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1‐5 (18) 初給料だッ、お祝いだッ

 昼休み。天気がいいので、中庭の片隅で昼寝を決め込もうとしたところに『旦那』がやってきた。

「よお、今日が初給料だったっけか?」

「うん、こないだのは勤め始めたばかりってんで、今回分に繰越になってたからね。」

「そうか、おめでとうッ。」

 そういって手を差し出してくる『旦那』。僕は戸惑いながらも一応、その手を握る。

「そしたら、今日は初給料のお祝いをしなきゃならねえな。」

「お祝い?」

「おおよ。当りめえじゃねえか。」

「そんなもんすか。でも、ちょっと相談しなきゃ、一人じゃ決めかねるんで。」

「『パンダ』だろ? いいよ、『パンダ』にも言っとくからよッ。」

 そう言って去っていく『旦那』。ちょ、おい、待ってよッ。

「『パンダ』にゃまだ言わなくっていいよッ。僕の方から言うからさッ。」

『旦那』の背中に向かって叫ぶ。

「判ったよッ。じゃあ、仕事が終わったらそのままオルトワール通りへ行くから、そう伝えといてくれやッ。」

 まったく、人の話を最後まで聞かないんだからッ。



 厨房での勤務が終了して、僕とは『旦那』が出てくるのを外で待つ。『旦那』はいままさに『旦那』になるべく白シャツに袖を通しているのだろう。

 昼間の天気から一変、どんよりとした曇り空。吹く風がときどき冷たい。でも、懐はちょっと温かい。みんなも給料を貰ったばかりとあって、いつもより足取りも軽く厨房を出ていく。目の前の通りに目を移せば、工事現場の出入り口前を手持無沙汰にウロウロしている女が数人。給料をもった夫の帰りでも待っているのだろうか。中には二人の幼い子と手を繋いで立っている女もいる。家族で外食でもするのかしらん、となんとなく思う。ところが、職人の一人が外へ出ると、その横合いから女がその職人に絡み、サッと給料をくすねるとそのまま逃げていく光景を目の当たりにして、愕然とした。給料を奪われた職人は肩を落として、力なく歩き始める。うわあぁ。

「女にも恐ろしいのがいるもんだな。」

 隣で伊左美が感心したように言う。

「いまのなんだったの?」

「そら、アレよ。旦那が給料で飲み散らかすのを見越して、待ち構えてたのさ。」

「ああ、なるほどね。」

「たぶん、いま、この辺でウロウロしてたりする女は大体同じじゃない?」

「この界隈はろくでなしばっかしかッ。」

「まあ、夜になっても街が明るかったしね。行くアテがありゃあ、遊び人は家には帰らんよ。」

「そんなもんじゃなかろう?」

「そんなもんさ。」

 僕の友人たちが堅実なのばかりだったからね。そういうろくでなしの心境がよく判らないんだよね。大体、僕は二十三歳にして遊ぶことにも遠慮がちになってしまったというのに、伴侶を見つけておいてなお遊ぶなんてふざけてるッ。女房を大切にしないなら、結婚なんてしなけりゃいいんだッ。ありゃ、これって独身男のひがみですかね? まったく、同じ土俵に立っていなけりゃなにも言えないなんて、寂しいもんだね。

 そうこうするうちに、子連れの女は男に縋りつくも足蹴にされ、道端に倒れ伏した。起き上がろうとする女の肩が小刻みに震えている。子供たちが女の背中をさすっている。そして、子連れの女は起き上がると一言二言子供たちになにごとかを言って、また手を取り合ってトボトボと歩いていった。

「あれぐらいになりゃあ、男も立派なもんだね。」

 伊左美が今度は男の方に感心している。

「うん、あれはもう手に負えん。」

 どこの世界にもいろんな奴がいるね。こっちの方が人数が多いから、よっぽど非凡で優秀なろくでなしがいそうだけど。



 間もなく『旦那』と『マンガ』が出てきたので、肩を並べてオルトワール通りにある居酒屋へ向かう。たち店先で働く従業員は仕事の上がりがやや遅いので、遅れて居酒屋に来る手筈になっている。居酒屋への道すがら、僕と伊左美は『旦那』と『マンガ』に通り沿いにある商店などについて尋ねる。彼らも僕たちの世間知らずには慣れたもので、あれが「おかず屋」だの、あれが「洗濯屋」だのと一々丁寧に説明してくれる。やっぱり自分で探索するより知ってる人に聞くのが一番手っ取り早いや。



