7-27(177) 早起きした
翌朝、空が白んでくるころに目が覚めてしまった。
伊左美は隣でまだ寝ている。薄暗い部屋から廊下に出たのち雨戸を開けて、そのまま庭に下りてみた。庭の草花が朝露に濡れて気持ち良さそう。朝顔の蕾が開きかけている。これはもうすぐ咲きそうだな。
視線を転じればその先に白壁の蔵が建っている。あの中に獣人の二人が監禁されてると思うと、迂闊に近寄れもしない。蔵から少し右に視線を移せば、屋敷の塀を隔てて、隣家のおマツさんの家から昇る白い煙が見える。きっともう朝餉の支度でもしてるんだろう。玲衣亜も起きてるかな? 昨晩、玲衣亜にはいろいろと世話が必要だからってんで、彼女はおマツさんに引き取られていった。おマツさんは世話焼くのが好きだからね……って、そうじゃないね。そんなレベルを越えておマツさんに厄介事を押しつけることになるんだから……って、そうじゃないね。その言い方だと玲衣亜が厄介者みたい。と、とにかくおマツさんはイイ人なんだ。
頭上にはまだ蒼色の空に星が輝き、お月さんも鈍く光っていて、彼方が朝焼けに染まっている。はあ、と溜め息が漏れる。こんな早く起きたからといって、なにをするでもなし、それに昨晩はあまり寝付けなかったから、なんとなく瞼が重い。かといってもう一度寝ようという気にもなれなかった。このヒンヤリとした、新鮮な朝の空気に触れたかったのかもしれない。昨日の汚れがすべてスッキリ落ちて、新しい一日が始まる。そんな感じ。もしかすると、今日という一日はとても厭な一日かもしれないけどね。ふう。
クエー、クッ、クッ、クッ、クッ……近所の鶏がお目覚めみたい。ンモォ~……近所の牛は鶏に起こされたかな? んんッ、僕もグッと伸びをする。あ~、目が覚めたッ。ちょっと将来開く予定のお菓子屋のことでも考えようかな。
僕が早起きしてから約二時間後。
獣人の女が朝食のために蔵から出された。
獣人の女を連れ出しに行ったのは虎さんと伊左美の二人だった。
彼らが戻ってくるとき、一緒にいたのは女だけ。男の方はいなかった。
二人はとても難しい顔をしていた。
女の方は伏し目がちにオドオドしていた。
獣人の男が事切れていたと二人は言った。
あの蔵に閉じ込められた者は死ぬ、と僕は思った。異世界人を連邦から救出したときもあの蔵の中で人が死んでたからね。ま、あれは虎さんたちが犯人だったけれど、今回は誰が犯人なんだ?
女の話によれば、男は極度の麦アレルギーだったらしい。
昨晩の麦のお粥が原因で息を引き取ってしまったんだと、女が言う。へ~、そんなこともあるんだね。小夜さんが男に粥を食べさせようとしたとき、女の口には猿轡が嵌められていたから、その事実を教えようにも教えられなかったんだってさ。となると、これは事故ッ。圧倒的事故ってことで解決ッ。犯人探しはまだ始まってないけど終了ッ。男には申し訳ないけど、僕たちも男の処遇には困っていたから、さっさとくたばってくれて気が楽になったってのが正直なところだ。なにしろ女の方はいざとなれば勝手に生きていくんだろうが、男の方は生き長らえたとしても、今後の人生お先真っ暗な感じだったしね。ただ、処刑しちまうのも気持ちの良いモンじゃないし、かといって生かしても彼の僕たちへの恨みが尾を引きそうだし。だから、この場は膿を早めに取り出すことができたと思ってヨシとしておこう。誰も口に出しやしないけど、たぶんみんな僕と同じように思ってんじゃないかな? ここで誰かが男の死を悼むような言葉を発したならば、僕はまた一から人間って奴を勉強し直さなきゃならないな。
そして今朝のご飯は麦のスープに漬物。
小夜さんに一万ロッチをやられたから、虎さんも極貧モードに突入した模様。虎さん、これは麦のお粥だよと言い張ってるけど、どう見ても麦のスープなんだよね。麦なんてちょろっとしか入ってなくて、ほとんど水分じゃないかッ。こういう生活に直面すると、ポポロ市での暮らしが恋しくなる。何気に虎さん、裕福だったからね。虎さんの屋敷でこんな食卓を囲むのは初めてだわ。居候してるのが気不味くなってくるね。
