5-23(149) 出発
家を出ることを両親に告げた日の翌週の、よく晴れた日曜日。僕は母とともにポポロ市を訪れるため、汽車に乗った。動輪がレールを蹴る響き、揺れる車体、煙を吐き出す音、時折り聴こえる蒸気を上げる甲高い音。いつもは遠い世界の響きのように聴いていたが、いま、僕は人生で二度目の汽車に乗り、知らない土地へ向かっている。遠い遠いところだ。僕がまだ六つだったころ、家族で母の実家を訪ねるために乗車して以来か。その当時の記憶は断片的なものしか残っていないが、汽車にもワクワクしたし、母の実家にもワクワクしたことだけは確かだ。
母はなんだかテンション高め。客車内で母はポポロ市……といっても、母がいた当時のだが、その街の様子や、母が若いころの話を聞かせてくれたりした。母がポポロ市を出てケルン市にやってきたのは十六年前のことらしい。ポポロ市に行商に来ていた父と恋愛して、両親に父を紹介したのち、ケルン市に帰る父にそのままくっついて来たのだとか。かつてはさぞかし胸を痛めたであろう人生の一大事ともいえるエピソードを、なんと軽々と話すことか。これも時の流れの為せる業か。「ダニーは知らないかもしれないけど、あのころの父さんはそれなりに恰好良かったんだよ」と母が冗談を言から、「夫婦で仲良く歳取ってんだから、いいことだよ」と返すと、「ホントよねッ」と笑う。車窓は街、田畑、田園、山間、渓谷、河川といろいろな風景を映し、乗車から数時間後、汽車はようやくポポロ市駅に到着した。
ケルン市よりも大きく賑やかな街中。母にはこの街が懐かしいようだった。僕も一度来たことがあるが、当時六歳だったので断片的な記憶でさえも覚束ない。「ここに来たときのこと覚えてる?」と尋ねられても、「まあ、少しは」としか答えられない。母方の実家までの道すがら、母が楽しそうに昔はここはこうだったああだった、あそこは昔から変わらないとか紹介してくれる。なんだかいつもの母とは異なる雰囲気をまとっているみたい。その声音は“お嬢さん”という感じに若々しく思えた。
しばらく歩くと少し臭ってきた。
「これこれ。海の方から風が吹くとね、海沿いの工場の煙が街の方に飛んできて、ちょっと臭いのよ。」
僕がなにか言うより早く母が説明する。
「工場ってなんの工場があるの?」
「ええっと、製鉄とか紙を作る所とか、あと造船なんかも国内有数の規模らしいわよ。」
「へえ。」
ケルン市には山間に大きな採石場があるが、やはり山間部と沿岸部とでは産業が違う。ポポロ市の方がケルン市よりもずっと都会だな。
しばらく歩くと、大通りの果てに工場と海が見えてきた。
結局、海の方まで行くことなく、僕と母は母の実家を訪れた。家屋の外観は記憶にあるモノと同じようだが、全体的に小じんまりしてしまった印象。以前、あれほどワクワクして玄関を通ったのが嘘のように、この家屋がどこにでもある家屋の一つでしかないといった感じ。部屋内に通されても、当時は迷路のように見えていた廊下はただの廊下でしかなくなっていた。なんとなく、あのころは僕の背が低かったからなんだろうなと思う。
母の実家には祖父母に加え、母の兄夫婦とその息子と娘が暮らしていた。一応、挨拶に顔を出しはしたものの、僕に彼らを頼る心算はないからな。母は彼らに対し、僕がいざ彼らを頼りにしたときにはどうか手を差し伸べてやってくれとお願いしていたが、そんなことで頭を下げる必要なんてないんだぜ? いざとなったら窃盗団にでも入ってやるさ。それでも立つ瀬がなければ、強盗団にでも入ってやるさ。ふ、窃盗団か。なんて間抜けな響きだろう。海坊主も……いや、自ら窃盗団を名乗る馬鹿もいないだろうから、そう呼ぶ周りの奴らが間抜けなんだな。
久しぶりに会ったからか、祖父母も母の兄も愛想良く僕たちを迎えてくれて、母の頼みも快諾していたが、いざとなるとどう豹変するか判ったもんじゃないからな。仏の顔は三度までかもしらんが、親類縁者は初手から掌を返すかもしらん。人間不信? 違う、そんな大層なもんじゃない。ただ、できるだけ周りに迷惑をかけたくないだけさ。人と関わりになりたくない? どうだろう? そんなことはないと思うが。それに、過去の僕とお別れする目的があるのに、親戚が近くにいたんじゃ足枷になりそうだし……。もう、やめだやめだ、自己分析なんて無意味なことはやめておけ。そんなのは他人のやることだ。