 サン・ルーン通りの緩やかな坂道を下って、オルトワール通りに出ると、通り沿いの街灯の輝きが増した。赤や緑、黄色に光る看板が怪しげな雰囲気を醸し出す繁華街。まだ時間が早いからか、柄のよくない男たちに交じって、身なりのいい紳士や婦人も通りを歩いている。しばらく歩くと、僕たちがめざす居酒屋が見えてきた。

 五階建てのアパートの一階。やや地味なランプにぼんやりと照らされた出入り口。室内も暖色系の光に包まれて、こないだ玲衣亜と入った居酒屋と比べると随分落ち着いた雰囲気。こりゃあ、『旦那』の野郎、給料日だからって贅沢しようって魂胆だな。玲衣亜たちと合流するまで、僕たちは酒と前菜でチビチビやっていた。



 仕事や家庭の愚痴で盛り上がっていたところに、『旦那』が尋ねてくる。

「ちょっと小耳に挟んだんだがよ、おめえら、店舗の女と一緒に住んでるってなぁ、ホントなん?」

 ああ、玲衣亜のことかな?

「ま、一応な。」

 伊左美が答える。

「一体、どういう関係なんだよ?」

「アレはただの幼馴染さ。」

「うん、同郷の仲間ってとこかな。」

 僕たちの返事に、『旦那』は驚愕の表情を浮かべている。

「どうやって三人暮らしが成り立ってんだよ?」

「へ?」

「ふつう、若い男と若い女が一つ屋根の下にいりゃあ、間違いが起こるじゃないか。」

「うん、なにも起こらない方が間違いってもんさ。」

『マンガ』が参戦してくる。

「ふつうなら、そうかもしらん。でもな。」

 伊左美はそこで言葉を切って、グラスを煽る。

「ありゃあ若く見えるかもしらんが、中身はおばちゃんだからね?」

「おばちゃん?」

「そうよッ、アイツと話しているとオレの呪われた能力が発動するんだ。」

呪われた能力? なにそれ? 仙道ゆえの力かなんかですか? ほら、『旦那』と『マンガ』も伊左美の言葉に疑問符を浮かべているじゃないか。

「オレ、若い女と話していても、おばちゃん的な要素を発見しちゃうと、もうその女がおばちゃんになった姿しか見えなくなっちゃうんだよね。若い姿を目の前にしていながら、オレの瞼の裏にはそいつがおばちゃんになった姿が映っているって感じさ。ああ、この女の子はこういうおばちゃんになるんだなぁって。」

「おお、そりゃまた難儀なことだな。」

「そうッ、もうダメなんだよ。おかげで女を作りたいってなかなか思えなくなっちゃってッ。」

 あらあら、せっかく容姿に恵まれているのに、変な呪い? のせいで女には恵まれないのね。ま、嘘かホントか判んないけど。とりあえず、ざまあみろってとこだな。ああ、でも同意せざるを得ない部分は少なからずある。

「確かに、前まで判らなかったけど、最近は玲衣亜の中のおばちゃんがチラチラ目につくようになったわ。」

「おお、ようやく気づいたかね?」

「ええ、ようやく僕の目にも見えるようになりましたッ。」

「だろ?」

「うん。」

 はっはっはっ、と僕と伊左美で大いに笑う。

「オレは玲衣亜さんは若さ溢れる女性だと思うよッ。」

「うん。可愛らしいとか健気って言葉が似合う女性だねッ。」

 え、どうしたの? 二人とも玲衣亜とそんなに接点ないはずだよね?



