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7-3(153) にゃ

 お隣さん――自宅の隣の住戸に住む人。出勤時、帰宅時に遭遇したら挨拶を交わすだけの人。回覧板を回してくれる、または回す人。ふだんなにをしているか判らないし、特に興味もない。集合住宅においては、隣の部屋に大勢の人が押し寄せて大声で騒ぎ出されると苛つく。喧嘩とかやめてね。居るのか居ないのか判らないくらいが丁度いい存在。



 男の子とともに早引きした僕が手を引かれてやってきたのは、僕たちが入居するアパート『メゾン・ド・ポポロ』の三〇一号室のお隣、三〇二号室だった。

「ここが兄ちゃんのおウチかい?」

 確認してみると、コクリと頷く。

 ここでちょっといろいろと情報を整理しなければならなくなった。

 なにしろ、ウチのお隣さん、出てくるのをよく見かけるのは決まって若めの女性だ。いつもフードを目深に被っているからそんなにはっきりくっきりご尊顔を拝したことはないんだけど、勝手に美人さんだと思っている。だって、挨拶したときの声音がなんとも儚く、細く、消え入りそうで、女の中の女って感じがするん。なのに、一緒に五、六歳くらいの男の子が住んでいる、だと? これはもうあの若めの女性がこの子の母親ってことで間違いないだろう。んで、父親は出稼ぎに行ってるか部屋で内職でもしてんだろうか? お隣から男が出てくるのを見たことがないからね。つまりつまり、整理した結果ですね、なにも期待するな靖ッ、とこうなった次第でして。へえ。



 ガンッ、ガンッ。



 男の子が自分でここがウチだと言うのだから間違いはないと思うが、一応、軍人さんとの約束もあるし、責任を全うすべく三〇二号室のドアを叩く。ここで顔を出した人に男の子を受け取ってもらってようやく任務完了というわけ。完了したら荷物置いてスリッパ買いに行かなきゃッ。



「はーい。」



 ドアの向こうから響いてくる女の声。お母さんかな? ドアを開けて出てきたのはいつも見かける若めの女性だった。今日はお出かけじゃなくって部屋の中にいるというのに、やっぱりフードを頭にすっぽり被せている。ちょっと違和感。とはいえ、別に隣人がどんな人だろうと僕には関係ないので、気にせず事情を話して男の子を渡す。



「ありがとうございますにゃ。」



「にゃッ?」



 襲いかかるクッソ違和感。同時にいつぞやの記憶がフラッシュバックする。僕はこの語尾に聞き覚えがある。デジャブだわ。

「いま、にゃ、とか言いましたよね?」

 幻聴かもしれないので、念のため尋ねてみる。

「い、いえ。言ってませんにゃ。」

「わおッ。」

「アキちゃんにゃあ言ってるじゃん。」

 確かにいま、この女性はにゃと言った。男の子の証言から幻聴でないことも証明された。そして、この女性は自身がにゃと言ったことを隠そうとした節がある。

「やっぱりにゃあ言ってますよね?」

 隣人に興味など微塵もなかったのだけど、うん、実際いまもどうでもいいのだけど、ちょっと若い女性と話すのを愉しみたいくらいの興はそそられた。美人にドギマギされるとついからかいたくなっちゃうのは人類……もとい男性共通の行動原理だから、仕方ないね。

「言ってませんよ?」

 ニコッと微笑んだ裏に怒りが浮かんでいるように見えたから、これ以上追及するのは控えておこう。

「ああ、すいません。空耳だったようです。では、失礼します。」

 男の子も引き渡したし、失礼しようとしたところ、「ちょっとお待ちください」と言われたので、玄関口で待つことに。トタトタと廊下を引き返していく女性。男の子もそのあとに付いていく。と、そのとき、バタンッと派手な音とともに女性がこけた。あれかな? ない段差につまづく奴かな? 女性は素早い身のこなしで体勢を戻すと、まるでなにごともなかったかのように歩き始めた。

 ただ、体勢は元に戻してもフードが外れてしまってたんだ。



 戦慄が走った。

 女性の頭には、猫か犬か狐か知らないけど確かにそういった類の耳が二つ並んでいたんだ。見てはならないものを見てしまったね。

 女性は戻ってくると「すいません、いまはこんなものしか用意できませんが」と言いながら、袋詰めのお菓子を渡してくれた。今度は僕がお礼を言って、三〇二号室をあとにしようとしたときだった。



「そうそう」



 そう言って、女性がまた僕を引き留める。さっきのお待ちくださいには感じなかった恐怖を、いまは感じる。女性の目が怪しく光る。



「なにも、見てませんよね?」



 ホラーッ。ホラー展開だこれッ。この場は見てないと言って難を逃れられるものの、馬鹿な主人公は誰かにこのことを話して三〇二号室の女性に亡き者にされるんだ。そうに違いない。伊左美に相談しよッ。って馬鹿ッ。いきなりフラグを立ててどうするんだ? このことは墓場まで持ってくんだ。

 いやいや、だが待てよ。この場合の見てませんよね? という質問は言い換えれば誰にも言わないでねということであって、それはこの女性の優しさなわけだ。どうしても秘密にしておきたければさ、そんな回りくどい質問で言質を取るよりも、もっと確実な方法だってあるわけだしね。

 つまりつまりこの女性は優しい人だから、なにも見てない設定を生涯貫き通せば大丈夫なはず。ってそれができないからホラーなんだろぉ?

「え? 見てないって、なんのことですか?」

 とりあえず現状の窮地を脱するためにすっとぼけておく。

「ん、さあ? それなら、いいんです。すいません、長々とお引き留めして。この子をウチまで送っていただき、ありがとうございました。」

 時間はそんなに経っていないはずなのに、なんか長い間三〇二号室の玄関前に突っ立ってた気持ちにさせられた。はあ、疲れた。



 三〇一号室に戻って考える。

 果たして三〇二号室の女性は僕のことを三〇一号室の住人だと認識していただろうか?

 おそらく認識していなかったと思われる。だって、判ってたら、あらお隣の……くらい言いそうなものじゃん? きっといつもフードを目深に被ってたから、通路で遭遇しても僕の顔なんてただの一度も確認したことなんてないんだろう。ふう、ちょっと安心。でも、あの女性も、まさか秘密を知ったのが隣人だとは思うまい。

 とりあえず、さらに気を落ち着けるために紙袋を用意した。



「お隣さんの耳はロバの耳ッ。お隣さんの耳はロバの耳ッ。お隣さんの耳はロバの耳ッ。」



 袋の中に向けて叫んでみたけど、全然スッキリしないんですが。あれ? そういえばこの話で穴に向かって王様の耳はッて叫んでた奴って、スッキリしたんだっけか? どうなったんだっけ? ま、いいや。



 しばらくしてが仕事から帰ってきた。

 僕はとりあえず伊左美を部屋へ呼んでから告げる。

「ねえ、いまから話すこと誰にも言わないって約束できる?」

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