮の空も、十二月ともなるとすぐに暗くなる。姿を隠すには都合がいいけど、じっと立っていると寒さが沁みる。工場と店舗の終業時刻の差は約一時間。ああ、もうストーブが恋しいわぁ。
「来たッ。」
伊左美が声を殺して言った。見ると、玲衣亜と一人の女性が一緒に勝手口から出てきたところだった。勝手口前の街灯のおかげで、女性の顔もなんとか視認できる。
「あれがルーシーさんか。」
「たぶん。」
「ここで会ったが一〇〇年目だなッ。」
「いや、ちょっと違う気がするけど。まあ、気持ちは判るけども。」
予想どおり、玲衣亜とルーシーさんの二人は連れ立って夜道を歩き始めた。伊左美が隠れていた小路から勢いよく飛び出し、尾行を開始する。
二人を見失わないようにしながら、かつ見咎められないように距離をとる。二人が道を曲がるたびに、やや小走りで建物の角から顔を覗かせ、二人の様子を窺う伊左美。気分はまるっきり探偵だね。だけど、しばらくして、違和感を覚えた。二人が向かっているのは繁華街とは反対方向。二人の目的地の見当がつかない。伊左美に僕が感じた違和感を伝えるが、「尾行すれば自ずと答えは出る」とかなんとか悟ったようなことを言う。さらに尾行を続けていると、厭な予感が脳裏を掠めた。
「ん、ちょっとストップ。」
伊左美が後ろを歩いていた僕に待ったをかける。玲衣亜とルーシーさんの二人が立ち止まったのだ。ああ、アレは、二人の向かった先にあるあの建物は、僕たちの住んでいるアパートじゃないかッ。
「あの建物になんかあんのかな?」
伊左美が的外れなことを言う。おい、まだ探偵気分でいるのか?
「ん? ルーシーさんと別れたみたいだぞ?」
まあ、ルーシーさんをアパートに招きはしないよね。招くなら僕たちに一言あっていいはずだし。
「あッ、玲衣亜が中に入ったッ。どっちを追う?」
どっちを追う? じゃねーよ。
「とりあえず帰りますか?」
「んん?」
「だってそこウチじゃん。」
「ええッ? あッ。」
僕は唖然とする伊左美の肩をポンッと叩いた。
伊左美は僕の方に振り向くと、罰の悪そうな顔で「じゃあ、飲みに行く?」と言った。いつもの伊左美じゃないが、その「じゃあ」がどこに掛かるのかぜひ教えてほしいんだけどッ。聞けば、まあ、同僚に飲みに誘われて夜遅くなりましたってことにしたいらしい。
その夜、僕たちは飲みに行った。
帰宅後、事前に準備しておいた言い訳を玲衣亜に披露すると、意外にも玲衣亜はそれをあっさりと信じてしまった。特に怒られることもなく、なんだか拍子抜け。
っていうか、素直すぎだろッ? 玲衣亜さん、眩しいわぁ。僕の心の汚れの一切が明るみに出るようだわぁ~。すいません、もう嘘は吐きません。ええ、もちろん嘘ですけどッ。