「ごきげんよう、みなさん。お待たせして申し訳ありませんでしたわ。」

 突如、頭上から聞き慣れない調子の聞き慣れた声が落ちてくるッ。同時に背筋に冷や汗が、肩には衝撃が走る。肩に、玲衣亜の手が置かれたのだッ。いや、置かれただけじゃないッ。めっちゃ掴んでるッ。もう一方の手は伊左美の肩に置かれ、伊左美は額に油汗を滲ませている。

「伊左美さん、やすしさん。お話が弾んでいたようですけれど、一体、なんのお話で盛り上がっていたのかしら?」

 やめてッ。手に力を入れるのも、その淑女めいた言葉遣いもやめてッ。反省したらいいのか、笑ったらいいのか判らなくなっちゃうッ。

 ブホッ。

 隣から吹き出す音が聞こえたかと思った瞬間、伊左美の苦悶の声が響く。伊左美、キミは悪くない。たぶん。

「『旦那』さんに『マンガ』さん? お二人には随分この二人がお世話になっているようで、感謝しておりますわ。」

「いえ、お世話だなんて、こちらこそ。」

 対面の二人もふだんは見せない慇懃な態度で応対している。それから玲衣亜は、自分たちが田舎から出てきたばかりであまりこちらの礼儀作法もわきまえずご迷惑をかけているのじゃないかとかなんとかいろいろ話したのち、僕たちに話を振った。

「ところで、伊左美さん、靖さん。もうお勉強なさったと思いますけど、こちらの街ではレデーファーストといって、女性を尊重する習慣があることはもちろんご存知ですわよね?」

「いや、聞いたことがな……痛ッ、痛いッ。」

 伊左美がまた玲衣亜の餌食になる。

「え? まるでいまの私のお話を聞いていなかったかのように聞こえたのですが? いま、レデーファーストっていう習慣があると言ったばかりですのよ。ねえ、靖さん。人の話に耳を傾けないって、とても失礼なことじゃありませんこと?」

「ありますことです、はいッ。」

 ブフッ。

 あッ、いま玲衣亜も吹き出したよね? ね? 自分だけズルくない?横では顔を赤くして俯いた伊左美の肩が上下に激しく揺れている。もう、それ笑いを堪えられてないよね?

「では、靖さんはご存知ですわよね?」

「ええ、さっき知りましたッ。」

「っつか玲衣亜もいま笑ッ……くぅ、くっそッ.」

「い、いえ、知ってました。レデーファーストッ。」

 僕は怖くて反抗できない。なまじ、今回は僕が悪かったと認めちゃってるから余計にね。伊左美はよくがんばってるよ。

「では、ここの今日のお勘定は?」

「男性陣が支払いますッ。」

「よくできましたッ。」

 肩に置かれた手が頭に乗せられ、まるで幼児に対するように撫でられる。恐怖に顔が引きつり、全身に鳥肌が立つ。隣の伊左美も大人しくしている。ふだんは言い返す伊左美も、今回はさすがに自分に非があると認めているのだろう。そうこうしているうちに『マンガ』が立ち上がって椅子を引き、玲衣亜に席を勧めた。

「ありがとうございます。さすが『マンガ』さん。どこぞの田舎者とは精神が違いますわ。ほほほほほ。」

 そう高笑いしながら玲衣亜はペチペチと僕と伊左美の頭を叩く。くっそ、我慢、我慢。今日だけは、間が悪かったんだよ。僕は僕自身のことより、伊左美のことが心配になった。伊左美は果たして正気でいられるだろうか? おーい、伊左美、息、してるかい?



 結局、そのあとに脂の乗った鶏肉だとかいろいろ食べたのに、上手く味わえなかった。玲衣亜ほか女性陣はご満悦な様子。どうやら、この一件で玲衣亜は女性陣の中で株を上げたみたい。逆に僕と伊左美の株は下がったかな? いや、同情票でトントンってところだろうか。それに、あんなことがあっても僕たち三人の接し方に変化はなかった。玲衣亜の尾を引かない性格っていいよね。あ、もしかするといつもの伊左美との痴話喧嘩くらいに思っているのかもね? 被害は男性陣の財布だけ。とりあえず、今回のは一件落着だわ。

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