「虎さん、結構もう余裕ない感じ?」
胡瓜の浅漬けをパリパリ食べながら、虎さんに尋ねてみた。
「いや、まだまだ余裕だよ。ただ、小夜さんへの支払いが今月末から始まるから、ちょっと質素倹約に努めようかと思って。」
「なるほどね。」
余裕があるのならいいのだけれど。ああ、胸がキュンキュンする。痛いッ。久しぶりに感じるこの焦燥感は……仕事がないことへの焦りッ。仕事をしないとッ、とは思うけど、一度始めちゃうとほかのことがなかなか手に付かなくなるんだよね。職探しをしたってすぐに見つかるアテもなし、しばらくは麦のスープ生活を続けながら様子を見る? あッ、あと二〇日には異世界のお菓子屋の給金が手に入るんだった。伊左美と玲衣亜の分も含めれば結構な額になるはず。あと、三〇一号室から僕たちがせっせと貯めたお金も取って来なきゃね。それに大家さんに出て行くことも伝えなきゃ。どうせ僕は暇だから、葵ちゃんの協力次第でそうした細かいことはどうとでもできるな。もう三〇二号室の獣人たちは逃げたあとなんだし。
ズズッと茶を飲んでると、部屋の片隅からなにか奇妙な音とともに、「オウ、オウ、オウ」と小夜さんが冷静に驚いてる調子。見れば、獣人の女が顔を床に向けて咳込んでいる。何事かと聞けば、女が麦のスープを戻してしまったのだという。昨日の自白の強要に加えて、今朝の仲間の死亡と続いたからね。小夜さんも昨晩ちょっと言ってたけど、あの女、早くも精神的にだいぶ参ってきてるのかもしれない。
結局、獣人の女には白湯を与えてから、蔵に戻って眠ってもらった。彼女はまだ利用できるかもしれないから、身体を壊されてしまうわけにはいかないんだ。虎さんといろいろと話したんだけどさ、議会とか異世界の警察へ向けて、連邦の現状と異世界潜伏の事実を彼女に白状してもらえば、もうこの獣人の件は僕たちの手から離れるんじゃないかってね。そうなればもう僕たちがリスクを負うこともなくなるし、お菓子屋開店の準備も進められるしね。ただ、それには小夜さんの協力が不可欠だから、実現可能かどうか判らないけども。また法外な金額を請求されては虎さんが首を括ることになりかねないからね。
「靖、ちょっといいか。」
小夜さんからお呼びがかかる。なになに?
「あの女のことなんだが、結構もう参ってるっぽい。」
「そうだね。ま、今朝は仲間の男が死んで、その直後だから仕方ないよ。」
「そう、だから、いまのあの女にはフォローが必要で、それに一番適任なのが靖だと思うんだ。」
「え? 僕?」
「え? じゃないだろ。なに惚けてんだ? いま、ここにいる人間であの女をフォローできるのはお前くらいしかいないんだ。適任というか、むしろ靖意外はあの女のことが嫌いだろうから、フォローとか無理でしょ。」
「なるほどね。判ったよ。とにかく、彼女の気が狂わないようにってことでしょ?」
「そういうことだ。頼むな。……そうそう、このことは誰にも言うなよ。」
「なんで?」
「あの女に靖のフォローが振りだと勘付かれないためさ。」
おお、それって結構大変そう。これはみんなが嫌ってる人に優しくしてみんなから嫌われるパターンかな? いやいや、みんな大人なんだから、そんな幼稚なことはしないよね。
小夜さんとの話が終わり、まもなく玲衣亜が虎さんの屋敷にやってきた。なんでも、アキちゃんとお金のことで話があるっていう。ま、要は昨日の話の続きってとこだね。それにしても、昨日は金を出せッて凄んでたのに、本日はとても落ち着き払ったご様子。昨日は獣人との諍いのあととかだったから興奮してたんだろうね。ただ、目が座ってるから心中穏やかではないのだろうけど。
アキちゃん……みんなに寄ってたかって苛められて、下手すると本当に精神壊れちゃうかも。