母の実家への挨拶を済ませて、今度は隣町まで足を延ばす。母の故郷であるポポロ市で暮らすのはいいのだが、親類のすぐ隣近所で暮らすというのは耐え難いからな。隣町では下宿先を決めて、それから仕事で世話になる大工の親方に挨拶に行った。親方というのは母の友人らしいが、友人程度なら母と頻繁に連絡を取るわけでもないだろうし、ある程度の距離を保つことができるだろう。親方とは仕事を始める時期などについても話し、約一ヶ月後の七月から親方の下で働くことになった。
そして、一ヶ月後、出立の朝がきた。
大きなショルダーバッグを肩に引っ掛け、父と母に見送られながら家を出ると、カルロスにフィッツ、ほか数名の友人に加え、ダニーさんが家の前にいた。どうやら見送りに来てくれたらしい。こういうときに集まってくれると、素直に嬉しくなる。みんなにそれぞれ別れを告げて、いざポポロ市というとき、遠くにお姉さんが家屋の壁に寄りかかって立っているのが見えた。お姉さんには僕がこの街を離れることは伝えていないから、ジークさんから伝わったのだろう。来てくれたんなら、そんな離れたところに突っ立ってなくたっていいのに。軽く手を挙げると、お姉さんも軽く手を挙げた。ふん、意外と照れ屋さんなのかな? 近づいていくと、僕が挨拶するより先に「ハロー」と声をかけてくるお姉さん。でも、なんだかご機嫌斜めな様子。
「ここ出ていくんだ?」
「うん。」
「聞いてないんだけど。」
なるほど、事前に教えていなかったから拗ねてるのか。
「だって、葵さんって神出鬼没じゃん? 伝えたくてもどこにいるのか判んないんじゃ、伝えられないよ。」
「そりゃ、そうか。」
そう言ってお姉さんの口元が綻ぶ。
「で、ポポロ市へ行くんだっけ?」
「うん。ウチの母親の故郷なんだ。」
「私も何度か行ったことあるけど、いい街だよね。海が近くて、料理も美味しいし。」
「僕はまだそこまで詳しくないけど、そうなんだ?」
「うん、あそこは魚料理が美味しいんだ。一度食べてみな?」
「うん、そうする。」
それからお姉さんに請われて、僕の下宿先の住所をお姉さんに教えた。お姉さんは僕が仙道であることを知っている数少ない人物の一人だからな。お姉さんとジークさんとだけはなんらかの形で繋がりを保っておきたいところだ。汽車で約三時間。たったの三時間だ。少なくともジークさんには、会いたいときにはすぐ会えるさ。
それから改めてみんなに別れを告げて、ケルン市駅へ向かおうとすると、弟が駅まで送るよと言ってついてくる。ケルンの街までの道すがら、弟は僕のポポロ市行きを憂えるようなことを口にする。そう心配してくれるなよ。ところで、と話題を転じて、今度は僕の方から弟に家の方は任せて大丈夫かと尋ねてみる。正直よく判らない、と弟。
「兄ぃはズルいぜ。一人だけ余所へ逃げてさ。」
「別に逃げるわけじゃないさ。どこで暮らしたって大変なのは変わらないんだ。」
弟の言葉は本心とは裏腹で、本当は自分の将来のために僕が身を引くのだと考えている。これまで弟と話してきた中で、弟がそのことを気に病んでいるのは判っていた。
「でもさ、うるさい親もいないし、夜中遊び回ったって文句を言う奴もいなくなるんだ。そういう暮らし、オレも一度でいいからしてみたいよ。」
あ、これは本音かもしらん。
「馬鹿、そんなもんに憧れんなよ。ガミガミ言ってくれる奴がいるってのがいいんじゃないか。」
「はッ、んなわけあるかよ。」
「ま、じきに判るよ。」
って、言ってる僕も判ってないんだが。これはジークさんの受け売りだ。
「スティーブの好きなカルロスやマトスだって、いまは真面目に働いてるだろ? あいつらの変なとこばっかり真似してないで、ちっとはいいとこも倣ってみればいい。」
「へいへい。」
僕の出立を駅まで見送ってくれる弟。僕たち兄弟は仲が良いといえるのだろうか。ケルンの街に入り、ミーシアとキャシーの姉妹のことを思い出した。あの姉妹は仲が悪いと言っていたが、一緒に暮らしている。僕たち兄弟はふつうに話したりするものの、僕の都合で離れて暮らすことになる。
「じゃあ、父さんと母さんを頼んだぞ。」
駅前の喧噪を背に、弟に別れを告げる。
しばらくこの街ともさよならだ。少なくとも向こうの暮らしに馴染むまで、向こうの暮らしの中の僕が、本来の僕になってしまうまでの間は。
客車の席に腰を下ろし、バッグを脇に置いたところで、ようやく一息吐いた。新天地での生活に対する期待と不安が顔をのぞかせる。先日、母とともに乗車したときのような安心感は、いまはない。
カァン、カァン、カァン……と発車の鐘が鳴ると、やがて汽車が動き始めた。




